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短編集

追放された悪役令嬢が作者の家にやってきた ~作者なので不遇のヒロインを幸せにする~

作者: 緋色の雨

 リビングの片隅に置いたパソコンのモニターに視線を向けながら、一心不乱にキーボードの上に置いた指を走らせる。僕が執筆しているのは新作、悪役令嬢モノの物語だ。


 主役となる悪役令嬢は、僕が愛情を惜しみなく注いで生み出した。

 公爵である父と、大恋愛の末に嫁いできた母とのあいだに設けられた待望の娘。彼女は公爵令嬢として、幸せな人生を歩む、はずだった。


 けれど、そうはならなかった。

 彼女が生を享たその日、彼女を産んだ母親の命が失われたからだ。


 彼女の母親は元々病弱だった。

 決して、悪役令嬢に責任がある訳じゃない。だけど、彼女は愛されなかった。父親は娘に視線すら合わせようとせず、兄はおまえのせいでお母様が死んだと罵った。


 それでも……いや、だからこそ、かな。

 悪役令嬢は必死に努力を続けた。

 礼儀作法を学び、学問や芸術の造形を深め、護身術にまで手を伸ばした。そうして立派な令嬢になれば、いつか父や兄に愛してもらえると信じていたからだ。

 ――だけど、現実は残酷だ。


 才色兼備の公爵令嬢でありながら、家族からは見放されている。彼女に手を出しても咎められることはない。まことしやかにそう噂される彼女は、恰好のイジメの的だった。

 家族に愛されるどころか、彼女は周囲の嫉妬を一身に受けた。社交界で好き勝手に噂された彼女は悪役令嬢に仕立て上げられ、ついには親が決めた婚約も一方的に破棄され、濡れ衣で断罪されるまでに至った。


 そんな彼女が最後に願ったのは、家族にひと目会いたいというささやか過ぎる願い。だがそれすらも叶えられず、彼女は罪人として、異界の門へと追放されてしまう。


 僕は、そんな可愛くも哀れな悪役令嬢に、多才、万能、すべてを抱えるという意味を持つ、エマという名前を授け、プロローグである、追放されるまでを一気に書き終えた。


「ん~~~っ。いま何時だろう?」


 キーボードから手を放した僕は大きく伸びをする。時間を気にした僕は、ベランダの窓から朝日が差し込んでいること気付いて苦笑いを浮かべる。


 僕の名前は結城(ゆうき) 陽向(ひなた)

 事情があって、マンションを借りて一人暮らしをしている。

 とある公立高校に通う二年生だけど、WEB投稿サイト『カケヨメ』に小説を投稿し、その広告収入で生活費を稼ぐラノベ作家でもある。


 だから、ある程度の無茶は承知の上、なんだけど、朝方まで執筆してたのは熱中しすぎだった。登校まであまり時間がない。少しだけ寝て、続きは休み時間にでも書こう。

 そう決めた僕は、執筆データがクラウドを通じてスマフォに連携されていることを確認し、寝室に移動するべく立ち上がった――刹那、寝室からなにかが落ちるような物音が響いた。


「……え? なんだ、いまの音?」


 僕は一人暮らしだ。父はいるけれど、別々に暮らしている。もちろん恋人なんていないし、このマンションはペットも禁止だ。つまり、僕の部屋から物音が聞こえるはずがない。

 まさか……泥棒? いやいや、そんなまさか。そもそも、泥棒だったら先に玄関で物音がするはずだ。たぶん、水道管が音を響かせる、ウォーターハンマー現象だ。


 だから、たとえば――


「アレク、寝室の電気を付けて」


 音声認識サービスで寝室の電気を付けたとしても、寝室からはなんの反応も――


「ひゃっ!? 急に明るくなりましたわ!?」


 反応が――ある、だと?

 って言うか、いまの女の子の声だよな? まさか、誰かのイタズラか? いや、勝手に家に入って来るような知り合いはさすがにいないはずだ。


 困惑した僕は、すぐに通報できるよう、スマフォを握り締めたまま寝室の扉を開け放った。そこで目にしたのは、目を見張るようなプラチナブロンドの女の子。

 整った顔立ちに、見る物を惹き付けるアメシストの瞳。何処かのお嬢様のような容姿でありながら、身に付けるのは囚人が着るようなぼろ着。


 不安げな表情を張り付かせている少女に見覚えはない。

 だけど、僕はその姿を知っている。

 僕が思い浮かべた設定、そのままだったから。

 でも、いや、そんな、まさか……


「まさか、エマ……なのか?」

「……どうして、私の名前を知っているのですか?」





 新作の小説を書いたら、その登場人物が目の前に現れる可能性はどれくらいあるだろう?

 答えは零パーセント。

 現実でトラックに轢かれても異世界には転生しないし、VRはデスゲームにならない。小説を書くうえで、物語と現実の区別を付けるのは重要だ。


 なのに、いま現実として、僕の前にエマがいる。

 僕が生み出した、誰よりも健気な、だけど悲劇の悪役令嬢(ヒロイン)。そんなことはあり得ないはずなのに、僕はヒロインが現出した以外の理由を見つけられないでいる。


 なにか、他に相違点は――と、スマフォに執筆内容を表示させた僕は目を見張った。

 さっき、僕が書き上げたのは、エマが異界の門に追放されるまでだ。にもかかわらず、スマフォに表示させた原稿には、エマが見知らぬ部屋にたどり着いたところまで書かれていた。

 しかも――


 目の前に現れた少年は、なぜかエマの名前を知っていた。

 それに、なんだか驚き方が不自然だ。見た目は善人そうだけど、ここは罪人が追放される異界の門の先にある場所。そう考えれば、決して油断は出来ない。

 場合によっては――と、エマは視線を巡らせて武器になりそうな物を探す。


 ――と言う一文が書き加えられた。

 そして実際に、エマがゆっくりと周囲を見回している。

 って、まずいまずい! エマは才色兼備の令嬢だ。護身術だって習っているし、ときには非情になれる決断力もある。このままだと僕の身が危うい。


 どうにかして話し合いに持ち込まないと――と、そこまで考えた僕はある疑問を抱いた。もしも、この原稿に手を加えればどうなるのだろう――と。


 思い立ったが吉日だと、僕はスマホに指を走らせた。場合によっては――という一文を削除して、『とはいえ、エマは少年からは不思議な親しみを覚えた』という一文に書き換える。


 果たして、周囲に視線を巡らせていた彼女は、その視線を僕へと定めた。


「あの……どこかでお会いしましたか?」

「いや、あったことはないよ」

「そうですか? でも、私の名前を知っていましたよね?」

「あぁいや、すまない。キミによく似た、エマって言う芸能人がいるから思わず口にしてしまったんだ。もしかして、キミの名前もエマというのか?」

「ええ、そうです、けど……」

「そっか、凄い偶然だね」


 疑いの眼差しを向けられるけれど、僕は全力で誤魔化した。

 ここでキミを生み出した作者だと名乗っても、信じてもらえる可能性は低い。たとえ信じてもらえたとしても、話がややこしくなるだけだと思う。


 でも……この反応はさっきまでと違う。どうやら本当に、俺の書き換えた内容が、エマの心理に反映されているみたいだ。


 ……つまり、本当に僕が生み出したキャラクター、ということになる。信じがたいけど、エマの態度が変わった理由を他に考えられない。そうなると、家から追い出す――という訳にもいかないな。これからどうするか、話し合いをする必要がありそうだ。


「取り敢えずお茶でも入れるよ。ついてきて」


 僕は彼女に背を向けて、リビングへと引き返す。そこで眠気覚まし用に冷蔵庫に入れていたペットボトルの紅茶を二人分、グラスに移してテーブルの上に置く。


「取り敢えず、その椅子に座ってくれ。あんまり座り心地はよくないかもしれないけどな」

「あ、ありがとうございます」


 彼女はわずかな沈黙のあと、自分で椅子を引いて腰掛けた。

 ……そう言えば、本来は自分で着替えもしないようなご令嬢だったな。父や兄に愛情を注いでもらえないとはいえ、令嬢として最低限の扱いは受けていたから。


 いま、エマはどんな気持ちで、椅子を自分の手で引いたんだろう?

 そう考えると少しだけ胸が痛くなる。


「……あの、少しよろしいですか?」


 紅茶を一口だけ飲んだ彼女は、少し控えめにそういった。


「いいよ、なにが聞きたいんだ?」

「その……急に貴方の家に押しかけておいて、こんなことを聞くと変に思われるかもしれませんが、ここはいったい何処なんでしょう?」


 彼女の心境がありありと理解できて、僕は内心が顔に出ないようにするのに苦心した。

 それから、彼女が本当に聞きたいことを理解したうえで、状況を理解していない一般人として無難な、それでいて少しだけ察しがよい答えを思い浮かべる。


「ここは僕が借りているマンションの一室――なんてことを聞いている訳じゃないよね?」

「はい。出来れば、街や国の名前を教えていただければ……」

「ここは日本という国の、大阪の市内だよ」

「……日本、大阪、それにマンションもですが……どれも知らない名称です」


 エマは悲しげに俯いた。自分が知らない世界に迷い込んだと知り、もう一度家族に会いたいという願いが潰えたことに気付いたのだろう。

 それを知っている俺は、自分のことのように胸が苦しくなる。

 だけど、それでも、俺は知らない振りをして会話を続ける。


「日本を知らない? キミは一体、どこから……」


 僕が怪訝な顔を作って問い返せば、彼女は信じていただけるか分かりませんが……と、申し訳なさそうな顔で答えてくれた。

 アガルタという国にいて、気付いたらこの部屋にいた――と。


 ちなみに、アガルタは僕が設定したエマが生まれ育った国の名前だ。だから、彼女は少なくとも嘘を吐いていないことになる。追放されたことは……さすがに隠したようだけど。


 でも、無理もないよ。

 彼女がどこから来たのか知っている僕ですら、理解が追いつかないような状況だ。なにも分からず、いきなり異世界に放り込まれた彼女の不安は想像を絶するに違いない。

 そこで出会った相手に、いきなりすべてを打ち明けるなんてあり得ない。少なくとも僕は、彼女をそんな無防備な女の子に設定した覚えはない。


 だから、彼女が僕に秘密を持つことは問題ない。

 問題なのは、これからどうするのか……ということだ。


 ――と、僕が手に持つスマフォからアラーム音が鳴った。

 エマがびくりと身を竦める。


「な、なにごとですか!?」

「ああ、ごめん。そろそろ学校に行く時間なんだ」

「学校、ですか?」

「そう、学校。学園と言えば分かるかな?」


 物語の設定上、王都にあるのは学園だ。そのことを思い出して言い直す。彼女はなるほどと頷いて、そのアメシストの瞳に理解の色を灯した。


「貴方は……ええっと、そういえば、名前を伺っていませんでしたね。わたくしはローゼンヘイム公爵家のエマと申します。よろしければ、貴方のお名前を伺ってもよろしいですか?」

「ああ。名乗るのが遅くなってごめんね。僕は結城 陽向だよ」

「結城さんですね」


 僕は父と同じ苗字で呼ばれるのがあまり好きじゃない。とはいえ、彼女の生まれ育った国の世界観で言えば、名前を呼び合うのは相当に親しい相手だけだ。僕は心の中にあるわだかまりを呑み込んで、「それでいいよ。ローゼンヘイムさん」と応じた。


「あの、わたくしのことは――」


 と、彼女の声を遮るようにスマフォが鳴り響く。スヌーズにしては早いけどと手に取ってみれば、幼馴染みである祐司からの着信だった。


「ローゼンヘイムさん、ちょっとごめんね」


 黙っていて欲しいと素振りで伝え、スマフォの着信をタップする。


「よお、祐司。こんなに朝早くからなんの用だ?」

「ご挨拶だな。おまえが忘れてると思って、わざわざ電話してやったのに」

「……忘れてる?」


 なにかあっただろうかと思い返す。でも、これといった約束は思い当たらない。


「数学の宿題、ちゃんとやってるか?」

「……宿題なんてあったか?」

「そんなことだろうと思ったぜ。先生が帰り際、思い出したように宿題を出してたんだよ。おまえ、授業が終わってすぐ、小説の執筆を始めて聞き逃しただろ?」

「――っ。それは、ありそうだな……」


 成績を落とすと家に連絡される恐れがある。それが嫌で、僕は基本的に真面目な生徒として振る舞っているけど、それは授業中のあいだだけのことだ。

 授業後の話なら、祐司の言うとおり、たぶん聞き逃している。


「あ~、祐司、悪いけど……」

「朝は生徒会だから、机の中に入れとくよ」

「すまん、恩に着る」


 通話を切って時計を確認する。今から学校に行って宿題を写すことを考えると、既にギリギリの時間だ。俺はすぐに席を立ち上がった。


「ごめん、ローゼンヘイムさん。急いで学校に行かなきゃいけなくなったから、あれこれ話すのは帰ってきてからでもいいかな?」

「え、あ、はい。分かりました」


 僕は彼女の返事を聞くなりリビングを後にする。

 洗面所で歯磨きなどをすませ、部屋に戻って制服に着替える。そうして学校に行く準備をすませた僕は、最後にリビングへと顔を出した。


「それじゃもう学校に行くけど、冷蔵庫の物なんかは好きにしていいから」

「冷蔵庫、ですか?」

「うん。それじゃ、また後で」

「あ、はい。その……行ってらっしゃい」


 思わず目を見張った。

 誰かに見送られるなんて何年ぶりだろう?


「行ってきます、ローゼンヘイムさん」


 僕は胸の前で小さく手を振って、軽い足取りで家から飛び出した。




 僕が借りているマンションから学校は近い。徒歩で数分の距離を小走りに駆け、急いで自分の教室へと足を運ぶ。息を整えて教室に足を踏み入れれば、クラスメイトが驚いた顔をした。


「おはよ、陽向。今日はなんか早いな」

「陽向くん、おはよう~」

「……ああ。おはよう」


 気怠げに挨拶を返す。僕は基本的に付き合いがいい方じゃない。それはクラスメイトも分かっているのか、それ以上はなにも言ってこない。

 僕はさっさと自分の席に座り、そうして机の中を漁る。そこには、祐司が入れておいてくれたとおぼしきノートがあった。

 僕はそれを広げ、自分のノートに問題と答えを書き写していく。


 キーボード派の僕は、手書きが好きじゃない。とはいえ、学校の授業はまだノートとシャーペンだ。キーボードならもっと早く書けるのに……なんて思いながら書き写す。


「……まあ、それが出来たら、そもそもコピペで終わっちゃうんだけどさ」


 同じ写すにしても、自分で考えながら写す方がマシだろう。さすがに成績を落として、実家に連絡が――なんてことになったら嫌だからな。

 なんて考えながら宿題を写し終えた。


「……思ったより少なかったな。これなら、朝食くらい食べられたかも」


 時計を見れば、授業までまだ十分ほどある。授業までどうしようか――と考えた瞬間、真っ先に思い浮かんだのはエマのことだ。


 一緒に暮らすのは……ないな。ラブコメ小説じゃあるまいし、貴族令嬢として育った彼女が、小さなマンションで、しかも男性と一緒に暮らすことを受け入れるはずがない。


 かといって、警察に任せるような方法は論外だ。

 僕が生み出した小説のキャラクター。それも異世界の人間に戸籍なんてあるはずがない。警察に連絡したら最後、ろくでもない展開になるのは目に見えている。

 いくら他人に興味がない僕でも、そこまで薄情な真似は出来ない。……いや、小説の中では、大概悲惨な目に遭わせたんだけどさ。


 というか、僕が書いた小説のキャラクター、なんだよな。

 そう思ってスマフォを開けば、原稿に彼女の様子が追加で描写されている。いまのエマは、部屋を物珍しそうに見回しているみたいだ。

 その様子を思い浮かべてクスッと笑った。


 でも、続けられた一文。

『大きな姿見を発見したエマは、不意に涙を流した。姿見に映るみすぼらしい自分を見て、自分が置かれた状況を思い出したからだ』

 という描写に胸が痛んだ。

 そう言えば、エマはボロボロのワンピースを身に着けていた。


 着替えくらい用意してあげればよかった――と、そこまで考えた僕は、不意にある試みを思い付いた。僕はそれを試すために、必要な相手を探して周囲を見回す。


「あ、いたいた、茜。ちょっといいか?」

「ん~? 陽向じゃん。いつもぎりぎりに登校してくるのに珍しーね?」


 女子の輪の中にいた茜に声を掛けると、彼女は「ちょっと行ってくるね」と友達に一声掛けてから、僕のまえにある席に後ろ向きに座った。

 椅子の背もたれを両足で挟む形だ。


「スカートでその恰好、ちょっとはしたないぞ?」


 茜はお転婆な女の子で、小学校時代はズボンを穿いていることが多かった。でも中学高校と成長するにつれて、茜は可愛らしい服装を好むようになった。

 なのに、中身が成長していないので目のやり場に困ることが多い。


「ふふん? 陽向はあたしの下着が気になるのかな?」

「そんなことは言ってねぇ。それより、服だよ、服」

「……服? 制服のことじゃ……ないよね?」

「ああ。プラチナブロンド、アメシストの瞳。異世界からきた十七歳の美少女が日本で着る服はどんなのがいいと思う?」


 いきなりの質問だけど、僕がWEB作家だと知っている茜は動じず、頬に人差し指を添えて考え始めた。


「ん~そうだね。淡いグリーンの肩出しサマーセーターに、チェックのティアードスカート。その下には黒のガーターベルト&ストッキング、かな」

「……その心は?」

「陽向が好きそうだから?」

「まあ、そうなんだけど」


 僕の思考をトレースしていて、他人の意見として参考にならない――と思いつつ、僕は茜が口にした通りのコーディネートを、エマの着替えとして原稿に書き加えていく。

 エマが視線を向けた机の上に、着替えが一式置かれていた――という描写と共に。


 もしも、原稿に書き加えたことが本当に現実世界に反映されるなら、エマの着替えが現実でも用意されているはずだ。

 なんて、ほんとはあんまり期待していない。さっきはエマの内心を書き換えただけだからいけたけど、物質の現出まで可能だったらヤバすぎる。


 あれ? でも、執筆で彼女に関係することなら影響を及ぼせるんだよな? そもそも、彼女が僕の家に飛ばされたのも、僕がそういう描写をしたからだ。

 ……もしかして、異世界に帰すことも出来るのでは?


 そんなことを考えながら、原稿にエマの着替えについて書き終えた。

 そうして顔を上げれば、茜が待ってましたとばかりに口を開く。


「なになに? 小説の続きを書いてるの?」

「……おい、あんまり大きな声で言うなよ」


 幼馴染みの二人、茜と祐司は僕がWEB作家として活動していることを知っている。でも、クラスメイトには秘密にしているのだ。

 誰かに聞こえたらどうすると目をすがめれば、彼女はペロッと舌を出した。


「あはは、ごめんごめん」

「ったく、仕方ないな。で、なんだっけ? あぁ、続きかどうかだっけ。いま書いてるのは一応、新作……になるのかな? 投稿はしないかもしれないけど」

「え~どうしてよ。読ませてよ!」

「と言ってもなぁ……」


 元々は新作として投稿するつもりだったけど、エマはこの世界に追放されてきた。自分とエマのやりとりが書かれた小説をネットに上げる勇気はさすがにない。

 でも、どうせ新作は書く予定だった。

 新作を書いたら読ませるという約束なら問題ないだろう。そこまで考えて口を開こうとした瞬間、不意に目眩が襲いかかってきた。


「……っ」


 思わず手で顔を押さえる。


「え、陽向、どうしたの?」

「いや、寝不足だからかな? ちょっと目眩が」

「だ、大丈夫なの?」

「ああ。すぐに収まる、はず……あれ?」


 すぐ治まると思っていた目眩は逆に酷くなる。平衡感覚がなくなって上半身が揺れ、倒れそうになった僕は思わず机に手をついた。

 だけど、目眩は治まるどころか、視界が真っ白に染まっていく。


「これは、ヤバイ、かも……」

「陽向っ! しっかりして、陽向! 誰か保健室の先生を呼んできて!」


 僕の意識はそのまま光に塗りつぶされていった。




 目を開くと、見覚えのない部屋にいた。病室のようで病室じゃないような部屋。寝ぼけた頭で考えた僕は、ここが保健室であることに思い至った。

 そしてベッドの横、パイプ椅子に座ってスマフォを弄っているのは祐司だった。まれに見るイケメンのメガネ男子。窓辺から差し込む光を浴びる姿はむちゃくちゃ格好いい。

 さぞかし女の子にきゃーきゃー言われそうな光景だけど、悲しいかな僕もこいつも男だ。


「……やっぱ、現実はラブコメとは違うな」

「ん? あぁ、起きたか、陽向」

「心配掛けたみたいだな。ところで、いまは何限目だ?」

「もう放課後だ」

「――はあっ!?」


 かるく六時間は寝ていたことになる。

 嘘だろと祐司の顔を見れば、彼はスマフォをしまって溜め息を吐いた。


「不摂生のしすぎじゃないか?」

「一応、体調には気を付けていたつもりなんだが……」


 たしかに今日は徹夜明けだ。でもいままでにも徹夜はしたことがあるし、何日も寝不足が続いていた訳じゃない。一日くらいなら平気なはずだ。


「そうか? だが、半日寝るなんてよっぽどだ。体調が優れないなら実家に――」

「――祐司!」


 反射的に彼のセリフを遮った。

 わずかな沈黙が流れ、祐司が小さく息を吐いた。

「……いまのは失言だった。すまない」

「いや、僕の方こそすまない」


 僕の実家はすぐ近くにある。というか、小学校からの付き合いである祐司の家は近所だし、幼稚園からの付き合いである茜に至っては隣の家だ。


 だけど、僕はある日を境に近所に引っ越しして一人暮らしを始めた。

 切っ掛けはそう。親戚の集まりで、あることを聞いたからだ。

 母さんの死因は、僕を生んだことによる衰弱死だ――と。


 ……そう。悪役令嬢のエマの不幸な生い立ち。

 そのモデルは――僕だ。


 父と母は仲睦まじい夫婦だったそうだ。愛する嫁を奪われ、その原因である息子を恨んでいないはずがない。酔っ払った親戚のおじさんにそう言われたんだ。


 僕が一人暮らしを始めたのはそれが切っ掛け。

 幸い、その頃にはカケヨメに小説を投稿していて、学生が手にするには少なくない広告収入を得ていた。だから、僕は家を出てマンションでの一人暮らしを始めた。

 そういう事情だから実家に帰りたくない。


 祐司にだけはそれを話したことがある。だから、聞きたくないと言い放った僕に、祐司は過剰なほど申し訳なさそうな顔をしている。


 祐司に悪気がないことは分かってる。僕を心配してくれていることも。

 なのに、声を荒らげる必要はなかった。

 失敗だったと反省する僕は、この気まずい空気を変えようと口を開く。


「ところで、一体いつからそこにいるんだ?」

「なんだ? 朝からずっと看病していたとでも?」

「……してたのか?」

「まさか。ここに来たのは昼休みと、放課後になってからだ。俺は、な」


 それでも十分、優しすぎる。

 僕が女なら、祐司に惚れていたかもしれない。というか、頭もいいし、顔もいい。おまけに性格までいいのだから、これが恋愛小説なら主人公になっていただろう。

 とそこまで考えた僕は、ふと祐司が付け足した言葉に違和感を覚えた。


「……俺は?」

「茜は休み時間ごとに席を立っていた。行き先までは知らないが、な」

「あぁ……目の前で倒れたからな」


 気になって、様子を見てくれていたんだろう。

 後でお詫びをしておこう。


「そういや、まだ言ってなかったな。付き添い、ありがとな」

「気にするな。俺とおまえの仲だろう?」

「祐司……」


 祐司、マジでイケメンだ。受け答えにそつがなさすぎる。

 今度、イケメン主人公を書くときのモデルにしよう。


 そんなことを考えていたら、保健室の扉がノックされ、それから茜が姿を現した。部屋に入ってきた彼女は、ベッドで上半身を起こした僕を見てお日様のように笑う。


「陽向、よかった、目が覚めたんだ!」

「ああ。心配掛けて悪かったな。休み時間ごとに様子を見に来てくれたんだろ?」


 ちょっぴりからかうつもりで口にした。

 だけど茜は動じず、「まったくよ」と肩をすくめる。


「目の前で倒れるから凄く驚いたのよ。このまま、陽向の書く小説の続きが読めなくなったらどうしようって、本気で心配したんだから!」

「そっちかよ」


 素直じゃないなと突っ込みたいところだけど、茜の場合は本気の可能性がある。僕の小説を最初に読んだのは茜だし、すべての作品を何度も読んでくれているコアなファンだから。


「それで、身体はもう大丈夫なの?」

「……たぶん?」

「なんで疑問形なのよ。明日は休みだし、体調が悪いならあたしの家に泊まってく? ママとパパも、最近陽向が来ないって心配してたよ?」


 茜の口からとんでもない発言が放たれた。

 思わず、誰かに聞かれていないかと周囲を見回すけれど、幸いにも先生は席を外しているようで、他に話を聞いている者はいなかった。

 よかったと、俺は安堵の溜め息を零す。


 たしかに、小学校の頃は茜の家に泊まることが多かった。家が隣同士で親同士交流があり、父が仕事で家を空けがちだったからだ。

 だから、俺と茜は親戚のようなもので、茜に他意がないのも分かってる。それでも、高校になってその発言は絶対勘違いされる。


「……茜、いつまで小学生気分なんだよ」

「なによ。いくつになったって変わらないでしょ?」

「変わるんだよ、色々と」


 昔から男勝りな性格だったけど、自分の外見が女の子らしくなったことを少しは自覚して欲しい。茜の家に泊まったことがあるなんて、クラスメイトに知られたら大変なことになる。


「なんだよぅ。陽向の心配してるだけなのに~」


 不貞腐れる茜はやっぱり昔と変わっていない。僕はベッドから降り立ち、茜の頭にポンと手のひらを乗せた。


「……ありがとな。でも、気になることがあるから家に帰るよ」




 オートロックの玄関を通り、エレベーターで自分の部屋がある三階へと上がる。


「ただいまぁ……」


 家の鍵を開けた僕は、恐る恐る玄関の扉を開ける。エマが家に現れたのは現実なのか、現実だとして、まだ家にいるのか疑問を抱いたからだ。


 靴は――ない。でもそれは当然だ。異界の門の追放された彼女はボロボロのワンピースを身に着けるだけで、靴すら履かせてもらえていなかった。


「エマ――じゃなかった。ローゼンヘイムさん、いるのか?」


 声を掛けながら、手前の部屋から確認していく。僕の部屋にはいない。バスやトイレも当然のように無人だ。だけど、リビングの電気は付いていた。

 返事はないけれど……


「ローゼンヘイムさん、ここにいるのか?」


 声を掛けながらリビングの扉を開ける。僕が最初に目にしたのは、フローリングの床に広がるプラチナブロンドの髪。

 エマが床に倒れ伏していた。


「――エマっ、どうしたんだ!」


 慌てて駆け寄り、大丈夫かと呼びかける。


「エマ、しっかりしろ、エマ!」

「あ、結城、さん……?」


 幸いにして反応があった。けれど、それだけだ。

 エマはとても辛そうな顔で、上手く喋れないでいる。


 救急車を呼ばないと! そうしてスマフォを取りだした僕は、エマの症状が原稿に書かれているのでは? という可能性に思い至った。

 すぐにアプリを開いて、原稿の内容を確認する。


 フローリングの床に倒れていたエマを揺り動かしたのは、結城と名乗った少年だった――って、ここじゃない。もう少し前の部分だ。

 そうして画面をスクロールさせると、倒れる直前のエマのセリフが表示された。


『お腹が空いて目眩がする。もう、ダメかも……』


 ……え? ちょ、ちょっと待って。

 まさかの空腹? え、なんで? 冷蔵庫の物、好きにしていいよって言ったよな?

 いや、それよりも。いまは食べ物を用意するのが先だ。


「ちょっと待ってて!」


 僕はキッチンに立って手を洗い、冷凍していたコロッケとご飯をレンジに放り込む。そうしてタイマーをセット。待っている間に、冷蔵庫から取り出したレタスを手で切り取って水で洗い、缶詰のコーンやツナとともに器へと盛り付けていく。


「ひとまずこれでいいか」


 夕食には物足りないけれど、いまは速度を優先だ。僕はテーブルの上に食事を並べ、いまだフローリングの上に倒れているエマの枕元に膝を突いた。


「エマ、夕食だ、食べられるか?」

「ゆう、しょく? ――お食事ですか?」


 エマがパチリと目を開く。

 どうやら、食事という言葉に反応したようだ。


「そう、食事だ。起きられるか?」

「なんとか、大丈夫……ですわ」


 気丈にも答えるけれど、その所作は明らかに大丈夫じゃない。


「ごめん、ちょっと触れるよ」

「え、結城さん?」


 僕はエマの腕を自分の肩に回し、彼女の腰に手を回して引き起こす。というか……腰、ほっそ。ちょっと力を入れたら折れちゃいそうだ。


「あ、あのあの、放してくださいませ」

「ごめん。でも席に座らせるまでだから我慢して」


 僕は彼女の腕と腰を摑んだまま立ち上がる。羽根のように軽い彼女もまた、僕に引っ張られるように立ち上がった。そのまま彼女を支えて、リビングにある椅子に座らせる。


「あの、結城さん」

「話は後にして、まずはご飯を食べて。お腹、空いてるんだろ?」

「いえ、私は――」


 彼女がみなまで答えるより早く、彼女のお腹が可愛らしく答えた。思わず吹き出しそうになるのを堪えてそっぽを向く。横目でうかがえば、彼女は顔を真っ赤にして俯いていた。

 しまった。そう言えば、この子は生粋のお嬢様だった。


「その……口に合わなければごめんな」


 お腹の音なんて気付いていないかのように振る舞う。エマは「いえ」と慌てて、「いただきます」と続けた。だけど、料理を見て困った顔をする。


「ええっと、やっぱり口に合いそうにない?」

「いえ、そんな失礼なことは言いません。ただ、その……どうやって食べるのかな、と」

「……あぁ、そうだったな」


 中世のヨーロッパをベースにした世界の育ちだ。あくまで、もとにしたのが中世のヨーロッパと言うだけで、中世のヨーロッパそのものではないけれど。

 まあ要するに、だ。

 彼女が生まれ育った国に箸はない。


「ちょっとごめんな」


 僕は彼女の隣に座り、彼女の箸を取ってコロッケを一口サイズに切り分ける。その一切れをお箸で摑んで、零れないようにもう片方の手を添え、彼女の口元へ差し出した。


「え、あの……?」

「あーん」

「あ、あーん」


 控えめに開いた彼女の口にコロッケを差し出した。エマは少し恥ずかしそうに。だけどはむっとコロッケにかぶりついた。それからもぐもぐと口を動かすと顔を輝かせた。

 それでも上品に口を動かして、嚥下してから僕を見た。


「結城さん、凄く美味しいです!」

「そうか、口に合ってよかったよ」


 僕は笑って、エマにお箸を差し出した。


「今度は、自分で食べてみて」

「はい、分かりました」


 普通なら無理だろう。

 でも、彼女は僕が生み出したハイスペックなヒロインだ。あらゆる分野で努力をした彼女は、新しいことへの対応力も高い。

 彼女なら、すぐにお箸の使い方もマスターしてしまうだろう。


 そんな僕の予想通り、彼女は一度見ただけでお箸をちゃんと持ってみせた。それから何度かお箸を動かしてみると、ちょっと苦労しながらもコロッケを摘まんでみせた。

 そのまま、迷わず口の中に放り込む。幸せそうな顔で咀嚼した後、コクンと喉を鳴らしたエマは、目を輝かせてもう一切れ。その一口は危なげなくお箸で摘まみ上げた。


「ご飯――その白いヤツと一緒に食べるといいよ」

「はい、そうさせていただきます」


 僕が言うのとほぼ同時、エマはご飯も一緒に食べ始めた。上品さは失われていないけれど、その勢いはなかなかの物だ。どうやら、和食を気に入ってくれたようだ。


 エマは公爵令嬢だ。家族に冷遇されていたとはいえ、その生活水準は高い。庶民の食べ物は口に合わないかもと心配したんだけど……杞憂だったみたいだな。

 そんなことを考えながら、僕は彼女の食事を眺めていた。


 上品に、だけど幸せそうに食事をする姿を眺めていると、僕に妹がいたらこんな感じだったのかな……? と、ちょっぴり暖かい気持ちになった。


 あぁでも、産みの親という意味では父親なのかも?

 ……いや、同い年の娘はさすがにないな。


「あの、そんなふうに見つめられると恥ずかしいんですが……」

「あぁ、すまない」


 僕は視線を外し、彼女が食べ終わるのを静かに待った。


「ありがとうございます。とても美味しかったです」

「どういたしまして。ところで、量は大丈夫だった?」

「はい。その……取り敢えずは」


 ちょっと恥ずかしそうなエマが可愛らしい。

 お腹いっぱいには……ならなかったのかな?


「少ししたら夕食だから、そのときにローゼンヘイムさんの分も作るよ」

「あ、その……気を使わせてしまってすみません」

「気にしなくていいよ。それより、どうして空腹で倒れたりしたんだ? 冷蔵庫の物を好きにしてかまわないって言っただろ?」

「はい。それは覚えていますが……その、冷蔵庫とはなんのことでしょう?」

「あ……」


 そっか、失敗した。エマは冷蔵庫が分からなかったんだ。だから、食べ物を食べていいという意図すら伝わってなかったんだ。

 それでも、普通なら、倒れるまえになにか食べると思うんだけどな。

 不器用というか、育ちがいいというか……


「冷蔵庫というのは、あの箱のことだ。中に、痛まないように冷やした食材が入ってる」

「あぁ、そうだったのですね! その……無知ですみません」

「いや、僕の方こそ、説明不足だった、ごめん」


 彼女が無知というのなら、彼女の置かれた状況をすべて知っているのに、彼女に伝わらないような言い方をしてしまった僕は考えが足りていない。

 反省するのは僕の方だ。


 そんな風に考えていると、エマが不意にモジモジとしはじめた。両手を机の下に隠すようにおろし、身体をよじっている。


「どうかした?」

「いえ、その、なんでも……」

「……そう?」

「はい。なんでもありません!」


 なんでもないと言っているけれど、エマの頬は赤らんでいるし、その瞳はちょっぴり涙目だ。どうみても、なにかを我慢しているような……


 ……っと、待てよ?

 エマは冷蔵庫とか、近代的な物の知識がない。だとしたら……トイレは? 洋式の、それも蓋を下ろしたあれを見て、トイレって思うかな?

 たぶん思わない。

 つまり――と、それに気付いた僕の顔が赤くなる。


「あ、その、えっと……そういえば、家の案内をしていなかったな」


 僕はそんな前置きを一つ。エマにトイレとお風呂の場所と使い方を教え、自分は着替えるからしばらく席を外すと言い残して自室に退散した。



 ほどなくしてリビングに戻ると、ちょっぴり恥ずかしそうな顔をしたエマが席に座っていた。僕はコホンと咳払いを一つ。「取り敢えず食器を下げるね」と声を掛ける。


「あ、その、お手伝いします」

「え、でも……」


 エマは生粋のお嬢様だ。なにをするにも使用人が手伝っていたので、着替えはもちろん、お風呂だって一人で入ったことはない。

 そんな彼女に、後片付けの手伝いをさせるなんて……と戸惑いを覚える。


「手伝わせてください。お願いします」

「……分かった。それじゃ、残りをこっちに持って来て」


 エマにとって、食器はトレイやワゴンに乗せて運ぶ物という認識のはずだ。でも、僕がお皿を手に持って台所へ移動すると、彼女はそれに習って残りの食器を運ぶ。


「ありがとう。すぐに洗っちゃうから、そこへ置いておいて」

「そんな、手伝います」

「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」


 言うまでもないことだけど、エマは食器を洗ったことなんて一度もない。彼女ならすぐに覚えるとは思うけど、そもそも覚える必要はないと思ってる。

 僕は彼女をもとの世界に帰すつもりだから。


「えっと……じゃあ、見ててもいいですか?」

「いいけど……どうして?」

「見て覚えて、次はちゃんとお手伝いします」


 どうやら、助けになりそうにないから断られた――と受け取ったみたいだ。でも、そこで拗ねたり怒ったりせず、前向きに頑張ろうとする姿勢がとてもエマらしい。


 でも……次? エマはここに居座るつもりなのか? そんなぐいぐい来る性格じゃなかったはずだけど。……あぁ、そういえば夕食も作る約束だった。


「分かった、好きにしたらいいよ」

「ありがとうございます」

「ところで……」


 と、僕はエマをちらりと見る。

 プラチナブロンドにアメシストの瞳。僕が設定したとおりの、愛らしい姿――だけど、身に付けているのは、いまだにボロボロのワンピースだ。

 さすがに、物質の顕現は不可能だったか――と視線を巡らせれば、部屋の片隅に女性物の衣類が畳んでおかれていた。どうやら、物質を創り出すことすら出来るみたいだ。

 なのに着替えてないのは……エマの着替えと認識されなかったんだろうな。


 でも……そっか。

 原稿に書けば、着替えすら創り出すことが出来るんだ。

 物凄く便利。


「ところで……って、なにを言いかけたんですか?」

「え、あ、ごめん。あそこにある服、ローゼンヘイムさんのために用意した着替えだから」

「え、そうなんですか? ご家族の服かと思っていました」


 あ、失敗した。彼女がこの家にやってきたのは不測の事態だ。なのに、彼女の着替えが用意されていたら不思議に思うのは当然だ。


「ええっと……実は、あの服は小説の資料なんだ」

「小説の資料、ですか?」

「うん、僕は小説を書いててさ。女の子の服の描写を勉強するために購入したんだ。だから、ローゼンヘイムさんの着替えにどうかなと思って」

「そうだったんですか。でも、大切な資料を使わせていただいてもよろしいのですか?」

「もちろんかまわないよ。それに資料として考えれば、可愛い女の子が着ているところを見せてもらった方が参考になるから」


 なにしろ、エマは僕が生み出したヒロインだ。僕の作品に使う資料のモデルとして、彼女より相応しい人間は存在しない。


「という訳で、よかったら着替えに使ってくれ。……あれ?」


 反応がないと思ったら、彼女はまた両腕を前面で合わせてモジモジしていた。


「ローゼンヘイムさん?」

「は、はい! なんですか?」

「いや、着替え。どうかなって」

「あ、そうですね。では、お借りしてもよろしいですか?」

「うん。着替え方は……分かる?」


 エマは自分一人で着替えたことがない。大丈夫かなと心配するけれど、彼女は着替えを両手で持って確認を始めた。


「ええっと。これが上で、こっちがスカートですね。はい、大丈夫です」

「そっか、よかった。それじゃ部屋にいるから、着替えたら教えて」


 リビングにあるベランダのカーテンを閉めて、僕は自室へと引っ込んだ。それからほどなくして、着替え終わったというエマの声が聞こえてきた。

 それを聞いてリビングに戻った僕は、彼女の姿に目を奪われた。


 知的な、だけどどこか孤独さを滲ませたアメシストの瞳。金色が強めのプラチナブロンドはサラサラで、肩口から零れ落ちた髪が、すべすべの肩に掛かっている。


 淡いグリーンの肩出しサマーセーターに、チェックのティアードスカート。その下に黒いストッキングというファッションは、僕が茜から聞いて原稿に書いたとおり。

 僕の好みではあるけれど、普通に可愛いデザインの域を出ない。

 だけど、エマにはその服が凄まじく似合っている。


 彼女のためにしつらえたオーダーメイドのようだ。というか、実際その通りなんだろう。僕が原稿に書き込んだ瞬間、この服は彼女の着替えとして創り出されたのだから。


「あの、どうですか?」

「似合ってるよ、凄く」


 ただ……と、僕はエマの胸元に一瞬だけ視線を向ける。チェーンで吊られた、肩出しのサマーセーターの胸元が思ったより大胆だ。

 でも、僕はそんな意図をしていない。

 なのに、どうして……あぁ、そっか。分かったぞ。僕はこの服の下にキャミソールを着ているイメージを思い描いていた。でも、描写をはぶいたから、着替えには用意されなかった。


 ……この辺り、要検証だな。

 いや、彼女をもとの世界に帰せば、その必要もないか。


「それじゃ、夕食のまえに少し話をしよう」

「話、ですか?」

「うん、大事な話。だから、そこに座って」

「はい、分かりました」


 僕の言動からなにかを感じ取ったのか、エマは少しだけ不安そうに椅子に座った。僕はなにも言わず、彼女の向かいの席に腰掛ける。

 僕が視線を向けると、エマの瞳が不安げに揺れた。


「それで……その、お話というのは?」

「ローゼンヘイムさんのこれからについてだ」


 彼女はやっぱりと言いたげに視線を落とした。

 聡明なエマであれば、ここが異世界であるという事実に気付いているはずだ。

 なのに、それらのことについて触れようとしなかった。行く宛てのない彼女は、僕がこれからのことについて触れるのを恐れていたのかもしれない。


 でも、彼女はとても強い女の子だ。

 すぐに顔を上げ、まっすぐに僕を見つめた。


「あの、これからのことを話すまえに、少しいいですか?」

「もちろんかまわないよ」

「ありがとうございます。実はわたくし、こことは違う世界から来たんです。その……信じていただけないかもしれませんが……」


 僕に呆れられたらどうしようと、説明しているあいだに不安になってきたんだろう。彼女のアメシストの瞳が大きく揺れ、彼女の声もまた小さくなっていった。


「……大丈夫、信じるよ」

「え? 本当……ですか?」

「うん。もちろん信じがたい話ではあるんだけど、ローゼンヘイムさんは僕の部屋にいきなり現れたでしょ? それ自体が、本来ならあり得ないことだからね」


 だから信じると繰り返せば、彼女は目に見えて安堵の色を滲ませた。

 まあ……無理もないよな。僕が逆の立場だったら、絶対信じてもらえるなんて思わない。それどころか、病院に連れて行かれることを心配するレベルだ。

 でも、僕は彼女の正体を知っている。


「ローゼンヘイムさんが異世界から来たと信じるよ」

「あ、その……ありがとうございます。正直、こんなにすぐに信じてもらえると思ってなくて、逆に混乱してしまいました」

「いいよ、ローゼンヘイムさんが落ち着くのを待つから。……飲み物を入れてくるよ」


 僕は席を立ち、キッチンでミルクティーを二人分用意した。それをテーブルの上に並べ、僕は再び席に着いた。そうして紅茶を飲んでいると、エマが意を決したように口を開いた。


「うん、なに?」

「実は、結城さんが学校に行っているあいだに、窓から外の景色を見ました。それに、部屋にある書物も少し読ませていただきました」

「ああ、この国の字を読めたんだ。そういや、日本語も通じてるな」

「あれ? そう言えばそうですね」


 エマが不思議そうに首を傾げるけれど、エマの世界が、僕の書いた小説の世界であることを考えれば、母国語が日本語でもなんら不思議なことはない。

 僕は「まあそれはいいや」と続きを促す。


「はい。それで、私が一人で、この世界で生活するのは無理だ、という結論に至りました」

「まあ、そうだろうね」


 エマなら、少し教えればすぐに順応するとは思う。でも一人では無理だ。順応するまえに犯罪に巻き込まれるか、警察に保護されるかのどっちかだろう。


「それで、その……物凄く厚かましお願いだと思いますが、結城さんのところでお世話になれれば……と思いまして」

「……僕のところで?」


 そのお願いは少し意外だった。権力者に会わせて欲しいとか、働き口を紹介して欲しいとか、エマならもう少し前向きなお願いをしてくると思ったから。


「も、もちろん、お礼はします! いまは、その……なにも出来ませんが、いつか働いて返します。それに、この家には使用人がいませんよね?」

「使用人……たしかにいないけど」


 エマには、僕がどんな風に見えているんだろう? ちょっと原稿を確認したい衝動に駆られるけど、真剣な彼女を前にそれは悪いと自重する。


「なら炊事洗濯とか、お掃除とか。後は……そうだ。結城さんは、この服が小説の資料だと言いましたよね? だったら、私がモデルになるなんてどうですか?」

「え、それは……」


 物凄く魅力的な提案に心が揺れる。


「必要ならモデルでもなんでもします。だから、だからお願いします。わたくしをここに置いてください……っ」


 エマは深々と頭を下げた。

 高位の貴族令嬢である彼女がこんなに必死にお願いするのはおそらく初めてだろう。

 他の令嬢達に陥れられ、家族に見放され、見知らぬ世界に放り出された。いまの彼女がどれだけの不安を抱えているのか、僕にはそれがよく分かる。


 彼女は追放されるようなことなんて何一つしていなくて、家族に愛されるために、ただひたむきに頑張ってきた、一生懸命な女の子だって僕は知っている。

 だから――


「残念だけど、それは出来ないよ」


 僕の一言に、エマは悲しげに顔を歪ませた。


「そう、ですよね。ごめんなさい、無理を言って。その……すぐに出て行きますね」


 薄情だと罵ってもいいはずだ。

 でも、彼女はそうしない。誰よりも家族の愛に飢えていて、人の温もりを望まずにいられない彼女はけれど、他の誰よりも他人を思い遣ることが出来る女の子だから。

 不器用だけど優しい。僕が愛情を注いで生み出した女の子。

 だから――


「出て行く必要はないよ」

「え、でも……ここには置いてくださらないんですよね?」

「ここに置くのが嫌で断った訳じゃないんだ。断ったのは、ローゼンヘイムさんにもっといい提案が出来るから。僕はたぶん、ローゼンヘイムさんをもとの世界に帰すことが出来る」

「……え? それは、どういう?」


 理解できないとアメシストの瞳を揺らすエマ。僕は彼女の吸い込まれるような瞳をまっすぐに見つめた。彼女の瞳は希望と絶望に彩られている。

 そして、彼女はいつも悲しい思いをしてきた。

 エマを不幸になんてさせない。

 僕が書き始めた新作は、エマが幸せになる物語だから。


「確証がある訳じゃない。でも……たぶん、いや、必ず出来る。ローゼンヘイムさん、キミが生まれ育った世界へ帰してあげられる。だから、ここに留まる必要はないよ」


 この言葉で、エマが笑ってくれると信じて疑わなかった。

 でも、エマは困った顔をする。だから僕は慌てて言葉を付け足す。


「えっと……その、嘘じゃないよ。詳しくは言えないけど……」


 僕の補足を遮るように、エマがゆっくりと首を横に振った。


「結城さんにどうしてそんなことが出来るのかは分かりませんが、疑っている訳じゃありません。ただ私は、もとの世界に帰ろうとは思っていないんです」

「……それは、どうして?」


 彼女の状況は知っている。

 令嬢達に濡れ衣を着せられて追放された。でも、戻ることが出来たのなら、もう一度チャンスがあるのなら、エマなら冤罪を証明することだって出来るはずだ。

 それは紛れもない事実。でも、僕は根本的なところで勘違いをしていた。


「戻っても、お父様に顔向け出来ないからです」

「……そう、か」


 そんなことはない――と、思う人もたくさんいるだろう。

 無実を証明すれば問題ない、と。

 でも、そうじゃない。


 彼女の母親は、彼女を産むと同時に亡くなっている。

 その母親を、父親は心から愛していた。

 愛する妻と自分のあいだに出来た娘を怨まずにいられないくらいに。


 父親はその感情を隠していたけれど、エマはそれに気付いていた。だから愛されたくて、エマは必死に頑張った。思い付くこと全部を頑張った。それでも父親は笑顔を向けてくれなくて、社交界でも冷遇されて、最後は濡れ衣を着せられて追放された。


 それでも、エマは父や兄を愛している。

 最後にひと目会いたいと願うほどに。


 だけど、だからこそ、家族に合わす顔がない。それは冤罪を晴らしたとしても変わらない。汚名を着せられ、家名に泥を塗ったことに代わりはないと思っているからだ。


 その気持ちは痛いほど分かる。

 エマは、僕をベースに生み出したキャラクターだから。

 それに、キャラクターの気持ちを、作者の都合でねじ曲げるのは好きじゃない。

 だから――


「……分かった。そこまで帰りたくないのなら好きにしろ」

「え、それは、その……ここに居ていい、ということでしょうか?」

「ローゼンヘイムさんがそれを望むなら、ね。ただし、ここに暮らすのなら、一つだけ約束してもらいたい。それを守れるのなら、好きにしていいよ」

「な、なんでしょう?」


 コクンと喉を鳴らし、僕の言葉に耳を傾ける。

 そんなエマに対し、僕はずっと思っていたことを口にする。


「僕の名前は陽向だ。結城と呼ばれるのは……あまり好きじゃない」


 エマは目を見張って、それから満面の笑みを浮かべた。


「なら、私のことはエマと呼んでください」


 こうして、僕とエマの奇妙な二人暮らしが始まった。

 この物語の結末は作者の僕にも分からない。

 


                    終わり

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