乙女の涙に心惹かれて③
「なぁなぁ嬢ちゃん。話聞いてんのか?」
「一人で飲んでてもつまんねぇだろ? 俺らと上の部屋で飲もうぜぇ?」
ムキムキムキムキと露出させた筋肉をうざったく膨張させながら、カウンターに座る目深にフードを被った少女を、二人のいかつい男が取り囲んでそんな台詞を吐いている。
下手にも程がある口説き文句だ。
アレで落とせる女が居るのだろうか。
「––––––うるさい。放っておいてってば」
なみなみとエール酒の注がれたジョッキを傾けながら、少女はそんな男どもに一瞥もせず、軽くあしらった。
「おいおい、釣れないこと言うもんじゃねぇよぉ? そーいうのは相手を見て言わなきゃなぁ」
「ここがどこだか知ってんのかおめぇ。教会でも無ければ学校でもねぇんだぞ? 貧民街の酒場じゃ、ナニが起きても誰も助けてくんねぇんだから、口の利き方に注意しないと––––––」
男の内の一人が、少女のマントの襟首を掴もうと手を伸ばす。
「––––––どうなるんだ?」
その手を止めたのは、間に入った俺の右手だ。
手首を掴みグイッと引き寄せて肉薄し、男の目を捉える。
「––––––てめぇ……。ようやく帰ってきやがったのかヴェノぉ」
「わざわざ出迎えごくろーなこったな。俺の帰りを待ってくれてたのか? ついでに人のヤサの真下で女漁りとは随分強気じゃねぇか」
一見無秩序に思える貧民街にも、場所々々によって暗黙のしきたりみたいなもんが存在する。
例えば、上納金の支払いという名の筋を通している店では暴れない。
例えば、商売人通しの縄張りを荒らさない。
この闘技場北の貧民街で真に守らなければならないルールは、ただ一つ。
娼婦を雑に扱わない––––––それだけだ。
「へへっ、ウチのリーダーがお前の事を呼んでんだよ。随分探させてくれたじゃねぇか呪われた野良犬野郎が」
「大人しくついてきて貰おうか」
まさにチンピラの、そして三下の台詞がよく似合うこと。
未だ掴んだままの俺の手を勢いよく降り落とし、傭兵団『赤縄』の男二人は腰の物––––––剣を抜き放つ。
「悪いけど男に呼び出されてもなんも嬉しくないんだわ。お前らのリーダーっつったらあのヒゲダルマか。詫びを言いてえんならそっちから出向くのが筋ってもんだろうに」
そもそもあのヒゲダルマが謝らないといけないのはオレじゃなくて、散々暴れて怪我をさせた娼婦の娘に、だ。
「あぁ!? 詫び入れんのはお前の方だろうが! この貧民街で用心棒みてえな真似してデカイ顔しやがって!」
「オレは女と子供の頼みは断らねぇと決めてんだ。ここで商売してる娼婦に泣きを言わすなんざとんでもねぇ話だぞ?」
そう。
貧民街で体を張って商売しているたくましい女たちが、腕っ節だけでモノを言うような相手に怯む筈がない。
なのにアイツらは、オレに助けを求めてきた。
アラクシャーシの裏の顔は、先ほどの嫌味男パラクスの親父であるナブラナイト伯爵だ。
もともとは伯爵との裏取引をしていた盗賊団『ハルボラ』が縄張りを張っていたここ北の貧民街では、こいつら傭兵団『赤縄』と剣闘士くずれのならず者集団『干し蛇』とで三つ巴の勢力争いが行われていた。
伯爵の権力の庇護下にいる『ハルボラ』によってケツを持たれていた娼館で、『赤縄』のリーダーが大暴れしたとなっては、北の貧民街はあっという間に全面抗争の火が燃え広がってしまう。
その中心にいたのは娼婦達だ。
抗争が勃発してしまえば、彼女達は否が応でも血生臭い殺し合いに巻き込まれてしまう。
そこで白羽の矢が立ったのが、比較的新顔にしてどの勢力にも属さないオレ––––––奴らにとっての『野良犬』ヴェノである。
前々から何度か頼まれて揉め事の仲裁や鎮火なんかしてたもんだからか、オレ本人の知らない内に名前が広まっていたらしく、アラーナの紹介もあって娼婦達はオレに助けを求めてきた。
オレは流れ者だ。
死んだって誰も気にしないし、余計な火種も抱えていない。
どこの組織の顔も潰さず、単純にオイタをした『赤縄』のハゲダルマが痛い目を見るだけ。
面子?
知らんよそんなもん。それこそ犬に食わせてしまえ。
オレは従騎士だ。
伝承に謳われた気高き騎士は、女子供の涙のために命を賭ける。
それにだ。
戦にも行かずに裏街でデカイ顔してるだけの傭兵どもに負ける要素なんぞ微塵もない。
働けってんだ。
こっちは働きたくても無職なんだぞ!?
「ねぇ、さっきからうるさいんだけ––––––」
「下がってな」
俺は何かを言いかけていた少女を隠すように体を移動させて、腰の剣に手を添えた。
同時に、この場末酒場『癇癪亭』の空気が一気に沸き立つ。
ここは掃き溜め。
夜な夜なクズ供がこぞって集まる場所。
切った張ったは日常茶飯事で、なんなら日々の殺し合いが賭けの対象にさえなっている。
つまるところ、この法と秩序の欠落した場所で剣を抜いたところで、誰も怖がらないし恐れない。
『おおっ! なんだなんだ!? ヴェノと知らねぇ奴の決闘か!?』
『相手は誰だよ! また下級剣闘士がイキってんのか!?』
『ちげえちげえ! 赤縄んところのチンピラ傭兵だ!』
『よぉし! んじゃあ俺はヴェノが勝つ方に20エセダ!!』
『俺はあのチンピラが勝つ方に40ピノン!』
『アタシはヴェノが秒殺に廻銭4枚だ!』
『おいおい、貨幣がバラバラすぎて賭けのレートがわかりにくいぞ!? 誰か表街から両替商連れて来いや!』
ほれ、この通り。
人死にが出ようがなんだろうが、ここにいる酔っ払い供にとってはただの娯楽だ。
こいつらの一晩の暇つぶしを盛り上げようなんて殊勝な心持ちがこの俺にあるはずもない。
向こうで獲物を振り上げて大笑いしているアガにゃ悪いが、さっさとカタをつけさせて貰おう。
「お前らんとこのリーダーとはまた今度、きっちりケリつけてやっから。今日は大人しく帰ってくんな」
キツめに巻いていた腰布から、使い慣れた長剣を鞘ごと引き抜いた。
「この至近距離で俺ら二人相手に、でかい口叩くじゃねぇか野良犬ぅ!!」
あーあーもー。
お前らこそ。
こんな密着した状態で、一々剣を振り上げるかね。
「喰らえぇえぶふぁっ!?」
添えた左腕の腕力を振り絞り、鞘に収めたままの剣を上にカチ上げた。
直撃したのは喉から顎にかけての突出した急所。
体の中心線を守らなければならないという、体術の基礎の基礎も忘れてやがるのかこの馬鹿供は。
顎は引っこめろよ。当てやすくてこっちは大助かりだが。
「兄貴!? てっ、てめぇこんにゃろう!」
連れの頭が跳ね上がり、仰け反って倒れるのを一々確認したもう一人の下っ端––––––下っ端その2が慌てて剣を両手に構えて体制を低くする。
「ぶっ殺してやる!!」
狭い場所のせいでテーブルや椅子に当たりまくる剣を疎ましく思ったのか、下っ端その2は何を思ったのか、一度剣を大きく背後に引いた。
なんでだよ。馬鹿かお前は。
なんのために尖ってんだその切っ先は。そのまま押し込めばいいものを。
「どぉりゃあああっああんぶりゃっ!?」
大きく見せびらかされた喉仏のど真ん中に、俺の剣の鞘が突き込まれる。
俺はただ、ぽっかりと空いた急所めがけて突きでねじ込んだだけ。
こいつら、下っ端どころか素人かよ。
傭兵団も人材不足なのかねぇ。
「ほれ、店内で暴れたら大家に迷惑だ。表に出るぞ––––––あれ、もしかしてノビてんの?」
汚ねえ床にぶっ倒れた下っ端その1とその2は、ぐるんと白目を向いて泡を吹いている。
「マジかよ」
嘘だろ?
幾ら何でもこんな弱いはずねぇだろうに。
『んだよこいつら、口だけかよ。まだ集金も始めてねえってのに』
『赤縄んとこ、最近団員増やしたって話を聞いたんだが、もしかして戦場に出たことのねぇ野郎まで入団させてんのか?』
『だらしない男だねぇ。おい誰か! こいつら表に放り投げてくんな! 酒が不味くなる顔だよ!』
『ちげえねぇちげえねぇ。せっかくの処女の前夜祭だってのに、シケた喧嘩見ちまった』
『なんにせよヴェノの勝ちだ! 野郎ども! 愛すべき我らの野良犬にかんぱーい!』
『かんぱーい!』
ヒゲダルマんとこも色々あんだなぁ。
あんな弱いの増やしたって意味なんか無ぇだろうに。
下っ端どもはむくつけきクズどもに担がれて、あれよあれよと店内から追い出されてしまった。
酔っ払いどもが俺を取り囲んで何やら勝ち名乗りを勝手にあげているが、俺としては喧嘩した気すらしねぇ。
「あー、なんだったんだアイツら。大家、水くれよ」
さっきまで下っ端どもが占領していたカウンターの椅子に腰を下ろし、今までだんまりを決め込んでいたこの『癇癪亭』の店主に声をかける。
「……たまには水と山羊乳以外も飲めよ。ここをなんだと思ってんだお前は」
ハゲ頭に大きな傷を貼り付けた大家が、その大きすぎる体躯を器用に使って小さい器に水を注ぐ。
元剣闘士上がりのこの人は、荒くれどもが大暴れするこの酒場を一人で切り盛りしている。
「ごめんごめん。それより、オレの留守中になんかあった?」
ちょっとした用事でこの街を出たのが一月前だ。
なんとか処女の日に間に合うように帰ってこれたんだが、思いのほか時間がかかってしまった。
「……さっきの奴らみたいなのがチラホラ顔出してたぐらいだ。お前、暴れんなら外で暴れろよ? これ以上店ぶっ壊したらすぐに追い出すからな」
「気をつけるって、勘弁してくれよ大家」
呪いのせいで忌避されて、しかもなにかと敵の多いオレが住める部屋なんざこの広いアラクシャーシの街だと貧民街ぐらいしか見つからない。
その貧民街の殆どの大家にすら断られまくったんだ。
ここの二階を追い出されたら、オレはそこらの路地で寝泊まりする羽目になっちまう。
「おっと、そういや。大丈夫だったか嬢ちゃん」
忘れてた忘れてた。あの下っ端どもがあまりにも歯ごたえなさすぎて、あの女の子の存在がすっかり頭から抜けてたぜ。
「何がよ。放っておいてよ。助けてほしいだなんて頼んで無いわ」
目深にフードを被った少女は、手に持ったジョッキの中身をちびちびと啄ばみながら応えた。
「お前、一人で飲みにきたのか? こんな怪しい店じゃなくて、表のもっと綺麗な––––––」
おっと、大家の顔が怖くなってしまった。
「––––––もっと安全な場所で飲めばいいのに」
「うるさい。どこでなにしようも私の勝手でしょ」
フードの下の強い眼光が、オレを見据えてキラリと光る。
「親切心なんだけどなぁ。さっきのみたいなめんどくせえ男に絡まれたり、危ない目に合っちまうぞ?」
「平気よ。見くびらないで。ていうかほんとうるさい! 大きなお世話!」
待て待て、そう乱暴にカウンターにジョッキを叩きつけるんじゃない。
そうでなくてもここのカウンター、オレが住むようになってからでもすでに5回替えてんだから。
「初めて酒を飲むなら、なにも一人でこんな場所に来なくても良いだろうに」
「はっ、初めてじゃないわ! お酒ぐらい飲み慣れてるんだから!」
そうか?
その割には、さっきからエールを煽らずにおずおず舐めてるように見えるんだが。
「なっ、なによ! お酒なんてっ、こんなっこんなのっ!」
そう言って少女は、ジョッキを(心持ち)大きめに傾けて飲み始めた。
「へっ、へいきなんだから!」
ならそんな苦そうな顔しなさんなって。
「お前さん、アラクシャーシは初めてか?」
「うぇっ、はっ初めてよ悪いっ!?」
「悪くはねえって。そう邪険にしなさんな。その旅装束のまま貧民街に入ってきたのか?」
「なっなによ。この酒場じゃ客の服装までいちゃもんつけるわけ!?」
違う違う。
ここは気のいいクズどもの集まる場所だが、クズはどこまで行ってもクズだ。
そんな値打ちのありそうなマントに、腰に携えた豪華な意匠の剣や具足、それに鎧なんて身につけてたらたちまち追い剥ぎにあっちまう。
「酔っ払って意識が無くなる前に、その高そうな装備をどっかにしまっておくことだな。盗まれちまうぞ?」
「お、大きなお世話よ! 私がただの盗人に遅れを––––––」
ん?
なんだ?
どこ見てんだ?
あ、ああ。
オレの従騎士認定証を見てんのか。
さっにノーラに見せたまま仕舞うのを忘れてたぜ。
あんまりおいそれと見せびらかして良いもんじゃねぇからな。
「あ、貴方。その『乙女の涙』……」
フードの中の瞳を大きく見開いて、少女はオレの認定証をマジマジと眺めている。
「お、おお。一応こう見えても従騎士なんだ。まだ誰にも雇われてねぇんだけどさ」
顔半分が呪いで真っ黒だからなぁ。
こんな見た目で従騎士と言われても、信じられないのも当然か。
従騎士ってのは貴族の子弟がなるのが普通だ。
由緒正しき騎士剣技を身につけて、乙女騎士を守るのは、高貴な血筋の者こそ相応しいという考えが一般的だからな。
まぁ、最近だと年季の開けた乙女に見初められて、家系に乙女の血筋を取り入れようっていう考えの方が主流だけど。
それにしてもこの子、よく『乙女の涙』なんて認定証の通称を知ってたな。
四角い魔銀のプレートに掘られた、涙の雫と剣をモチーフにしたシンボル。
これを称して、『乙女の涙』。
乙女座院に属してないとあんまり聞かない呼び名なんだが。
「……あ、貴方も。明日の顔合わせに出るの?」
「もちろんさ! 従騎士になるのはオレの長年の夢だからな! 一昨年は顔合わせに間に合わなくて、去年は誰にも目をつけて貰えなかったが! 今年こそはってな!」
なにせそのために何年も鍛えたんだ。
先生との約束でもあるしな。
「……そ、その。悪気はないのだけれど、貴方のその顔の呪い」
「ん? ああ、これか?」
右手で自分の顔の左側を触る。
額から頬にかけてどす黒く変色した、オレの顔。
10歳の頃に「呪い」を受けてからずっと、オレはこの顔とともに生きている。
顔だけじゃない。
今はグローブと服で隠しているが、左腕から脇腹まで全部黒い。
「ちょっとな。小さい頃に瘴魔に襲われちまって、以来こんな感じだ」
「呪いを受けて、生き延びたの?」
「まぁ、助けてくれた人が居たからな」
本来なら死んでたはずなんだがな。
生き残っちまったんだからしょうがねぇ。
「……無理よ。乙女騎士は穢れを嫌うわ。明日顔合わせに出るのは先月養成所を卒業した新人ばかりだけれど、だからこそ曰く付きの従騎士なんて選ばないわ。みんな、伝承に憧れを抱いた純真な子ばかりだから」
「知ってるよ」
そんなの、言われなくても重々承知だ。
乙女騎士の伝承に出てくる従騎士は、高潔にして見目麗しく、そして勇壮な騎士の中の騎士だ。
オレみたいに生き汚く、泥にまみれた奴とは正反対。
あの伝承を知り、そして憧れた新人の乙女騎士たちから見ればオレは大外れも良いところだ。
「じゃっ、じゃあなんでっ! 貴方、顔を隠そうともしてないじゃない!」
「うぉっ!?」
急に間合いを詰められて、少しドキッとした。
側から見たらオレの胸にすがりついたようにも見えるほど、少女は近づきオレを見上げている。
その目の端に光るのは––––––涙?
小さな小さな水の球が、フードで隠された彼女の頬をつうっと撫でた。
「––––––隠されたら、信用して貰えないじゃないか」
「し、信用?」
少女は困惑の表情を浮かべた。
「初対面で顔を隠して、上っ面だけ取り繕った奴に––––––命は預けられないだろ?」
従騎士とは、乙女の盾だ。
その身を賭して全霊で、邪なる瘴魔と戦う乙女騎士を護る者だ。
つまり、従騎士は乙女の命を預かっていると言っても過言ではない。
近年は一人の乙女騎士に複数人の従騎士がつくのが普通になったが、一昔前は一人だけが従騎士になる事を許されていた。
乙女にとっては、信の置ける唯一の味方。
オレの目指す従騎士とは、そうでなければならない。
だからオレは隠さない。
表を歩けば指を差され、蔑まれ笑われるこの顔を、絶対に隠したりしない。
オレを選んでくれる乙女騎士に、何一つ隠し事なんかしたくないから。
「……ば、馬鹿じゃないの?」
呆れたようにため息を一つ吐いて、少女は体勢を戻してジョッキの柄を掴んだ。
「はははっ、まぁな。だけどオレはこれで良いんだ。これで」
「……良いんだ」
ぼそりと呟き、少女はジョッキを少し傾けてエールを舐めた。
逃がそうに眉間に皺を寄せて、慣れない酒をゆっくりと飲み始める。
「まあ、顔合わせだけで雇われようなんてムシのいい事は思ってねえよ。本命は剣技演舞だ」
そう。
オレのこの容姿と、貴族でもなんでもない身分で見初めて貰おうだなんて初めから思っていない。
オレが賭けてるのは、剣の腕!
顔合わせの儀が終わった後で闘技場で行われる、演舞と言う名目の剣技大会こそが腕の見せ所なのだ!
新人の乙女騎士の前で、我こそはと名乗りをあげる腕に覚えのある奴らとのトーナメント。
ぶっちゃけ今まで誰一人そこから乙女に雇われた奴なんか居ないが、可能性はゼロではない。
腕っ節なら自信ありまくりなんですよオレは!
「……そ、そっか。そう言う手も……あったのね」
「ん? なんか言ったか?」
か細い声でぼそりと呟いたその声は、オレの耳にははっきり届かなかった。
「なんでもないわ。貴方、名前を聞いてもいい?」
ジョッキをカウンターに置いて、少女は立ち上がる。
質の良いマントを翻し、小さな体躯の姿勢を正して、オレの横に立った。
「ヴェノ。ここらじゃ『野良犬』ヴェノで通ってる」
「そう、じゃあヴェノ。縁があったら明日、また会いましょう」
「あ? ああ」
少女は腰の布袋から硬貨を数枚出して、カウンターに置いた。
そのままオレに一瞥もせず、店の出口へと歩き出す。
「明日?」
剣技演舞、見に来るのかな。
そういや、あの子何者なんだろうか。
なんだか知らねえけど、この水飲んだら部屋に戻るか。
オレはカウンターの上に置きっぱなしだったコップを手に持ち、水を口に含む。
「言い忘れてたわ!」
背後から威勢の良い澄んだ声が響く。
振り向くと、先ほどの少女がまっすぐオレを見て手を挙げていた。
「私の名前はリアライラ! リアライラ=アストライエよ! 覚えておきなさいヴェノ!」
なんだか吹っ切ったように満面の笑みを浮かべて少女はフードを下ろした。
貧民街に吹く強い風に煽られて、真っ赤な長い髪が大きく揺れた。
「お、おお……?」
その光景は、まるで教会に飾られた絵画に描かれる英雄の姿。
真っ赤な髪のリアライラ=アストライエは、オレの返事に満足そうに頷いて、酒場の扉をくぐり喧騒の中へと消えていった。