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その異世界転生執行官、実は替え玉です。  作者: 黄帯
■第1章 異世界転生執行官の替え玉になった経緯
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1ー5 コンプラ違反上司


 麻耶は、残身の構えを崩さなかった。


 異世界転生執行官が起き上がってくれば、追撃が必要になるかもしれない。


 そう思っていると、不意に周囲の光の壁が消えた。


 異世界転生執行官が結界を解除したのだろうか。

 だとすれば、逃げるつもりか。


「大丈夫?」


「無事であられるか?」


 シャロンとジェラルドが、麻耶の近くまでやってきた。


「はい。何とか」


 麻耶は残身を解いて、長く息を吐いた。


「助けたかったけど、結界で近づけなかったの。でも消えたわね」


「執行官殿が気絶したからかと」


 異世界転生執行官は、横向きに倒れたまま動かない。

 気絶しているのは間違いないだろう。


「それにしても、こうもあっさりと異世界転生執行官をのばしちゃうなんて」


「異世界転生者、上田麻耶殿は、神か魔か」


 二人が異世界転生執行官を見下ろしながら言った。


「いやいや! ただの人間の社会人ですから! ……空手を習ってはいましたけど、腕は知れていますし」


 麻耶は慌てて否定した。


「あなたが元いた世界のことは、ある程度知っているの。だから大半を占めている普通の人間だろうって、本当は察しがついているわ。社会人の意味も知ってる。でも、カラテって何かしら?」


「確か日本の、沖縄地方発祥の武術と聞き及ぶが」


「それは知らなかったわ」


「無理もない。拙者も偶然概要を知っていた程度。先ほどの技がどのような技なのかまでは、とても」


「あれは空手の先生直伝の技です。私の中では、『奥義・必殺コンプラ違反上司』と名前を付けてあったのですが」


「法令違反上司を必殺する奥義? なぜそのような名前を?」


「あ、はい。それは――」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 一昨日のことだ。


 麻耶は、派遣先の上司の運転する車に乗っていた。


 上司の名前は楢崎(ならさき)(たくみ)

 三十代前半の男性で、派遣先のチームのマネージャーだ。

 今年度の最初に別の支社から赴任してきて、前任のマネージャーと交代した。


 一開発要員の麻耶が直接指示を仰ぐ上司はリーダーで、その上のマネージャーと接する機会はほとんどなかった。

 ところが楢崎は、なぜか麻耶に急に声を掛けてきた。


 開発システムを使用している客先の工場に挨拶に行くから同行して欲しいと。

 開発要員が客先を訪れるようなことはほとんどなく、麻耶が行く必要があるのか疑問だったが、言われるままに同行した。


 助手席で聞かされる楢崎の話は苦痛だった。


 この年齢でマネージャーなのはスピード出世だ。

 一流大学の出身だ。

 そういうことを自慢そうに話す様子が嫌だった。


 そこまではまだ我慢できたが、麻耶に恋人がいるかを訊ねてきた。


 嫌な質問だった。

 付き合ったことがないなどと答えたくはない。

 そもそも大して親密でもない相手に訊ねるのはマナー違反だが、そう抗議して上司に反感を持たれるのも避けたかった。


 麻耶は迷った末に、「今はいません」という嘘にならない答え方をした。

 すると楢崎は歓喜し、「良かった。私も今はフリー」などと言ってきた。


 そして上機嫌で、運転しながらスマホの操作を始めた。

 何をしているのかと思ってちらりと覗いてみると、ファンタジーRPGのスマホゲームをプレーしているだけだった。

 事故を起こさないか心配ではあったが、あまり口を利きたくもなかったので黙っていた。


 幸い、無事に客先の工場に到着した。


 工場の事務所前まで行くと、同伴ペットなのかシベリアンハスキーが繋がれていた。

 その犬が楢崎に(じゃ)れ付いた。


 楢崎は犬を撫でると、ここで待っているように言って事務所に入って行った。

 それなら麻耶が同行する必要はなかったのにと思っていると、犬に吠えられた。


 威嚇するかのように執拗に吠え立ててくる。

 楢崎には戯れ付いていたのに、なぜ。


「こっ、この犬畜生(いぬちくしょう)め」


 麻耶は苛立ちのあまり、犬の前にしゃがんで右手の中指を突き立てた。


「そんなに吠えてどうした? ゴン」


 声のした方を見ると、事務所の陰から現れた作業員が固まっていた。

 社会人女性が犬に中指を立てているのを目撃すればそうなるだろう。


 麻耶も中指を立てたまま固まり、冷や汗をかいていた。

 楢崎や会社に報告されてしまったら一大事だ。

 しかも犬は小癪なことに、()き止んでご機嫌そうに尻尾を振っていた。


 それにしても死角から作業員が現れるとは。

 死角?

 従業員がいる方向は、私から見て左。

 つまり、突き立てた右手の中指より右側は死角――。


 麻耶はすかさず、立てている指に右手の人差し指を追加した。

 そして二本になった指をクイクイと動かした。


「ゴンちゃんっていうんでちゅかー。可愛いいワンちゃんでちゅねー」


 猫なで声を出し、何とかその場を乗り切った。


 いや、関係ないことを語ってしまっている。


 本当の問題は、その帰りにあったことだ。


 楢崎の車に乗っていた時に受けた仕打ち。

 決して忘れられない。


「ちょっと休憩していくか? あそこで」


 楢崎が何気なく言いながら指さした施設。

 その看板には、休憩と宿泊の料金が書かれていた。


 体に強烈な悪寒が走った。


「ぜっ、絶対に嫌です!」


 麻耶は叫んでいた。


「冗談だよ」


 楢崎は、そう言った後で舌打ちをした。


 施設の前を通り過ぎたので安心したが、それも束の間だった。

 少し走ると楢崎は車を止めた。


「もう定時を過ぎたし、今日はこのまま帰宅していいから。降りて」


 麻耶が降りると、楢崎は車を発進させて一人で帰ってしまった。

 一番近い駅まででもかなり遠い場所に、麻耶は放り出された。


 夕闇に沈んだ郊外の道路脇を歩いていると、涙がこぼれた。

 自分を汚されたような気分だった。


 助けを求めるために誰かに相談することにさえ抵抗があった。

 それに例え相談したとしても、いい結果にはならない気がした。


 企業倫理や法令順守(コンプライアンス)に厳しい時代で、派遣先も派遣元も対応を取ってはくれるだろう。

 だが明確な証拠もないのに、楢崎に処分が下ることはまずない。


 麻耶を異動させる形で楢崎から引き離して事態の収拾を図るはずだ。

 時間を掛けてこなせるようになり、やりがいを感じている仕事を失うのは避けたかった。


 それに派遣先が変わって道場に通えなくなってしまう可能性もある。

 他の空手道場に入ればいいというものではない。

 尊敬している先生や、思いを寄せているあの人に会えなくなってしまう。


 かといって、あの道場に通える範囲で新たな就職先を見つける自信、それに充分な貯えはない。


 結局、誰にも相談はできなかった。

 食事も喉を通らなくなり、一睡もできなかった。


 翌朝の昨日、迷った末に出社はした。

 楢崎は用事で一日不在だった。


 だが帰宅時にオフィスのビルを出ると、楢崎が待ち伏せをしていた。

 そして嫌な(わら)いを浮かべながら言った。


「非常に心苦しいが、君の派遣契約は更新しない。今期で最後だ」


 楢崎は麻耶からの抗議を軽くいなして車で去って行った。


 いっそ運転スマホで事故にでも遭ってしまえ。

 怒りのあまり、そんなことを考えたりもしてしまった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「そのあと空手の道場に行って、あの技を習いました。伝授してくれた先生も、昔、職場の上司から酷いことをされかけたそうです。もっとも、さっきの原型の技で撃退したそうですけど」


「それゆえに、あの技の名は『奥義・必殺コンプラ違反上司』と。言い得て妙」


 ジェラルドが納得したようにうなずいた。


「そういう上司って、どこにでもいるのね。この人も上司として、法的にというか、倫理的に、ねぇ?」


 シャロンが倒れている異世界転生執行官を一瞥して、肩を竦めた。


「良い点を挙げろと言われても、難しいと言わざるを得ない」


「正直、のばしてくれてスッキリしたわ」


「不謹慎ながら、胸がすく思いがしたのは同感」


 二人が異世界転生執行ではなく、麻耶寄りのようで安心した。


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