プロローグ『見知らぬ土地と、見知った人』
ーー意味がわからない
見知らぬ土地のはずだ、感じたことの無い風のはずだ。
なのに踏み出す足が、頬を撫でる風感触が、ここが自分の世界だと懐かしさを訴え続ける。
ーー意味がわからない
見知った人のはずだ、話した内容さえ昨日のことのように思い出せる。
なのに震える足が、頬を伝う涙が、こいつは誰だと違和感を訴え続ける。
「なんで、なんで俺がこんな目に……」
俺、工藤賢悟はぐちゃぐちゃの頭で、知らないはずの見知った地を、見知ったはずの知らない人に背を向け、ちぎれそうな足を引き摺って、走り出す。
ただ1人、自分に手を差し伸べてくれた、少女を探して……。
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「ほらけんちゃん!起きなさ~い!起きないとスクランブルエッグ食べちゃうんだから」
工藤家の毎日は間の抜けたような、それでいて優しさを感じる声で始まる。
リビングと横開きの扉1枚隔てた自分の部屋、その端に位置するベッドから飛び起き、工藤雅子…母さんと朝の挨拶をしようと元気よく扉を開いた。
「母さんおはよ……ってもう食べてんじゃん…タイムラグほぼゼロで起きたよ?僕」
「もがもぐもぐんぐ?」
「食べながら喋っちゃ喉つっかえるよ……大丈夫、今日は行くよ」
賢悟の現在の状況を簡単に言うなら、「半」引きこもりだ。有名大学に進学できたはいいものの、気づいたら家から出ない日々が続いていた。
理由など特にない。強いて言うなら、ある日を境に違和感を覚え始めたから、だろうか。この世界は自分の世界じゃない、なんて中二の子供でももう思わないようなことを真剣に思ってしまったのだ。
「キュッ!キュッ!!」
と、そこへ賢悟が「半」引きこもりであるもうひとつの理由が、元気に朝の挨拶をしてくる。
「ハム助!ハム吉!ハム蔵!!今日しっかり挨拶できてえらいね!!」
そう言いながら僕はケージのハムスター達に大好物のマカダミアナッツを渡す。
この3匹にはそれぞれ個性がある。ハム助はそそくさと頬袋にナッツをつめたあと巣に戻る。ハム吉はその場で美味しそうにムシャムシャ食べ始める。最後のハム蔵はナッツをしばらく眺めたあと、大事そうに抱えて追いかけてくる。
慎重、呑気、甘えん坊。そんな三匹を眺めながら、賢悟はだらしなく破顔する。
「ほんと可愛いなぁ……さて、行きますか!!」
だらしない顔を軽く叩き、気を引き締める。なんと言っても今日は新しい家族を迎える日なのだ。こんなだらしない顔ではだらしない中身がダダ漏れである。
まぁいずれバレることなんだけどね…。と、賢悟は独りごち、お気に入りのスニーカーに足を通す。
「行ってきます!!」
「は~い!気をつけるのよ~?あなた危なっかしいんだから!初日から嫌われちゃダメよ~」
そんな煩わしくも暖かい言葉に背を押される気持ちで、賢悟は外へと1歩を踏み出した。バディのハムスター達と一緒に。
「おっ!!!珍しいお方のご出勤だ!!!今日もハムスター連れて動物園やってんなぁ!!」
「もう!!やめなよ!賢悟が困ってるでしょ!優悟!」
家から1歩を踏み出した途端、後ろから騒がしい声と共に、強引に家へと連れ戻される。
「止めてよ……せっかく行く気になってたのに……そういう所悪癖だよ、優悟兄さん。だから一葉姉さんにもいつまで経ってもお兄ちゃんって呼んでもらず、呼び捨てなんだよ?」
「おっと、こりゃ手酷い反撃をくらっちまったな!くはははっ!」
すげない返しにもかかわらず、優吾兄さんはいつも朗らかに笑う。こういう所が苦手なんだよなぁ……。そんなふうに思っていると、少しむっとした、落ち着いた声で横槍が入る。
「そんな偉そうな口を叩くお前は、さぞかし立派に学校に行くんだろうな?優悟も無駄口を叩くな、黙っていればお前はそこの穀潰しよりは少しはまともなんだからな。」
「父さんそりゃないぜ!!俺はこのスタンスでここまでなんとかやってきたんだからさぁ!」
「孝雄父さん…すいませんでした。」
俺たち兄弟は、測ったように真逆の答えを同時に返す。
ーー優悟兄さんは一言で言うなら「超エリート」だ。有名私立中学を主席で合格し、有名大学法学部にスムーズに合格、その後大手銀行で働いている。
持ち前の明るさと、人知れず努力するその姿はまさに完璧な「秀才」だ。
ーーその「秀才」と対をなす「天才」が一葉姉さんだ。