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深海魚と海月の私

作者: もすこ

水の中、冷たい。寂しい怖い。ひとりぼっち。みんないなくなってしまった。

息をすることすら億劫で苦しい。

このまま死んでしまうのだろうか。泥みたいにまとわりつく真っ黒な水は優しくない。


いつからだろう。いつからだったんだろう。他人と接することが億劫で、避けてばかりいた。

一人の世界、薄闇の空間は居心地が良かったはずなのに。深海から釣り上げられた魚のように、明るい太陽は眩しくて火傷しそうになる。

一という男に出会ってから、私は恐ろしくて堪らないのだ。以前の自分を塗り替えられていくような感覚。入り込まないでほしいと切に願うのに、本当は待ち望んでいた。

雫が溢れたような笑みに、私はきっと救われている。

祥子と私が名乗ると彼は硝子細工のようだと言う。漢字は違えど放っておいたらばしゃりと崩れてしまいそうな危うさがあるとも。

だから俺は君のそばにいたいんだと照れ臭そうにして。

私は二の句が継げず唖然とした。それから数瞬おいてぬる水が頰を伝った。どうして出会ったばかりなのにそんなことを言うのだと問えば、きっと初めて会った時から甘やかしたくて仕方がなかったんだと笑みを浮かべた。


優しさなんか信じない、他人を懐に入れたくない。だって信じて裏切られたらならばきっと私は死んでしまう。うっかりと幸せなんか感じてしまったら戻れなくなる。薄闇の世界。真っ黒な水に囲まれたひとりぼっち。寂しさは常にあるけれど余りある安堵が其処にはあった。

喜びはないけれど悲しみもない。苦しくもないけれど楽しみを覚えることもない。安定した世界で私は生きてきた。全ての他人を排除して。

人は一人で生きていけないとか、支え合っているから人なんだとか綺麗事を並べ立てられる度、微かな苛立ちを覚えた。

必要ない人間なんかいないと豪語する人間が、裏では手ぐすね引いて汚い手段で他人を貶めている。偽善者の顔を見ると吐き気がする。

一に対しても自身の虚栄を満たすため私に近づいてきたのだと確信して疑わなかった。それなのに、どうして。

掛け値無しの行為は眩しい。彼の時間を費やすほど価値のある人間なんかじゃないのに、彼はいつだって飛んできてくれた。

これを依存というのだろうか。新鮮な出来事は恐怖だ。好奇心よりも安定を望む私にとって彼は世界の破壊者。

怖くて怖くて堪らない。差し出された掌も、泣き出した時に添えられた体温も。私が知らないものを無償で差し出す。

損得関係なく与えられる他人からの愛情は真っ黒な水を、薄闇の世界を次第に変えていったのだ。


終わりは唐突だった。拒否し続ける私に愛想を尽かしたのかもしれない。一は苦い笑いを浮かべて、バイバイと手を振った。

いつもなら目が合えば嬉しさを隠さず私に近づいて来るのに。いつもならつっけんどんな私の態度を軽く諌めながらも隣にいてくれるのに。

些細なことだけれども、私にとっては重大事。太陽みたいな彼は構うだけ構って再び深海へと戻したのだ。冷たくて光のない世界に。


慣れ親しんだはずの薄闇はもはや安寧をもたらさなかった。どろどろとした黒い水も呼吸の邪魔をして息苦しい。

誰からも必要とされる人間になりたいわけじゃない。生きる目的なんていう大それたものでもない。ただ、太陽のようにあったかくて、空気みたいに一緒にいる一は私にとっては何より大事だったのだ。

思い返して、私は悟る。与えられたばかりではないか。差し出されたものに文句をつけながら享受していた。好きだとも愛しているとも言っていない。言っていないのだ。

潮の流れのまま漂っていた深海魚の私。クラゲみたいに漂っていつか水になって消えてしまうだろうと思っていた。

狭いアパートから行き先が分かるはずもなく走り出す。五分に一本走り出す電車、駅を目指して遮二無二走った。どこにいるか解らない。けれども行動的な癖して読書好き。社交的なのにどこか寂しげなあの人はのんびりと自分の好きな路地裏を野良猫みたいに歩いているに違いない。

二駅分電車に揺られ、逸る気持ちに足がついていかなくて甲州街道沿いにある大学の駅。人がまばらなホームを駆け抜けて、すずらん通りをきょろきょろしながら走る。額に汗、息が上がらなくなってきた。

そんな私に神さまは味方してくれたのだろうか。いつもの後ろ姿。一八〇センチに一歩届かない身長、Tシャツにアラジンパンツ。下北沢で買ったと言うこげ茶の鞄。考えるよりも先に声が出た。


「はじめ」


立ち止まりゆっくり振り返る彼。目を丸くして驚く彼の表情に汗まみれ顔に新たなぬる水が加わった。


「好き。好き」


人目憚らず私は感情のまま言葉を吐き出した。


「行かないで。置いてかないで。もう一人には戻れない」


しゃくりあげながら言うと、一はいつものように笑った。彼もまた周りを気にしないで、汗まみれだろう私を抱きしめた。こんなところ、知り合いに見れたらなんて言い訳しよう、なんて思ったがすぐに消えてしまった。


「ようやく穴蔵から出てきたな。連絡もしないでよく見つけたね。言いたいことも文句もあったんだけどもういいや。祥子がそんな風に走って来てくれたから。もうなんでも良い」


真っ黒な水、薄闇の世界。他人を拒絶し囚われない居心地の良い私の深海。

さよなら私の古巣、喜怒哀楽を感じさせない底はそこそこ良かったけれど私はもう戻らない。

辛苦に塗れても彼のいる世界で生きていく。

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