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【完結】告白の返事、忘れました~頭を打って忘れてしまった大事なあの日の記憶について~  作者: 木原梨花


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第1話

 意識だけがはっきりした。

 頭がまだ働いていない。後頭部の辺りがずきずきして、晃は眉を寄せた。体のあちらこちらにすったような痛みがある。転んだか、と思いつつ体を動かそうとするも、うまくいかない。何かにぎゅうぎゅうと押しつぶされているような感じがする。

 おかしいと思い、目を開いた。

 顔があった。

 パーツの一つ一つがいちいち小さい。晃ならば片手で握りつぶせそうな頭に、それに見合った大きさの顔。目、鼻、口、耳と、およそ人間には必要だろうと思われるものはそろっている。どれもこれも、晃の親指の爪程度でしかないが。髪は色素が薄いのか、夕日を浴びているからなのか、どちらなのかよくわからないが赤みがかった茶色をしている。

 翔吾だ。晃は気づいた。塚本一家の一番のチビで、確か四歳になったばかり。実の弟なのだから「確か」というのはあまりにも酷いような気もするが、しかし、兄弟の人数が多くてすべてを把握するのが難しいのだから仕方がない。晃とは十四歳離れている、ということだけははっきりと覚えている。ならば間違いない。翔吾は四歳だ。

 どうやら晃はベッドに寝かされているようだった。模様のない白い壁や天井を見るに、自分の部屋ではないようだ。だとすると、ここはどこなのか。

 きょとんとこちらを見つめてくる翔吾から視線をはずす。右の方に顔を傾けると、少女が一人見えた。これもよく知った顔だ。五人兄弟の中での唯一の女の子、都だ。晃の方を気にする様子もなく、黙々と本を読んでいる。文庫サイズの本で、タイトルが半分だけ見えていた。『と蝋燭』。半分しか見えていないので確かなことは言えないが、記憶に間違いがなければ晃の買ったあまり感心できない内容の本だ。都は眉一つ動かさずに読んでいる。

 大体の状況は把握した。晃は何らかの理由で気を失ったままどこかのベッドに運ばれ、翔吾に腹の上に乗られ、都に自分のいかがわしい本を読まれているのだ。

 それらをきっちりと把握した晃は、静かに息を吐き出してから、言った。

「重い」

 その声に、都が顔をあげる。

「あれ、晃、起きたんだ」

「起きたんだ、じゃねえよ。こいつどかせ、こいつ」

 本当は指で示したかったのだが、いかんせん、両手の上に翔吾の足が乗っているので動かせない。うかつに動かすと翔吾が転げ落ちてしまうかもしれない。仕方なしに晃はあごで「こいつ」がどいつなのかをアピールした。

 都は唇を動かさずに「あらら」とつぶやくと、ひょいと翔吾を抱き上げた。ようやく自由の身になった晃は上半身を起こす。と、同時に翔吾が床におろされ、決して広いとは言えない部屋の中を駆けまわりはじめた。

 部屋は腹が立つほどに白かった。あまりものが置かれていないためかがらんとして見えるが、広くも狭くもない。部屋の隅には棚と冷蔵庫が並んで置かれていて、ベッドのちょうど目の前にテレビがある。それ以外にインテリアと呼べるものはなかった。棚の上にはピンクのど派手なリボンが巻かれた鉢植えのポトスがあった。

「ここは……どこだよ。妙にクスリっぽいにおいがすんだけど」

「そりゃそうだよ。クスリの宝庫だもん、ここは。病院だよ」

「なんでそんなところにオレがいるんだよ」

「そりゃあ、入院したからだろうね、頭を打って」

 都は相変わらず顔色一つ変えずに、淡々と事実を告げる。といっても、それは非常に完結なものだった。曰く、晃は駅前の歩道橋ですっころんで頭を打って気を失い、病院に運ばれた。

 体中にすり傷ができているような気がしたのはそのせいか、と晃は妙に納得した。後頭部が痛いのもうなずける。当然だ。頭を打ったのだから。今でも痛みが残っているということはかなり強く打ったのだろう。ならば脳への障害が心配されるが、幸いと言うべきか、吐き気やめまいというのは特になかった。打ったのであろう場所に手をやると、ぷっくりとふくらんでいるものがある。検査をするまでは安心できないのだろうが、とりあえず今のところ命に別状はないように思える。

 都は本を棚の上に置くと、ナースコールのボタンを押した。しばらくしたら医者だか看護士だかが来るのだろう。それは特別なことでもなんでもない。だが、晃にはどうしても気になることがあった。

「なあ都、この鉢植え、誰が持ってきたんだ」

「ん、あたしだよ。入院しちゃったお兄様のためにお見舞いで買ってきたの」

「それは優しい妹で涙がちょちょきれそうなんだけどな、鉢植えは『病気が根付く』って意味になるからお見舞いでは買わねえもんなんだぞ。しかも観葉植物じゃねえか。ふつうは花だろ」

「あらら、そうなの。でも晃だから別にいいか」

「お前な、中三なんだからそれくらいしっとけよ。しかも、人が寝込んでる間に髪なんか切りにいきやがって」

「――は?」

 晃のぼやきに、都は初めて眉を動かした。それでもそもそも感情の薄い妹に大した変化は見られないが。しかし、長いつきあいだ。それが「何言ってるのこのアホは」と言いたいときの顔であることくらいすぐにわかった。それにしても、どうもすっきりしない。おさまりが悪い。

 晃の知っている都というのは、胸元くらいまでの髪を二つに結んでいた。文句の付け所がないほどの漆黒の髪は、彼女の自慢だった。もっとも、髪を二つに結んでいるのは、寝癖を直すのが面倒くさいからだ。髪を自慢するくらいならばブローの一つや二つ面倒くさがらずにしろ、と言った晃に、彼女はひょうひょうと「だからせめてものプライドとして髪を二つに結んでいるんだ」と言った。彼女が何を考えているのかわからないのはいつものことだ。

 しかし、今はどうだろう。彼女の髪は肩口くらいにまで短くなっていた。いわゆる「おかっぱ頭」だが、レイヤーが入っているせいか、決して重たい感じはしない。どちらかというと、今の方が昔よりも都には似合っているような気がする。ただし、毎朝きっちりブローしなければぼさぼさになってしまいそうではあるが。

 目を開ける前と後とで髪の長さが変わっているのだから、つまりは晃が寝ている間に髪を切りにいったという結論が出てくるのは当然のことだった。それ以外に考えられなかった。

 だが、都は怪訝な表情でこちらを見ている。

「……なんだよ」

「晃、頭おかしいかも」

「なんだよそれは、実の兄貴にむかって」

「おかしいよ、絶対におかしい」

「おかしくねえって」

「それじゃあ聞くけど、うちは何人家族?」

「親父、母さん、オレ、隼人、都、結人、翔吾の五人兄弟七人家族」

「兄弟それぞれの年齢は?」

「隼人が十六歳で高校二年、都が十四歳の中三、結人が十歳小五で、翔吾は四歳の保育園児だ」

「両親の職業は?」

「母さんが絵本作家の親父がシステムエンジニア――って、こんなことに何の意味があるんだよ」

「そっか、この辺ははっきりしてるんだ」

「おい、一人で納得するな、オレを取り残すな」

 腕組みをして「考える人」のようなポーズをとって、都は一人物思いにふけっている。呼びかけるも、こうなってしまうと都は自分の世界に入り込んで帰ってこない。とりあえず彼女が元の世界に戻ってくるのを待とうかと、晃はぼんやりと窓の外を見た。

 海が広がっている。この近所は海に突き出したところにあるから、窓から海が見えるということも珍しくはなかった。ここは、都の言葉を信じるならば病院だが、窓から見える風景だけで言えば高級ホテルのそれのようだった。視界を遮るものはない。ちょうど海に太陽が沈もうとしていて、なかなかにロマンチックな光景だ。目の端に、ぎりぎりだが、東京ディズニーランドのシンデレラ城が見えている。

 そこでようやく都が顔をあげた。そんな気配がした。晃は視線を元に戻す。

「この間の日曜日にやった『ハマグリさん』の内容、覚えてる?」

「あれだろ、隣の家が火事になったような気がしたからってハマグリさんがあわてて火を消そうとして、勢い余って塀を破壊するやつ」

「それはね、前の前の『ハマグリさん』だよ」

「……どういうことだ?」

 記憶力には自信があるつもりだった。高校三年の今までに一度も忘れ物をしたことがないのが晃の自慢なのだ。円周率だって、百十七位まで暗記している。化学式だって一度見たものはなかなか忘れない。だから、さっきの『ハマグリさん』の内容だって、自信があるのだ。

 何がなんだかよくわかっていない晃に対して、都はいかにも大変なことが起きたというようなため息をつき、しかし、顔色も声色も全く変えずに、さらりと言った。

「あたしが髪を切ったのはね、先週の金曜日だよ」

「お前、何を言って、」

「晃、どうやら記憶喪失みたいだね」

 今夜のおかずはなすみそ炒めみたいだね、と言うときと同じ調子で、都は言った。

 外から午後五時を告げる鐘の音が聞こえてくる。翔吾がなんだかよくわからないようなことを騒ぎながら走り回っている。

 記憶喪失と呼ぶには中途半端だ、と晃は思った。翔吾、なんて格好のいい弟の名前の由来が実は正午ぴったりに生まれたからだ、という遠い昔のどうでもいいことは覚えているというのに、先週の『ハマグリさん』の内容がわからないなんてあまりにも半端すぎる。

 この状況をどう理解したらいいのだろうか、と頭をひねり始めたところに、病室の扉が開かれた。白衣を着たいかにも「医者」という感じの男性が、白いナース服を着たいかにも「看護士」という感じの女性を伴って入ってきた。

 記憶はないと困るかも知れないが、別にすべてがなくなったわけではなさそうだ。せいぜいい一週間程度のものだろう。晃自身、激動の人生を送っているわけではないのだから、一週間くらい記憶が抜けたところで特に問題はないはずだ。

 医者の顔を見たらそんな気がしてきて、何もかもどうでもよくなってきた。なるようになるさ。そんなことを思った。

 それが間違いだったとわかるのは、一週間後のことだ。

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