第2話
「おまえ、頭打ったらしいじゃん」
かばんを置くなりかけられた言葉は、おはよう、ではなかった。
派手な金髪が、にやにやとこちらを見つめている。金髪が地毛なんだ、と言い張る純血の日本人の松江智一。晃の一つ前の席に座る彼は、ジャージにTシャツ姿でうっすらと汗をかいていた。朝っぱらから運動をしたかのような格好だ。
「おまえ、また朝練にまざってきたのかよ」
「おうよ。だいたいオレ、おまえやヤナギと違って引退してねえもん。大学もサッカー推薦でいくつもりだし、高校サッカー選手権も出場する予定」
「ああ、そういえばそうか」
この市橋高校はサッカー強豪校だが進学校でもある。だからサッカー推薦を取った智一だけが今でも部活に残っていた。
キャプテンは二年生だけどな、と冷ややかなつっこみを入れたのは、音霧柳だった。
「見事な判断だよ。智一なんかにキャプテンやらせたら試合以前のところで負けるに決まってる」
「なんだよ、それ。ひでーじゃん、ヤナギ」
智一がぶーぶーと典型的なブーイングをする。それでも柳は慣れたもので、言うことだけを言ったらさっさと本に戻ってしまう。
柳は智一とは外見的にも性格的にもまるで反対側だった。柳は今時黒髪で、制服をきっちりと着込んでいる。その神経質で冷静な性格は、晃とも反対側に位置するものだった。
そんなことより、と柳は晃の方をみる。
「頭打ったんだろ? 大丈夫なのか」
「つーかよ、なんでおまえらんなこと知ってるわけ? オレ、頭打ってから学校来てねえぞ。まさか、ストーカーしてたのか」
「おまえなんかストーカーしてどうするんだよ。何の特にもならないだろ。担任が言ってたんだよ」
「マジかよ」
「マジだぜ、マジマジ。鳴海のやつ、おまえが頭打って入院したっつってさ、あんな頑丈な塚本でも入院するんだから頭打つなよ、とか、わけわかんねーこと言ってたもん」
「ええ……心配ゼロかよ。俺ってそんなに頑丈に見える?」
「見える」
――と、全員の声が揃う。晃はため息をつく。
「……異常なしだと」
「なるほどな。さすがアキラ。怪我がなくてよかったじゃん」
ガハガハと、デリカシーの欠片もない様子で智一が笑う。ちょっとくらい心配しろ、と一発殴ってやろうかと、拳をギュッと握ったが、
「塚本、あんた、ケガの一つもしてないの。おかしいんじゃない、人間として」
それより早く、澄んだ声が響く。日に焼けた肌と短い髪。大きな目をぱちくりさせて、遠野由佳が晃を呆れたように見つめる。
「ふつうはさ、頭を打ったんだったらケガの一つくらいするでしょ」
「いいんちょ、ムダムダ。アキラに人間らしさを求めるなんて、にわとりに空を飛べって言ってるようなもんだって」
「なんだよトモ、それは」
「確かに智一の言う通りね」
「委員長も納得すんなよ」
だって本当のことじゃない。つぶやく由佳の後ろから、髪の長い少女が現れる。大滝美保だ。
「でも、本当に大丈夫なの、塚本くん。頭を打ってケガがないなら、脳に何か障害が出るんじゃあ……」
「おまえだけだよ、大滝。きちんとオレのこと心配してくれるのは」
色白で、今にも折れてしまいそうな少女に、晃は抱きつくまねをしてみせる。本当に、晃の心配をきちんとしてくれたのは美保一人、ということになってしまった。その感謝の意を示したつもりだったのだが。
冗談の通じない男もいる。
「おまえ……それ以上美保に近づくな」
「じ、冗談だっての、ヤナギ」
分厚い本を振り上げられて、ホールドアップの格好で苦笑いをする。晃は、頼み事と冗談は相手を選んでするべきだった、とつくづく思った。大滝美保は、柳の彼女でもある。たとえそれがおふざけの範囲であったとしても、手を出せば殺される。そんな気がした。
あんたもこりないわよね。由佳の言葉に、柳をからかうとおもしろいからさ、と晃は答えた。仕方がねえって、晃はチャレンジャーだからさ。にししと笑う智一だが、柳に本気で殴られるのは智一しかいないという事実を彼は忘れているらしい。
「ヤナギもヤナギよ。冗談くらい察しなさいよね、小学生じゃないんだから」
たしなめるように由佳が柳の背中を叩く。だが険しい表情のまま、彼は一段声を低くする。
「ほかの奴らならともかく、こいつらだけは信用ならないってことは、委員長が一番よく知ってるだろ」
「確かにそうかもしれないけど」
「だから納得するなって、委員長」
二度同じことを突っ込んで、晃はぐったりとうなだれる。一応オレは病み上がりなんだけど、と思うが口にはしない。病んでいる晃などあり得ないと言われるのがオチだ。
「ま、どーでもいいんだけどね。見てる分にはおもしろいから。……と、はい、これ」
「ん、なんだよ、これ」
由佳の手から、紙の束を渡される。B4サイズで、ノートをコピーしたものなのだろう。数枚ごとに付箋が貼られている。現代文、日本史、物理、化学――
「昨日の分のノートよ。必要でしょ?」
「おー、さすが委員長。手回しが早い」
「あんた、どうせあたしのノート、コピーするじゃない。だったら最初から渡しちゃった方が楽でしょ」
「ごもっともで」
うやうやしく頭上に掲げ、どうもありがとうございやす、姐さん、などとおどけてみせる。頻繁に世話になっているが、由佳のノートは晃の命綱なのだ。
「また借りないとと思ってたからさ」
「お礼は購買のジュースで手を打つわ」
「コピー代には足りてねえぞ」
「バカね、コピー代は別料金。百三十円払ってね。ジュースは利子」
「ざけんなー、オレは今月ピンチなんだよ」
「まだ月の真ん中じゃない。何に使ってるのよ、あんたは」
食い物に決まってるだろ、と胸を張ってみせると、由佳はあっそと冷たい視線を送ってくる。晃はごまかすようにそっぽを向いて、パラパラとノートのコピーをめくる。文字は丁寧で整理されていてわかりやすい。さすが秀才様、と、いつもの軽口で褒めようかとした。
だが――
「……やべえぞ、こりゃ」
晃は頭を抱える。智一が怪訝な顔で晃を見た。
「何がやべえんだよ。バカになったのか」
「アホか。オレは最初からバカだ」
「そこは誇るところじゃねえぞ」
「そうじゃなくてさあ……オレ、記憶がねえんだよ」
何を言ってるんだ、おまえは。智一も柳も美保も由佳も、眉間にしわを寄せて晃をみる。
注目された晃は、深刻そうに顔をゆがめて、言った。
「なんか、頭を打った拍子にさ、一週間分くらい記憶がぶっとんじまったんだよ。なんでかよくわかんねえんだけどさ、まあ、いわゆる記憶喪失ってやつ」
「……は?」
と、愕然とした表情で由佳が呟く。一度口を開きかけて、すぐに閉ざし、眉を寄せて俯いた。普段の由佳とは違う反応に、晃は一瞬胃が冷えたような感覚を覚えた。
だが深く考えるより前に、智一が晃の頭をわしづかみにした。
「何だよそれ。記憶喪失って、フツーにあるわけ?」
「掴むな!」
智一の手を振り払って振り返り、睨み付けながら反論する。
「あるんだよ。なんたってオレの中では『来週のハマグリさん』が今週おわっちまったやつなんだからな」
「わけわかんねえよ、そのたとえ」
「見てたのに忘れちまったってことだよ。宇宙怪人ネドベダーがハマグリ一家を襲ってて、どうなるんだって手に汗握るつもりだったのに」
「残念だったなあ、おまえ。それおもしろかったぜ。なんといってもハマグリさんのダンナがなあ」
「言うな、やめろ! DVDが出るまで楽しみにしておくことにしたんだから」
それでもなお内容を告げようとする智一と、それを阻止しようとする晃が、ついに真正面からぶつかった。
「言うなって!」
「言うって!」
二人の距離が一気に詰まる。机の脚がきゅ、と床を擦って鳴った。晃が智一の襟元をつかもうとした瞬間、智一が肩をひねってかわす。代わりに晃の腕をとり、ぐいと引く。晃の足が半歩ずれて、床がきしむ。
中学からサッカーをやっていた二人だが、それだけではない。晃は空手を、智一は柔道をかじっている。ふざけた口を叩きながら、体の反応だけは妙に正確だった。
晃が胸ぐらを押さえに行けば、智一は肘を畳んで内側を締め、外へ逃げる。智一が体を寄せて組みに来れば、晃は腰を落として重心を奪わせない。足の運びはサッカーのフェイントのように軽いくせに、ぶつかった肩の硬さだけがやたら本気で、近くの席の誰かが「うわ……」と息をのむ気配がした。
晃が智一の手首を払って距離を取ろうとした、その瞬間。智一が逆に手を絡めて引き寄せた。無駄に武闘派な彼らのケンカは、今にも教室の机と椅子を道連れにして転がり始めそうな、ほかに類を見ないハイレベルな戦いになりかねなかった。が――
「いい加減にしろ」
静かな声の直後、厚さ三センチ程度の本が二人の頭を正確に打ち据えた。金糸で『ネアンデルタール人の文明と文化』と刺繍をされている豪華な背表紙は、その値段に見合った豪華な音を立てる。
柳の本が、暴れる二人の脳天を直撃したのだ。
頭を押さえて、智一と晃がうずくまる。柳は何事もなかったかのように席につき、はらりと本を広げる。
「柳くん、塚本くんは一応頭を打って……」
「ああ、そうか。んじゃ今ので頭の中がおかしくなったかもな。脳を見てみたら新しい発見があるんじゃないのか」
「それは」
美保が、うっとりと両手をあわせる。
「すてきね。あのきれいなしわがゆがんだりしたら、どんなことになるのかしら」
はにかむようなほほえみが、晃の頭部に向けられる。晃はその視線から逃れようと、あわてて頭の上に手を置いた。脳外科医を目指す美保は、一昨年生物で解剖をやったときに、人一倍楽しそうだった。
恐怖に顔をゆがめながら、まるで現実から逃避しようとするかのように、晃と智一は彼女から視線をそらす。ごまかすように話題を変える。
「んじゃ、あんなクソ進みまくった数学も……」
しゃがみ込んだまま、晃は肩を落とした。
「全部忘れた。ちくしょう、ここ最近珍しくきちんと起きてたのに」
「そういえば、二学期に入ってからあんまり居眠りしてないみたいだもんね、塚本くん」
「普段の行いが悪いからだろ。一週間分の記憶がないなら、百二十八ページから百四十三ページまでを勉強しなおしだな。テストの三日前から全科目勉強し始めて間に合わせるおまえの学力だったら追いつくだろう。これで解決だ」
「冷静に現実を突きつけるなヤナギ~!」
叫ぶ晃に、思い思いの言葉をかける。その半分以上がおもしろがっての発言であることに気づいてはいたが、あえて追求はしないことにした。でないと、あまりにも悲しすぎる。
どうしたものか、とうめく晃の胸ぐらが、ぐいと引き寄せられる。その拍子に首がしまり、ぐえ、とがまがえるのような声がもれる。それでも力に逆らえず、晃は立ち上がった。
由佳が、襟首をつかんでいる。
「あんた、今言ったことは、本気?」
「ほ……ほんぎ……って……」
「ウソ言ってるんじゃないでしょうね」
「んな……ことねえ……ってか……ぐるじ……はなせ……」
つくえをばしばしとたたく。のどぼとけが圧迫されて、肺に空気が入り込んでこない。だが、その前に首の骨が折れそうだった。ふつうの少女とは違って、由佳は女子サッカー部の部長だったからなのか、はたまた元来の実力なのか、いずれにせよ力が強い。大の男がかなわないことがあるほどだから、これは半端ではないだろう。
さすがに晃に死相が出ていることに気づいたのだろうか、由佳が手を離す。のびてしまったシャツの襟首をなおしながら、彼女をそっと見た。
普段の、余裕のある委員長の顔は、どこかへ去ってしまっている。顔面を真っ青にして、しかし、なぜだか怒りに満ちた目で、晃をぎろりとにらみつけている。
「ホントのホントに、記憶がないのね」
「だから、それはオレが楽しみにしてた『ハマグリさん』の内容を忘れちまったことでも証明されたって」
「一週間って、いつからいつ」
「こ、今週の水曜から、先週の水曜くらいまで。はっきりしたことはわかんねえけど、都や隼人と確認したから、たぶんそんなもんかと……」
「今週の水曜も忘れちゃってるわけね、すっかり」
「す、水曜日にかぎっては、目が覚めてからの分はあるけど……」
ずずい、と晃ににじり寄って聞き出していた由佳が、突然興味を失ったようにひょいと体の向きを変える。
そのまま無言で、何か思い悩んでいるような様子で、席へと戻っていく。教室の、黒板がもっとも見やすい前から二番目の席。その席が、委員長である彼女の指定席になっていた。
席に座って、なにやら考え込んでいるようなそぶりを見せ始めた。そんな由佳を眺めて、残された四人はお互いに顔を見合わせる。
「何が、どうしたんだ、あいつ」
「アキラ、何かしたんじゃないのか」
「何でそうなるんだよ。オレは潔白だって」
「でも由佳ちゃん、変だよ」
じっと、由佳の背中を見つめる。
だが、そんなことをしたところで何がわかるわけでもなかった。
チャイムが鳴って、担任が教室に入ってくる。鳴海が教卓に立ったところで委員長が号令をかける。それが朝の始まりで、それが狂ったことは三年になってからは一度もなかった。
だが今日は、美保が声をかけるまで、由佳の号令はなかった。




