ニートのオレが家出中のJCを拾ったら人生が変わった件(改稿版)
「ん……」
小さな吐息が聞こえてきて、目が覚める。オレのすぐ横では、さっき「拾った」ばかりのJCが、あくびをしながらのろのろ体を起こしているところだった。
JCって呼び方はあんまりか。彼女の名は、愛梨というそうだ。
瞳はくりくりしていて大きいが、鼻と口は小さめ。肌は白い。
身長は150cmを少し越えたくらいだが、きっとまだまだ伸びるのだろう。痩せていて、胸も尻も小さくぺったんこ。
「おはよ」
目と目が合うと、愛梨はにっこり笑った。オレも照れ笑いを浮かべつつ、「おう」と応じる。
――まさか本当に、ついて来るとは思わなかった。
オレは常日頃、家でゴロゴロしている。学生でもないし、定職に就いているわけでもない。いわゆるニートだ。
そんな優雅な身の上のオレは、本日とても嫌なことがあり、一人で家にいるのが耐えられなくなった。クサクサした気分を抱えたまま町に繰り出し、そこで愛梨と出会ったのだ。
――そして、彼女をナンパしてみた。
ニートのくせに女の子を引っ掛けるなんて、我ながら分不相応なことをしでかしたなと思う。だが……。そんなオレが黙って見過ごせないほど、愛梨は惨めな有様だったのだ。
繁華街の大通り、オレの進行方向の先から歩いてきた彼女は、この世の不幸をすべて背負っているかのようだった。泣きそうな顔で、足を引きずるようにして歩き、今にも転ぶか倒れるかしそうだったのだ。
「うっす」
オレは愛梨の前に立って、努めて陽気に声をかけた。
この子はいい子だ。――オレは一目で分かった。
なんていうか、匂いが違うっていうか……。まあ、ただの勘だけど。
「……!」
愛梨はびっくりしたような顔をして、次に不審げにオレの全身をじろじろと眺め回した。
まあ、そうだよね。いきなりオレみたいな奴にちょっかい出されたら、普通の女の子なら驚くはずだ。
でもオレは人見知りしないタチだから、めげずにぐいぐいとアタックをかました。
「なあなあ、オレんち来ない? オレ以外、誰もいないからさ」
明るく攻めてみたけど、本当は必死だった。――誰もいない家に、今日はどうしても一人でいたくなかったから。
ちょっと強引に腕を引っ張ると、愛梨は戸惑いつつも、さほど抵抗しなかった。
まあオレはあまり、警戒心を持たれないタイプらしいから。人が良さそうとか、優しそうだとも言ってもらえる。いつも呑気で、幸せそうだよね、とも。
本当はそんなことないんだけどな。ニートだし、悩みだっていっぱいあるし。特に今はおとんとおかんのことで、いっぱいいっぱいだ……。
――いや、話が逸れた。
ともかくそんな感じで、オレは愛梨と出会った繁華街から徒歩で十分も離れていない自宅へ、彼女を連れ込んだのだった。
愛梨は我が家へ向かう道すがら、または家に着いてからも、壊れた蛇口から吹き出す水のように、とめどなく自分のことを話した。きっと愚痴を、誰かに聞いて欲しかったんだろう。
なんでもテストでひどい点を取って、父親にこっぴどく叱られた、と。それでケンカになり、家出したんだそうだ。
「私だって、好きでバカなわけじゃないのに……」
テストがどんなもんだったかは知らないが、喋り方もしっかりしているし、愛梨は別にバカではないと思う。まあオレみたいなのにナンパされて、ひょいひょいついてきてしまうあたり、軽率ではあるが。
愛梨は髪の毛も染めてないし、化粧もしていなかった。一見地味だが、よく見れば品のある賢そうな顔をしている。ついでに言えば服装だって派手ではないが、若い子にも手が届くファストファッションを上手に取り入れていて、オシャレだと思う。
まあこの年頃の女の子はみんな可愛いけどさ。――と、こういう感想に至ったら、もうおっさんなのだろうな……。
それで、だ。愛梨をうちに連れて来て、リビングのソファに座り、話を聞いているうちに、お互いウトウトしてしまったらしい。もう秋も半ばなのに今日はよく晴れていて、窓から入ってくる日差しが温かかったからだろう。
「知らない人の家で眠っちゃうなんて、私って図太いね」
一眠りしてだいぶ落ち着いたのか、愛梨はいたずらっ子のように笑っている。
オレはほっとした。愛梨みたいないい子には、いつもニコニコしていて欲しい。
「窓、開けっ放しにしてたね。閉めちゃうよ?」
「ん」
さすがに寒くなったのか、リビングの窓を、愛梨は閉めた。
リビングを囲う壁のうち庭側は、一面ガラス窓になっている。横着なオレなどは、その窓から猫の額ほどの庭へ下りて、玄関を通らず、外に出て行ってしまう。さっき帰ってきたときもついその癖が出て、庭から直接リビングに入ってしまい、愛梨にドン引きされたばかりだ。
「鍵かけてないの?」だって。まあいいじゃん。めんどくさいし、今まで泥棒に入られたこともないしさ。まあたいていはオレが家にいるから、防犯対策になってるのかもね。――ニートだって、役に立つこともあるんだなあ。
愛梨が窓を閉めると、風や外の音が遮られて、部屋は静かになった。途端、ぐうと間抜けな音が聞こえてくる。顔を赤くして、愛梨が腹を押さえた。
「おなか減った……」
愛梨とオレが出会ったのは、お昼前。彼女は家を出てから、なにも食べていないはずだ。なんでも、財布もスマホも持たずに、飛び出してきたというのだから。
「ほら、こっち」
オレは愛梨を追い立てるようにして台所に連れて行くと、冷蔵庫を顎で差した。
「好きなもん、食っていいよ。本当はなんか作ってやれればいいんだけど、オレ、料理できねーから。ごめんな」
「ええー……。人んちの冷蔵庫を漁るのは……。でもちょっとだけ、ごめん……」
詫びを入れながら、愛梨は冷蔵庫を開けた。
中には――恥ずかしながら、食いものはなにもなかった。オレの面目は丸つぶれだ。
ただし、飲み物だけは豊富に用意されていた。おとんが酒好きだから、ビールに日本酒、白ワイン。ほかにも酒を割るためのトニックウォーターだとか、炭酸水だとかジュースだとかが、キンキンに冷えている。
愛梨は苦笑し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
「じゃあ、ごめん。喉が乾いちゃって、お水だけもらうね」
「うん、好きなだけ飲んで」
ペットボトルの蓋を開けながら、愛梨は台所を見回した。
「素敵なキッチンだね。いいなー。うちなんて、ごちゃごちゃしてて。冷蔵庫もさ、漬物とか前の日の残りもとのか、いろんなものが入ってて、取り出しづらいの……」
自宅を思い出したのだろうか。ミネラルウォーターをちびちび喉に送る愛梨の横顔は、寂しそうだった。
そんなとき、不意に壁際に備え付けてある電話が鳴り、愛梨は飛び上がらんほどに驚いた。
「びっくりした! あ、でも、電話、何度もかかってくるね……」
そう。家に戻ってから一回。寝てる間も一回。そして今も。一時間おきの頻度で、電話はしつこく鳴っている。
「……………」
愛梨がちらりとオレを見たが、オレは気づかないふりをした。
電話は――出たくない。どうせ嫌な知らせだ。
オレの気持ちを察してくれたのか、愛梨はそれ以上なにも言わなかった。
それからまた二人でソファに戻って、テレビを見ながらダラダラとくだらない話をした。好きなアイドルや芸人のこと。面白い、またはつまらない番組のこと。そして、学校の先生や友達のことなど。
オレはもっぱら聞き専で、口を挟むことなく、愛梨の話に耳を傾けていた。まあニートの自分語りなんて、誰も聞きたくねーだろうしな。
「あなた、聞き上手だね。そういえば、名前、なんていうの?」
「ないしょ」
愛梨の質問には答えなかった。ミステリアスな男のほうが、魅力的だろうから。
やがて愛梨はチラチラと頻繁に、壁時計に目をやるようになった。
――午後三時。
家のことが気になるのだろう。まともな親なら、飛び出していった娘のことを心配しているだろうしな。
でもオレは、愛梨にまだ帰ってほしくない……。
擦り寄ったり、甘えたりしてみようか? おっさんがそんなことやったら、キモいだけか?
オレが迷っていると、また電話が鳴った。一度切れたのだが、今度はまた五分も経たずにかかってくる。
愛梨はオロオロと躊躇していたが、十コール目で根負けしたらしく、遂に受話器を取った。
「はい、はい……。いえ、違うんですけど……。え? そ、そうなんですか? ちょっと、すぐどうにかはできないかもしれませんが、えっと、頑張ってみます……」
歯切れの悪い返事をして電話を切ると、愛梨はオレのところへ戻ってきた。
「この家のご主人、ムラタ ヨウイチさんっていうの?」
「ムラタ ヨウイチ」は、オレのおとんの名前だ。「そうだ」と頷く。
「ついさっき、亡くなったって……。橋の上から飛び降りたって……」
橋か。きっと二人でよく散歩に行った、あの橋からだろう。
やっぱりな……。なんとなく予感がしていたから、オレはなんの反応もできなかった。
そうだ。オレは分かっていた。おとんが死を望んでいるってことを、知っていたのに――。
だからオレは、一人でいたくなかった。だって、一人でいたら――。
『どうしようもなくなったら、家を出て、誰かを頼りなさい』
そう言い残して、おとんは今朝、家を出て行った。オレはついて行こうとしたのに、おとんから「来るな」と拒絶されてしまったのだ。
「どうしよう、誰に伝えたらいいの? ねえ、親戚とかの連絡先、知らない?」
愛梨は電話の周辺を、電話帳や住所録でもないかと探し始めた。めぼしい成果はなかったらしく、やがてトボトボとリビングに戻ってくる。
「ないなあ……。どうしよう。――ん? これ、『書き置き』ってやつ?」
愛梨はふと視線を落とした。オレとくつろいでいたソファの前。そこにはガラスのローテーブルがあって、その上には封筒が一通、置かれっぱなしになっている。
封筒の表には、「皆様へ」と書かれていた。
「ごめん。緊急事態だから、開けるね……」
オレに断りを入れて、愛梨は封筒を手に取った。封はされておらず、中には数枚の便箋が入っていたようだ。その文面を目で追い始めた愛梨の表情が、徐々に曇っていく。――当たり前か。
彼女の手元にあるのは、遺書だ。オレのおとん、ムラタ ヨウイチの。
遺書には彼が自死を選んだ経緯と謝罪、そして自らの死後、連絡して欲しい人たちの名と連絡先が書き連ねられていた。
最後まで読み終えると、愛梨は沈痛な面持ちでオレを見た。
「タロウのこと、どうかくれぐれもお願いしますって書いてあるよ。――あなた、タロウっていうんだね」
オレは曖昧に微笑んだ。
おとんはオレのことを大事に想ってくれていた。なんの役にも経たない、不肖の息子なのに。
愛梨は黙り込み、オレもぼんやり立っている。
部屋は静かだ。だがその静寂を、玄関からのけたたましい物音が破る。
帰ってきた。――誰が? 一人しかいないだろう。
おかん、だ。
そう、帰ってきた。奴が。
奴が。奴が。奴が。――あの女が。
心の中で、呪詛を吐くように繰り返す。
体中の毛が逆立った。
「おうちの人、帰ってきた! あっ、私のこと、どう説明しよう!?」
愛梨はあわあわとパニックになりながら、玄関に走った。その直後、ヒステリックな怒鳴り声が聞こえてくる。
「あんた、誰!? ここでなにしてんのよ!」
「あ、その、ええと、タロウちゃんに連れて来られて……」
「ハァ!? 適当なこと言うんじゃないわよ!」
おかんの詰問に負けず、愛梨は懸命に食い下がっているようだ。細かい内容は聞こえなかったが、開けっぱなしの扉の隙間から、ああだこうだと続く悶着が聞こえてくる。
突然、狂ったような笑い声が家を震わせた。
「死んだ!? あいつ、死んだの!? ははは、やった! ざまーみろ! これで慰謝料も払わなくて済む! あっ、しかも、あいつの財産、全部私のものってわけ!? ラッキー!」
おかんがなにを言っているのか、分からない。
オレは玄関を目指した。理性を失わないように、ゆっくり。
だが駄目だ。やっぱり無理だった。
なにかが鼓膜を覆い尽くし、音が消える。
吸って、吐くという、単純な呼吸の仕方も忘れてしまった。ハァハァとみっともなく、息を荒げる。
爪を立て、フローリングを蹴った。
「タロウちゃん!?」
愛梨の脇をかすめて、飛ぶ。彼女の前に立っている、あいつのもとへ。
目指すはおかんの――あの女の首。
喉仏を噛み切って、息の根を止めてやるのだ。
死ね! 死ね! 死ね!
「!?」
厚化粧をした醜い女が、驚愕に目を見開いている。
――おとん。なんでこんなクソ女と、結婚したんだよ。オレと二人で暮らしていれば、良かったじゃないか。
五十を過ぎた男に嫁ぐ若い女なんて、わけありか金目当てに決まっている。そんなこと、ニートのオレだって知っているのに。
おとんはバカだ。バカだ、バカだ、バカだ。
案の定、おかんは結婚前につき合っていたというチンピラと繋がったままで、おとんの稼ぎと貯金のほとんどをそいつに流してしまった。おとんがそれに気づき、責めると、おかんは逆におとんを罵ったのだ。
『あんたみたいな男と、なんの見返りもなく結婚する女なんて、いるわけないじゃない!』
そう、露骨な金目当ての結婚。
オレにはどこがいいのかさっぱり分からないが、だけど、おとんはおかんに心底惚れていた。だからおとんはすっかり病んでしまい、酒に溺れ、会社にも行かなくなってしまった。
そして――今日、橋から飛び降りた。自ら死を選んだのだ。
「お前がいなければ、お前が裏切らなければ! おとんは死ななかったんだ!」
オレは叫ぶ。
このクソ女を殺して、オレも死ぬんだ!
玄関に立ち尽くす女に跳びかかったオレの牙は、しかし空を噛んだ。そして体が、強い力でなぎ倒される。
愛梨がオレに飛びつき、そのまま一緒に床に転がったのだ。結構な勢いだったが、痛くはない。愛梨がオレの下敷きになってくれたからだ。
「いてて……。ダメだよ、タロウちゃん。人間に危害を加えたら、君も殺されちゃうんだからね?」
そうだよ、知ってる。だからオレは、一人でいたくなかったんだ。
――だって一人でいたら、絶対におかんを殺してしまうから。
たいていの人間は、おとんや愛梨のように愛情深い。彼らの同族を殺したくはなかった。
だけど怒りに我を忘れたら、オレはなにをするか分からない。
だって、オレは獣だから。――犬だから。
生まれてすぐ捨てられたオレを、四年前、おとんが保健所から引き取ってくれたんだ。
ごはんも水もたっぷりくれる。毎日二時間も散歩に連れて行ってくれて、暇があれば遊んでくれて。ほんの時々、少しだけ、晩酌のオツマミを分けてくれる。あんないい人はいなかったのに。
どうして。どうして――。
床に倒されたまま、オレはおかんを睨み、唸った。
オレを抱え込む愛梨が、本気で憎い。わずらわしい。こんな奴、拾ってくるんじゃなかった。
「邪魔をするな」と吠えると、愛梨はかえってオレを強く抱き締めた。
「いい子。タロウちゃんはいい子だよね……。だからそんな怖い顔をしたらダメだよ。いい子、いい子……」
愛梨は歌うように、オレに言い聞かせた。鼻先に押しつけられた彼女の胸から、淡い香りが漂ってくる。柔軟剤とかいうやつ。
――おとんがよく着ていたセーターからも、同じ匂いがして……。
オレの体から、力が抜けてしまう。クソ女への憎しみも、溶けていった。
――おとんは、もういないのだ。
「おとん、おとん……。オレ、なにもできなくてごめん……」
悲しみが胸を塞ぎ、喘ぐように鳴く。ヒャンヒャンと情けない声を漏らすオレの背中を、愛梨はますます優しく撫でてくれた。
のちに分かったことを、まとめて書いておく。
ムラタ ヨウイチと妻は、ムラタが自殺する数日前に、離婚が成立していた。
妻――正確には「元妻」となるが、彼女は夫と言い争いになるたび、脅しのように離婚届を突きつけていたらしい。離婚を盾にすればムラタは黙ると、踏んでいたのだろう。
しかしムラタは死ぬ直前、元妻が寄越した記入済みの離婚届に署名捺印し、役所に提出していた。この事実を、元妻は知らなかったようだ。
また、元妻の希望で、ムラタ夫妻に子供はいなかった。つまり元妻のもとへ、ムラタの遺産は一銭も渡ることはないのだ。
よって――。だいぶ無断で使い込まれたとはいえ、ムラタが残した少なくはない財産は、彼の遺言により、動物愛護団体に全て寄付されることになった。
こうしてすっかり価値を失った元妻は、交際を続けていたチンピラから手酷く捨てられたという。
金も若さもまともな職歴もない彼女の、これからの人生は、とりあえず幸福なものではないだろう。
恐る恐る、愛梨はドアを開けた。小さな音しか立てなかったはずなのに、家の奥から中年の男性が、血相を変えて飛び出してくる。
どうやらこの男が、大喧嘩をしたという愛梨の父親のようだ。
「愛梨! 今までどこに行ってたんだ! 電話にも出ないで!」
「スマホは置いてったから……」
「あ、そうなの……?」
自分からの連絡を無視されたと勘違いし、憤っていた父親は、一気にトーンダウンした。
玄関ドアのすぐ前で、父と娘は気まずく睨み合う。
ふくれっ面の愛梨の膝の裏から、ひょいと一匹の犬が顔を出した。柴犬によく似ているが、おそらく雑種だろう。のほほんと、ひょうきんな顔つきをしている。
「え、その犬、どうしたんだ?」
「飼い主さんが、こんな犬いらないって言うから、もらってきた。タロウっていうの」
「そうか、タロウか。よしよし」
父親はしゃがむと、慣れた手付きでタロウの頭を撫でた。
「――いや、そうじゃなくて! まったく、心配かけて!」
すぐに立ち上がった父に、愛梨は冷たく反論した。
「謝るのも変な気がするんだけど」
「う」
父が娘に気圧されていると、更に奥からもう一人、ふくよかな女性が現れた。
「なーに、愛梨。帰ってきたの?」
「お母さん」
新たに玄関に顔を出したのは、愛梨の母親らしい。片手にマグカップを持ったまま、のんびりとやってきた母は、父と娘、交互に目をやった。
「お父さん、良かったじゃない。愛梨、お父さんねー、あんたが飛び出してってから、ずーっと心配してたのよ。近所をうろうろ探しに行ったりねー。あ、ほら、そんなとこに突っ立ってないで、早く上がりなよ。晩ご飯作るから、手伝ってね」
「いや、でも、母さん」
納得していないのか、父は母に追いすがる。温和な表情をしていた母は、一転して眉を吊り上げた。
「お父さん、あんたね、なにを怒るっていうのよ。ちょっとテストで悪い点を取っただけなんでしょ?」
「でも」
「あんたはね、昔っから神経質すぎるのよ。お兄ちゃんなんて、歴史の試験で十点を取ってきたことあんのよ? それも驚きの五回連続よ!? でもちゃんと、現役で大学入れたじゃない。一回や二回赤点取ったからって、心配する必要ないの!」
「ちょっと待て。ミツルはそんなにアホだったのか……?」
ミツルとは、愛梨の兄の名前である。父によく似た面差しの、優秀で真面目な青年のはずだったのだが――どうやら、そこそこアホだったらしい。
自慢の息子の意外な過去を知り、父は呆然となっている。
「子供たちのことをよく知りもしないくせに、父親風吹かせちゃってさ。慣れない説教なんてするから、やり過ぎんのよ!」
「すみません……」
自分の妻に欠片も残らず面子を吹き飛ばされて、父はうなだれてしまう。
二人の子供を育て上げ、家事全般をこなし、空いた時間には家計のためパートに出てくれるこの妻に、父は頭が上がらないのだった。
「ほら愛梨、おいで。今夜のおかずは、あんたの好きなコロッケだからね」
「うん!」
愛梨はすっかり機嫌を直し、靴を脱いで、家に上がった。その後ろを当たり前のように、タロウもついて行こうとする。
父はすかさずタロウの顔の前に手をかざし、その場に留めた。
「こらこら、タロウ。足を拭かないと。――いや、そうじゃなくて! まだ君を飼うとは決めてないからな!」
「あらっ」
ようやく愛梨の母も、見知らぬ犬の存在に気づいたようだ。
「まあ、可愛い! どうしたの、この子」
「いらないっていうから、もらってきた」
「あらー、おとなしくていい子なのにねえ。――あんた、うちの子になる?」
母はタロウのよく伸びる頬を、ぐりぐりと揉んだ。タロウも口角を上げ、嬉しそうにされるがままになっている。
「でも、前に飼ってたジョンが、死んだばっかりなのに……」
家長としての威厳を示さないといけないと思ったのか、父がもごもごと文句をつける。
「ジョンが死んで、もう三年経ってますよ。そろそろお父さんもお散歩を再開させないと、足も鈍るし、お腹にも肉がつくでしょ?」
「そりゃまあ……」
結局は犬好きの一家なのである。――これで決まりだ。
「この子、人間の言葉が分かってるみたいなの。まあ、こっちが一方的に喋ってるだけなんだけど……。なんか会話してるような気になるんだよね」
愛梨が笑いかけると、タロウはぶんぶんと音が鳴るほど、盛大に尻尾を振った。
~ 終 ~