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その異世界転生執行官、実は替え玉です。  作者: 黄帯
■第1章 異世界転生執行官の替え玉になった経緯
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1ー1 転生の朝


 麻耶(まや)は、アパートのワンルームのベッドに寝転んでいた。


 寝るとき用のTシャツに短パン姿だ。

 手に文庫本を持ってはいるが、今は部屋の隅を眺めている。


 そこには昨日もらったばかりの空手4級の緑帯みどりおび、そして壁に立て掛けた認定状が置いてある。


上田(うえだ)麻耶(まや)殿。貴殿は日本空手道の修行に精進(しょうじん)し、その進歩顕著(けんちょ)なり。よって、ここに4級を授与す。今後一層の研鑽(けんさん)邁進(まいしん)されたし』


 認定状は定型文で、そこまで劇的な進歩はしていない。

 空手を始めたのは社会人になってからで、練習量は週二回程度だ。


 それ以前のスポーツ経験はなく、体力に優れているわけではない。

 器用なタイプではなく、技も決して上手くはない。

 少し前に出場した女子初級の試合では、自分より空手歴の浅い年下に惨敗した。


 自分に空手の才能がないことは分かっている。


 いや。

 スポーツだけでなく、仕事も容姿もぱっとしない。


 その上に、性格は気弱だ。

 明るくも社交的でもなく、友達も多くはない。

 恋人がいたことは、23歳の今まで一度もない。


 それでも――。


 空手を始める前に比べれば、自分は良い方に変わったと思う。


 麻耶はIT系専門学校を二十歳で卒業して、地元の小さな派遣会社に就職した。

 地元から遠く離れた県に派遣されて、このアパートに引っ越した。


 派遣先は、大手企業の支社だった。

 サーバ管理システムの開発・保守を行うチームに配属されたが、仕事は難しく、新人であることを差し引いても足を引っ張っていたと思う。


 無力感は相当に辛かったし、派遣更新を切られてしまうかもしれないと、ずっとビクビクしていた。


 それに新しい環境で仲の良い人はできなかった。

 だから週末は一人で、それも虚しかった。


 そんな頃、偶然が重なって空手を始めてみた。

 約二年のことだ。

 練習は苦しかったが、それでも頑張っていると変化が訪れた。


 土曜日は、稽古があるから虚しくなくなった。

 日曜日は、道場が休みでも前日の稽古の心地いい疲労感と充実感が残っていた。


 月曜日からの出社が憂鬱になることもだんだんと減っていった。

 気分の問題だけでなく、徐々に仕事がこなせるようになったからだ。


 稽古で身に着けた努力の方法、それに失敗や成功の体験を、仕事に応用できるようになったからだと思う。


 四年目になった今では、優秀とは言えないまでも、後からチームに入ってきた派遣社員たちに仕事を教えたりするようにもなった。

 やりがいも感じている。


 それなのに――。


 一昨日、派遣先の上司の男から、寒気がするような誘いを受けた。

 女性の尊厳を踏みにじるような、明らかに法令順守(コンプライアンス)に違反する申し出だった。

 拒絶したが、それでも自分を汚されたような気持ちになってしまった。

 食欲が無くなり、一睡も出来なくなった。


 そして昨日の帰り際、その上司から派遣更新をしないと告げられた。

 上司は嫌な(わら)いを浮かべていた。

 前日の腹いせであることは明白だった。


 怒りでどうにかなりそうだった。

 だから徹夜状態にもかかわらず、心の拠り所である道場へと足を運んだ。


 稽古が始まると、2週間ほど前の夏の昇級審査の結果は無事合格だったことを告げられて、4級の認定状と緑帯を手渡してもらった。


 麻耶が尊敬してやまない、道場主の女性の先生からだ。


 一般部クラスに出席したのは麻耶だけで、先生とマンツーマンだった。


 だからなのか、(ため)()りに初挑戦させてもらった。

 簡単に壊せる試し割り用の杉板(すぎいた)ではあったが、素足で三枚踏み割ることができた。

 技は踏みつけるような蹴り技の、『踵蹴(かかとげ)り』だった。


 そして、その踵蹴りを使用する女性向けの護身技を伝授された。


 先生は、麻耶に何かあったと察していたのかもしれない。

 稽古の後も、家に招いてビールと枝豆をごちそうしてくれた。

 上司のことを相談するのは控えたが、雑談をしていると気が紛れた。

 先生は麻耶の体調についても気遣ってくれた。


 その後、もう一つ嬉しいことがあった。

 麻耶が密かに思いを寄せている相手に、駅まで送ってもらえた。

 一緒に歩いていると、幸せな気分になれた。


 ある程度は怒りが浄化されたのだろう。

 帰ってくると、すぐに眠りに落ちた。


 だが空調を入れなかったせいで、午前3時には暑さで目が覚めてしまった。


 シャワーを浴び終える頃には空調で涼しくなってはいたが、再び眠ることはできなかった。


 それでなんとなく、昔から愛読していた文庫本を手に取って読み始めた。


 文庫本に視線を戻した。


 ファンタジー世界に転生してスローライフを送るという内容のライトノベルだ。

 この物語のように、自分も異世界転生して辛い現実から解放されたい。

 以前はそう願いながら読んでいた。

 今もだ。

 空手を始めてからは、そう願うことは無くなっていたのに――。


 ページをめくっているうちに、喉の渇きを感じた。

 文庫本を置いてベッドから起き上がり、冷蔵庫へ向かった。


 昨日の記録的な猛暑のせいで水道水は生温く、飲む気になれない。

 だが飲み物は切らしているので、これまでと同じように氷を口に入れた。


 それで喉の渇きだけでなく、空腹感もある程度収まる。

 一昨日の夕方以降、あまり食事は取っていない。


 カーテンの外が明るくなったことに気付いた。

 スマホで時刻を確認すると、午前5時を少し回っていた。


 認定状と緑帯に少し触れてから、ベランダに出た。


 正面の塀に手を掛けて、朝日で輝く住宅街の先の地平を眺めた。


 この三階から景色は、朝も、夕焼けも、星空も好きだった。


 それも見られなくなってしまう可能性が濃厚だ。

 派遣先が変われば引っ越すことになるだろう。


 すると道場にも通えなくなる。

 先生に会えなくなってしまうのは悲しすぎる。

 思いを寄せている、あの人にも――。


 どれもこれも、上司の理不尽な仕打ちのせいだ。

 悔しくて仕方がなかった。


 先生が話してくれことを思い出した。


 かつて先生も、勤め先の上司の男におぞましい目的で迫られたことがあるのだという。

 しかも屋上に呼び出されて閉じ込められ、逃げることさえかなわない状況だったそうだ。


 だが女性の力では、たとえ空手をやっていても通常のパンチやキックで男を撃退することは難しい。

 だから先生は、試合でも禁止されているような危険技を見舞って危機を脱したのだという。


 麻耶に伝授してくれたのは、それをブラッシュアップした技だそうだ。


 それなら――。


 麻耶は、あの技を『奥義・必殺コンプラ違反上司』と名付けることにした。

 コンプラはコンプライアンスの略だ。


 頭の中で、名付けた技を上司の男に叩き込むことをイメージした。


 頭で思い描くだけでは物足りなくなり、ベランダを見渡した。


 正面は格子ではない塀で左右には仕切りもあり、通行人や隣人に見られる心配はない。ましてや早朝だ。


 塀から一歩下がって、右足を持ち上げると、『奥義・必殺コンプラ違反上司』のフィニッシュの踵蹴りを放った。


 木製のサンダルが音を立てないように、床に接触する直前で技を止めた。


 その瞬間、違和感を覚えた。


 立っていられない。

 そして倒れる途中で見た光景は、衝撃的だった。


 朝日に照らされた景色がモノクロになっている。

 まさか世界の終わりでも来たのだろうか。


 床に崩れ落ちた。


 それを最後に、元の世界での麻耶の意識は途絶えた。

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― 新着の感想 ―
麻耶さんの日常の挫折や上司からの理不尽な扱い、派遣切りなどの問題に悩みつつも、彼女の「奥義・必殺コンプラ違反上司」と名付けた技を上司に思い描くシーンは痛快でした。最後のシーンからどうなるか、続きが気に…
[良い点] 現実逃避気味に異世界スローライフを夢見ていた生活から空手のおかげで持ち直した経緯がよくわかりました。 空手は大切な支えだったんですね。
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