ある日の思い出
雨粒が窓をたたく。室内はサウナのように蒸し暑い。昨年から壊れたままのエアコンをにらみつけてもこのだるい空気は軽くならない。
熱のこもった部屋で何も音がしないと頭がおかしくなりそうになる。たまらず私はテレビをつけた。無機質な声が記録的な大雨の到来を告げている。
また雨の話か。
私はたまらなくなりテレビを消した。再び嫌な沈黙が訪れる。
いっそ眠ってしまえばこの気持ちの悪い現実から逃げられるのに。この湿気たちは私を現実から離れさせてくれない。
それならばと私は枕元に積んである文庫本を一冊手に取り開く。古本特有の香りが私の鼻を衝く。
こうやって逃げてやるからな。
うだるような湿度に挑戦するつもりで私はその物語を開いた。
何のことはない恋愛小説だ。死を悟った少女と少女に振り回される少年の話。どたばたなラブコメディーは少女の死でその幕を下ろす。
明らかにバッドエンドなのだが読後感が心地よい。少年は結局最愛の彼女を失ってしまった。にも関わらず、それでよかったのだと読んで感じる。これが最善だったのだと。
ああ、こんな人生を送りたいなあ。
バッドエンドかもしれないけれど満たされた人生。何も手に入らないけれど幸せな人生。なんとこの上ない贅沢なことだろうか。
そんなアンニュイな思いに浸っていると雨音が少し弱まっているのに気が付いた。熱さも心なしかましな気がする。
これならどうにか眠れそうだ。
私は瞼を閉じそっと眠りについた。
懐かしい制服。胸元に白い二本線の入ったセーラー服、高校の時のだ。
「イクノ、一緒に帰ろうよ」
聞いていると気持ちの落ち着く声で誰かが私に話しかける。
振り向くと少しいたずらっぽい、けれどどこか惹かれる顔をした少年がいた。
タケシだ。
なぜだか涙がこぼれそうになる。私はそれをぐっとこらえて答えた。
「うん」
タケシと並んで道を歩いた。途中でソフトクリームを買い食いした。他愛もない話をして笑いあった。
タケシへの思いがこみ上げてくる。懐かしい。愛しい。このままずっといたい……。
あっという間に私の家の前についてしまった。
「それじゃ」
そういってタケシは去ろうとする。
「行かないで!」
私はたまらなくなって思わずタケシの袖をつかんだ。
タケシは困った顔をして話した。
「僕、もう行かなきゃだから。イクノ、しっかりね」
そう言ってタケシはいってしまった。
はっと目が覚めた。寝巻は汗でぐっしょりと濡れている。
タケシ……。
あの日も同じようにソフトクリームを食べた。笑いあった。そして家の前でお別れをして……交通事故にあってタケシは死んだ。
忘れていた記憶。忘れようとしていた記憶。それが戻ってきてしまった。
洪水のようにあふれ出す記憶。その洪水は涙となって流れ落ちた。
とめどなく、とめどなく流れる。私のこの泣き声を雨音がかき消してくれればいいのに。
あの時呼び止められたらどんなに良かっただろう。もう少しだけお喋りしていれば。
あるいはあんなに無駄話しなければよかった。ソフトクリームなんて食べるんじゃなかった……。
ひとしきり泣ききると辺りはもう暗くなっていた。私は疲れ切りまた眠りについた。
夢の中でも私は泣いていた。それはもう大きな声で。
暗い空間でただ一人泣いていると、後ろから声がした。
「もう一度だけ言うよ。イクノ、しっかりね」
少し怒ったような声でタケシは私にそう言った。
思わず振り向くと一筋の光の中にタケシがいた。
タケシは暖かく私を見ると、その光の中へと消えて行った。
まぶしさで目を覚ます。小鳥のさえずりが聞こえる。
私は思い切りカーテンを開けた。
朝日が部屋全体に広がる。嫌な思い出を消し去るかのように。大事な思い出を暖かく包み込むように。
……頑張る。
私はそう小さく呟いた。