第5話
教室に忘れ物をしたからだった。晃が彼女を見つけたのは。
二学期に入り、本格的に受験生として勉強をしようと思い始めた晃は、放課後は毎日図書室で過ごしている。共働きである程度の余裕はあるとはいえ、五人兄弟の塚本家の経済は決して楽ではない。だから晃は予備校へは行かない。だが家に帰ってしまうととりわけ晃になついているチビがまとわりついてくるから、図書室にこもるくらいしか晃には有効な勉強方法はない。
その勉強を終えればいつもはそのまま帰宅する。にもかかわらず教室に戻ってきたのは漫画雑誌を置き忘れてしまったからだ。持って帰って結人に見せてやらなければならないというのに。だから家に帰る前に教室に戻ると、一人黙々と作業をしている由佳がいたのだ。何やら紙を数枚束ねては二つに折って、完成品の上に置く。それを、黙々と。まだ進捗は半分程度というところか。
進路のしおり、という表紙が見えた。明日の進路指導で使うのだろう。それをなぜ指導される側の彼女が作っているのかはわからない。おおかた、担任から頼まれて断り切れなかったのだろうが。
扉ののぞき窓から中をうかがっていた晃だったが、放っておくわけにもいかないし、忘れ物を置きっぱなしにして帰るわけにもいかず、扉を開く。立て付けの悪い古い扉はゆがんでいて、するりと開いてはくれなかった。ガコガコと派手な音に、由佳が振り返る。
「……よお」
何か言おうとした晃だったが、気の利いたせりふなど出てこない、がたがたの扉を開こうと必死の形相だったのを見られて、なんとなくバツが悪い気がした。ごまかすように片手をあげる。
由佳は、反応しない。
「それ、進路のしおりだろ。委員長、一人でやってるのかよ」
晃は自分の席から忘れていた漫画雑誌を取り出す。そのときだった。
由佳が、顔を上げる。
「委員長って呼ばないでって、言ったじゃない」
「は?」
あまりに突然のことだった。晃はきっと、とんでもなく間抜けな顔をしていただろう。
委員長、と呼ぶことで彼女から文句を言われたことはない。少なくとも、覚えていない。だが、これまでに由佳が理不尽なことを言ったことはないと思う。晃が記憶をなくしてからは、どうも目の敵にされているような気がしなくもないが。
そこで晃は気づいた。同時に由佳の方も気づいたらしい。そうだったわ、と額をおさえる。
「そうね……あんた、記憶がなかったのよね」
「ということは、記憶がぶっ飛んでる期間のどっかで言われたってことだよな。つい……最近か」
先週の水曜日から一週間分。楽しみにしていた『ハマグリさん』の放映も含め、きれいさっぱりと忘れてしまっているのだ。その間に言われたことならば、晃が気づかないのも仕方がない。
なるほど、と晃は手を打った。
「そーか、委員長がオレに手厳しいのって、もしかしてその約束忘れて『委員長』とか呼んでるからだろ」
そうか、その通りだ。自分の予想が間違っていないだろうと意気揚々としていた晃だが、しかし、由佳の手厳しい一言で一蹴される。
「違うわよ」
「何でだよ。そんなら何がいけないってんだよ」
「何もかもよ。バカ」
ばさりと切り捨てられてしまってはもう何も言えない。晃はついにあきらめて、黙ったまま『進路のしおり』を折り始める。
「何してるのよ」
「手伝い。委員長一人じゃきついだろ。……って、そうか。委員長って呼んだらまずいんだっけか」
「別にいいわよ。むしろ、それ以外で呼ばないで」
「何だよ、呼ぶなっつったり呼べっつったり、はっきりしねえな」
「今のあんたには呼ばれたくないのよ」
ぴしゃりと言い放たれて、晃は口を閉じる。
B4版三枚のプリントを重ね、折り曲げる。それの繰り返しだった。両面印刷のわら半紙には、去年の卒業生の進路やら体験談やら、いろいろとかかれている。明日の書かされるのであろう進路調査表もある。
受験生は面倒くさい。一応将来のことについては考えている晃だが、結局は「面倒くさい」の一言に集約されてしまう。勉強していればまだ選択肢もあるのだろうが、そうでなければ選択肢は狭まってしまう。とすれば情報を集めて別の手段で進学するか、いっそ就職してしまうか。いずれにしても重要な選択で、本格的に未来が決まってしまうのだ。そんな責任を背負う覚悟を持たなければならないなんて、面倒臭い以外のどんな感想が浮かぶのか。
――だが、今はもっと別の問題のほうが晃の心を重くさせる。
由佳は不機嫌な顔で晃の方を見ようとはしない。少なくとも二週間くらい前までの彼女はここまで冷たくはなかった。晃とはケンカ友達のような関係ではあったのだが、表情がなくなるほどに怒られることは――なかったような気がする。
名前の呼び方が問題なのではないとすると、一体何をしてしまったのか。晃にはわからない。
「あんた」
紙をこする音だけが響く中で、由佳がぽつりと言った。
「帰らなくていいの? 翔吾くん、だっけ。弟くんのお迎え、あんたの仕事なんでしょ」
「ああ、翔吾な。今はオレが受験勉強中だから、隼人に任せてるんだ。浪人できねえからな、うちは。後がつかえてるもんで」
「だったら早く帰って勉強したら? 翔吾くんの保育園に行かないですむなら、かなり余裕を持って家に帰れるでしょう」
「そりゃあおまえだって一緒だろうが。受験生であるっつー条件は一緒だろ」
「あたしは大丈夫よ。ここだけの話、推薦が決まってるから」
「マジかよ」
「柳も一緒よ。あいつも推薦組だもの」
「そりゃー聞いたけどよ。やっぱ、一年ん時からきちんとやっときゃよかったよなあ」
今更悔やんでも遅いけど、と、晃は頭をかく。三年間の努力の違いとはいえ、決まってしまったと聞くとやはりうらやましいものだ。
「だから、さっさと帰りなさいよ」
由佳はあからさまに不機嫌に顔をゆがめる。
「んなこと言ったって、おまえ放り出して帰れるかよ。確かにオレはそんなに賢くはねえけどな、これくらいの単純作業はできるっての」
彼女の顔をのぞき込みながら言うも、彼女はつんとしたままこちらを向こうともしない。さすがの晃も腹の中がむかむかしてくる。それでも彼女は冷たかった。
「一人で十分よ」
「二人でやりゃあ早く終わるだろ」
「あたしはね、あんたみたいな女ったらしに手伝ってもらう必要はないって言ってるの。さっさと帰ってよね、迷惑だわ」
迷惑なのよ。のどにからんだタンを吐き捨てるように、彼女はもう一度言った。嫌悪の表情が晃に向けられる。
――迷惑なのよ。
目の前がちかちかした。
「おま――」
がたん、と、いすが倒れる。
心臓の鼓動が耳元で聞こえているような気がした。指先まで脈打っている。こめかみがぴくぴくとふるえていた。呼吸がうまくできない。
「そういう言い方はねえだろ!?」
「そういう言い方もするわよ! あんたなんかに手伝ってもらいたくはないの。聞こえないの? め、い、わ、く、なんだってば」
まるで汚いものでも見るように、由佳は晃をにらみつける。直後、ふいと下を向いて作業の続きを始める。カサカサと紙がこすれる。
一瞬、時間が止まった。だん、と大きな音が響く。机の上に積まれた紙が揺れる。はらりと数枚、床に落ちた。耳がおかしくなるような甲高い音が教室に残る。
時間と一緒に、詰まっていた息を晃は一気に吐き出した。
「どうしてそうなるんだよ? 確かにオレは一週間分の記憶がねえさ。何にも覚えちゃいねえよ。その間にオレが何かしたのかもしんねえよ。けどな、忘れちまったもんは仕方ねえじゃねえか! なんか文句があんならはっきり言えよ!」
「あんたなんかに話すことなんか一つもないわよ! 知りたいんだったら自分で思い出せば。あたしの口から言うような言葉はなにもないわ!」
「ああ、そうかよ。勝手に怒ってろ。オレは帰る!」
「さっさと帰ってってさっきから言ってるでしょ! もう二度と話しかけないで!」
由佳は、顔を上げようともしない。ひたすら下を向いたまま、紙を折り曲げたまま、激高する様子も見せない。
鞄をひっつかむと、晃はそのまま、倒したいすも直さずに、教室を出た。
「……最悪」
力ない由佳の声が微かに聞こえる。だが、聞こえなかったふりをした。
短気な晃が殴りかからなかっただけでも奇跡だった。理不尽な言い分は、晃をカッとさせるのに十分なものだったのに、だ。相手が女だから、かろうじて耐えた、という感じだった。腹の底がぐつぐつしている。
乱暴に教室の扉を閉めて、歩き出す。だが、三歩歩いたところで、立ち止まった。そのまま、振り返る。
教室の中からは物音一つしなかった。まるで誰もいない、幽霊屋敷のような気さえする。
遠くから合唱部の歌声が響いてきた。音楽に関しては詳しくない晃にも、その曲が明るい調子であることくらいは感じられた。
興奮したせいか、手が震えている。そう、興奮したせいだ。
それ以上の意味があるとは思わないようにして、今度こそ家に向けて歩き出した。




