91 : Day -22 : Takashimadaira
「そうですか……」
疲れきって眠っている祖母の表情を眺めながら、ヒナノは短く言った。
チューヤから届いた「万斛の宥恕」は効果を発揮し、悪魔憑き状態であったヒナノの祖母からは毒気が抜けた。
ここは高島平団地の一角に設営された、高度な医療設備も備える老人ホームの特別室。
建築にたずさわったオクテート建設の紹介もあり、特別な便宜が図られている。
悪魔憑きの呪われた部屋でも通じる、強力な霊界電話でデータを受け取る、という役割を果たしたサアヤは、いまは通常回線の動画で田園調布のチューヤたちと話している。
「よくやったね、チューヤ。じゃあおばあさんは、わるくなかったんだね!」
「まあ、ちょっと思いきりのよすぎるところがないわけではなかったけど、基本的には、相手のコソドロのほうが悪者だったよ」
「……あやうく、誤解で祖母の命を奪うところでした。感謝します」
さすがのヒナノも、今回ばかりはすなおに礼を述べた。
──つまり、こういうことだ。
ヒナノの祖母はたしかにコソドロを地下牢に監禁していたが、その理由は彼が稀代の「連続強姦魔」だったからだ。
そんな彼を、そのまま世に放っておくわけにはいかなかった。
残念ながらただの強姦魔ではなく、女のほうも事実として彼のイチモツにゾッコンだった、という事情はあるのだが、そんなものは情状酌量の余地にもならない。
ある種の「魔性」は、非合法の薬物に等しいからだ。
そんな男の被害に遭わされるおそれのある世の女たちを、ヒナノの祖母は、ただ「助けただけ」だ。
女の子の心を奪う泥棒さんが、女の子の人生そのものも奪って、壊してしまうことから。
「小伝馬町で話してたのは、そのことなんだね?」
サアヤの問いに、チューヤはうなずいて、
「しょせん泥棒だからね。言うことそのまま信じてたら、悪魔使いはやってられないよ」
こうしてヒナノの祖母の名誉は回復された。
彼女は男を監禁するサイコパスから、女を守った英雄へと格上げされたわけだ。
それじたい喜ばしいことではあるが、問題はその程度にとどまりはしなかった。
ここには、さらに大きな展開の契機があるのだ。
すなわち「万斛の宥恕」という謎アイテムが、その権威をどこから借りてきたか。
二代目が「泥棒」であることを鑑みれば、答えはおのずと明らかだろう。
──答えは、贖宥状だ。
カトリックの堕落を象徴し、生グサ坊主の私腹を肥やし、商売としてあまりにも優秀であるため、現在にいたるまで多くの利権を生み出しつづけている、悪辣なシステム。
この「罪の赦しはカネで買える」という商法は、世俗化し腐敗した金脈宗教の到達点をしろ示し、プロテスタントを生み出す土壌ともなった。
それじたいが罪のカタマリである、その名は「免罪符」。
ただの「プラセボ効果」が目的であれば、ただのバカ高い紙きれを売りつける方法は詐欺的だ。
が、そこに事実、神の赦しが付与されていたとすれば?
すくなくとも、その「赦し」と見分けがつかないようなら、それは実効的である。
──ただの赦しなら、だれでも与えられる。
だが一段階上の「贖宥」は、神にしかできないことになっている。
神にしかできないことを、カトリック教会がキリストに代わって与える、という仕組みが「贖宥状」だ。
かつて教皇はそれを乱発し、大金を稼ぎ、たいへんな分裂と宗教戦争に発展した。
考え方の根拠は、そもそも数千年来あった。
そのフォーマットを利用した「贋金」の「原板」があるとしたら。
「考えてみれば、フランスからやってきた旦那さんが、地下牢の泥棒のこと知らないはずがないよね」
サアヤの指摘に、チューヤはうなずいて答える。
「そう、南小路家は結託して、カトリックと女の子を守ろうとした、と言い換えることもできるかもしれないな」
両者の利害が重なったので、邪悪なコソドロは死ぬまで座敷牢に暮らすこととなった。
ただし彼が盗んだものの価値は、厳然として担保されつづけざるをえなかった。それはかけがえのない、高い価値をもつ「現物」だったからだ。
「贖宥状の……原板?」
息を呑むヒナノに、再びうなずくチューヤ。
「らしいね。ほんものの神の赦しとみまがうほどの出来栄えの贖宥状の原板を、あのコソドロは盗んでいった」
「泥棒としての才能は、たしかにあったわけだな。そうしてクサいものにフタをした、あんたら名家の手練手管に脱帽だよ」
電話のむこう、あざけるように言うケートが腐しているのはカトリックか、南小路家か、おそらくその両方だろう。
チューヤは冷静に事情を分析する。
「だから彼は、あの場所に閉じ込めておくしかなかったんだろう。お嬢にさえ知られずに。あらゆる意味で、秘密を知る者は少ないほうがいいからね」
「サイコパスな傾向のある令嬢という現実も、一定程度、都合がよかったわけだ」
「女の子を守る、という大義名分もあるしね。そう、どう考えてもおかしい。彼女ひとりの力で、大の男の後半生を、地下の座敷牢に閉じ込めたまま、秘密を守っていられるか? 当然に、彼女に協力する動機をもった人々はすくなくない」
「……枢機卿とヴァチカンはグルか?」
どこまで共犯者の輪を広げていいか、いまの時点で判断はつかない。
ヒナノとしては否定したいところだが、彼女にも秘密にされていた醜聞だから、擁護することもむずかしい。
言葉を選べないヒナノに代わって、チューヤが口を開く。
「罪深いのは枢機卿だろうが大司教だろうが同じ、ってことかもね」
「なるほど、連中はカトリックを支えるために神の赦しを必要とした、か。それを隠し持っているのが」
ケートが手元の小型デバイスを操作して、チューヤのケータイにつながったデータの記録を走査している。
「万斛の宥恕」が本物であることを確認し、その権威をどこから引っ張ってきたかの通信データが、そのまま「敵の本拠地」を意味する。
「──判明した。思い当たるか、お嬢。代々木公園だ」
ケートの操作で、霊界電話を経由したGPSデータが、ヒナノの目にも伝えられた。
「やはり、そこですか」
どこまで予想していたのかはわからないが、ヒナノの表情は凍ったまま動かなかった。
当初から、代々木公園どうこう言っていたことを、チューヤは漠然と思い出す。
贖宥状の原板を盗み取った悪魔。
言うまでもない……。
「あの困った夫婦だねー。で、そいつらはどうしてそんなもの盗んだの?」
サアヤがのんきな声を上げることで、固まっていた空気が溶け、会話が回りだす。
「贖宥状の使い道なんて、いくらでもありますからね」
「本物とみまごうばかりともなれば、なおさらか」
「問題を根本から解決する必要があります……」
唇を引き結び、ヒナノがつぶやいたとき、背後で彼女の祖母がうめき声を漏らした。
心電図計がアラームを発している。
問題はまだ完全解決していないが、とりあえずは通話を切った。
境界が晴れ、日常の夕暮れがもどる。
ヒナノたちに片づけなければならないことがあるように、チューヤたちにもさしあたってやらなければならないことがある。
しばし各所に電話で確認していたチューヤが、区切りをつけて電話を切ったとき、やや飽きてきたらしいプシュケが言った。
「で、いいのかな?」
その探るような目線に、うなずいて応じるチューヤ。
「おつかれさまでした。……いま、クラマさんから連絡届きました。エムターポールから、手配の中断が通達されたようです」
「ダイヤ盗まれたおっさんが訴えを取り下げた、ってことか。どうやった?」
すこしおどろいた表情で反問するケート。
母親の指名手配が取り消されたことはすなおに喜ぶべきだが、この泥棒猫はしばらく豚箱にでも入れてやってもよかったかもしれない、という思いもまた一方にある。
チューヤはケートに視線を向け、
「被害者はユダヤの大物って話だったでしょ。だから、メタトロンとサンダルフォンに話してもらったんだ」
ユダヤ教にとっては、だいぶビッグネームの天使だ。
サンダルフォンはチューヤが、メタトロンはヒナノが、それぞれ話を通して働きかけた。
結果、ユダヤの大物は「3週間以内にダイヤを返してくれ」という条件で、エムターポールへの訴えを取り下げた、という。
「3週間? なんでよ、返さないよあたしー」
ぶーたれるプシュケが、問題の大きさを理解しているのかどうか疑わしい。
「まあまあ。3週間後に世界が存続しているとしたら、もうけものってことで考えてあげてくださいよ。……これでいいかな、ケート」
「ま、いいんじゃないのか」
話しながら、陰鬱な座敷牢の階から外へむかう。
とくに陽の当たる場所の似合うケートたち親子にとって、地下はしばらく遠慮したいな、という気配が濃厚だ。
「いろいろ助かったよケート、ありがとな」
「感謝すべきはうちのプシ子だ。キミらのバリ6電波もすごかった。あれだけ重いバンコクのなんたらいう契約書類、一瞬で転送しやがったからな。おかげで神学機構の弱点も握れそうだし、ボクとしては不満はない」
そんな利害関係がなくても、ケートは自分たちを助けてくれただろう、とチューヤは信じている。
そこにヒナノが絡んだ場合は……わからない。
「あんまりお嬢をいじめないでやってよ。それに境界から転送できる時点で、ケートの発明した電話のほうがすごい。……ほんと、美しい親子の共同作業だったよね」
召使たちが甲斐甲斐しく動く南小路家、執事が重々しい扉を開いて彼らを通してくれる。
待つほどもなく横に並ぶケートとプシュケを、まぶしそうに眺めるチューヤ。
どう見ても「完璧に美しい母子像」だ。
「まあ、プシ子がボクのことが大好きだ、というのは理解できたが。ちなみにボクはそれほどでもない」
「なによキャサリン、どういうこと?」
開かれた外気へむかい、並んで歩き出しながら、プシュケは息子の腕に自然に指を這わせている。
「霊界電話は、互いへの気持ちが一定以上強くないと、つながらないんだよ。すくなくとも一方が最強じゃないとな。で、ボクの気持ちが最強なわけないから、必然的にプシ子が心からボクを愛しているという理屈になる」
「は……はあ? ちょっと冗談でしょ、逆じゃない? あたしはもちろん息子だから、多少は愛してやってるけどさ、それ以上にママのこと大好きなのはキャサリンでしょ」
生暖かい目で、再開された親子漫才を眺めるチューヤ。
プシュケがボケて、ケートが突っ込む、という立ち位置がデフォルトらしい。
「ふざけんな! 放置プレイで親の役割を微塵も果たしてない放蕩者が。マーヤママとおまえが並んで救いを求めていたら、ボクはまっさきにマーヤママを助けてから、余裕があったらおまえを助けてやってもいい、くらいにしか思ってないわ」
「なんですって!? ほかのママをとるっていうの! 世界中の男から愛されるべきあたしに対して、失礼でしょ、キャサリン! ちょっとこっち来なさい!」
屋敷を出たところで待っている高級車はケートのものだったが、プシュケが自前で呼び出したべつのリムジンも並んでいて、彼女はそちらに息子を拉致していく。
「なにすんだ、やめろプシ子、ボクはいそがし……」
「お黙り! 今夜はママからきつい教育的指導がありますからね! 寝られると思わないこと!」
「おまえは昼間寝ていたからいいけどな! おい、離せ! 無駄な脂肪を押しつけるな!」
小柄な息子を巨乳に挟んで立ち去る、美の女神プシュケ。
騒がしい親子の姿が、チューヤの視界から遠ざかっていく。
美しい親子……というより、あれはあれで完成された「おもしろい親子」であるな、と心の底から認めるのにやぶさかではないのだった。
暗い道を歩きながら、チューヤは再びサアヤのケータイを呼び出した。
「……で、どこだっけ、そこ」
かなり基本的なことから、まずは問い合わせる。
彼らは生き急いでいるので、大事なところが抜けていることもよくあったりする。
サアヤはいつもの呑気な声音で語尾を伸ばす。
「高島平の東京エステ村だよー」
「なにその千葉県にある東京ドイツ村みたいな語感のワード」
「千葉をディスるな! いじるならエステのほうにしろ」
サアヤがどのあたりにお怒りなのか、チューヤにはうまく伝わらない。
「いや、リョージの会社だし、エステサロンの建設くらい請け負っててもおかしくはない、とは思うが」
「老人ホームにエステとか、斬新だよね。って、そういう意味じゃないから! オクテート建設は、エステート計画っていう壮大なプランを推進してるんだって。こんど会ったとき訊いてみたら?」
エステティックではなく、エステート。
英語をそのまま訳せば不動産の意味だが、なんとかエステートという会社名が林立していることからも、ニュアンスは伝わる。
もちろん単なるエステートではなく、大文字のエステートだろう。
妖精さんたちと力を合わせて、リョージたちは人類にどんな道を指し示そうというのか。
いや、彼らは指し示すだけではない、みずから切り開こうとしている。
と、電話のむこうがやけに騒がしい。
どうやら彼らはロビーに移っていて、周囲には老人たちが集まっているようだ。
サアヤに『お祭りマンボ』を歌わせるか『お嫁サンバ』を歌わせるかで、老人たちが騒ぎになっている。
もちろんサアヤは両方歌うだろう。
「あいかわらず年寄り人気ハンパねーな。ああ、行ってこい。ちょっとお嬢に代わって」
サアヤはケータイをヒナノにわたし、そのまま老人たちの客席へダイブしていったようだ。
あらゆる昭和歌謡を網羅するサアヤは、老人ホームにおいて下手なアイドルよりはるかに人気がある。
「もしもし、代わりましたが」
手短に前後の情報を突き合わせ、共有する。
ケートのこと、リョージのこと、お互いのこと。
それから先刻、アラームが鳴り響いていたおばあさんの容態も気になる。
「……そか。おばあさん、だいじょうぶなんだね?」
「かなり疲労が激しいようですが、時間に解決してもらうしかありません」
「じゃ、すぐ屋敷に?」
ヒナノはしばし考え、周囲を見まわし、老人ホームらしい空気を意外にやさしいまなざしで眺めながら言った。
「いえ、しばらくはここに置こうと思います。そちらの屋敷には、いやな記憶が多すぎますから。祖母の年齢では、ホテルを転々とするのも気兼ねでしょう。なによりここのみなさんは……親切ですから」
リョージの会社が建設に携わっている「地域にやさしい」老人ホーム。
ヒナノ自身にとっても、リョージだからどうこういう話では、すでにないだろう。
田園調布の邸宅は、彼女にとっても、その祖母にとっても、まだあまりにも「重すぎる」のだ。
「そうだね、それがいいかもしれない。……それで、ちょっと訊きたいんだけど」
「なんでしょう?」
すなおに反問するヒナノに、やや新鮮なものを感じつつ、
「リョージ、なんか言ってたかな?」
ヒナノは一瞬口ごもってから、先刻来のすなおさを引き継いで答える。
「さきほど、オクテート建設の方々とお見舞いをいただきました。いそがしいらしく、短時間でしたが」
「お互いね、ケートもお嬢も身内の問題じゃなかったら、ほかにやることあったでしょ」
「身から出た錆ですから。東郷くんですが、あなたに訊かれたら伝えるように、と。……四ツ谷に行く」
ヒナノの言葉をしばらく脳内で噛み締めていたチューヤは、ひとつうなずいて言った。
「なるほど、そういうことか。ありがとう、お嬢」
なにが「なるほど」なのか、ヒナノには伝わらない。
男同士の了解のようなものが彼らのあいだにあるとしたら、自分はもしかしたら嫉妬しているのかもしれない、と一瞬だけ考えて、もちろんヒナノはそれを認めなかった。
「なんだよー、せっかくふたりっきりでお話させてあげてるのに、ほかの男の話かよー」
やんやの喝采を送る老人たちをようやく引きはがして、電話のむこうにもどってくるサアヤ。
ヒナノは短く嘆息し、
「返しますわ」
そのまえにチューヤは首を振り、
「いや、スピーカーにして。……サアヤ、聞いてるか」
「あいあい、3Pの申し出なら断るよ!」
「なんのこっちゃ。ええと、いま午後7時か。ここ最近、おまえのことはだいぶ酷使してしまって申し訳ない。お嬢もたぶん、そう思ってる」
無言でうなずくヒナノ。アホ毛をぶんまわして照れるサアヤ。
「いやー、いいんだよ、チューヤはほんと、私がいないとなんにもできない子だからね。遠慮しないで、もっと褒めて」
「というわけで、たまの日曜の夕方くらい、ご家族と水入らずで過ごしてほしいと思う。暗くなるまえに帰してやれなくてすまないが、8時には全員集合できるだろ。……お嬢、頼んでいいかな?」
「丁重に、まちがいなく」
背後に控える仮面の運転手が、安全と信頼の運送契約でサアヤを自宅に送るだろう。
「……え? チューヤも帰るの?」
「いや、俺はこれからリョージと合流する。最初から、だいたいそんな予定だったしな」
「言ってなかったよ、そんなこと!」
「訊かれなかったからね! いやー、だけど四ツ谷かー、乗り換えなしの直通じゃん、俺に気ィ使いすぎだろリョージ、まあ関係ないかー」
ぶつぶつ言いながら切れる通話。
なにやら物申していたサアヤの声が遠ざかる。
チューヤは視線をあげ、肉体に染みついたGPSを起動して目的地をロックオン。
東急目黒線急行(浦和美園行)目黒直通、東京メトロ南北線、四ツ谷まで30分足らず。
──乗り換えなしかよ、つまんねーな。
そんなことを思いながら、鉄オタの日曜日は最後のミッションへ。




