「ピノッキオ」
「何かあったのかい、宇夫くん? なんでも、体調が優れないと聞いたが……」
真っ白いテラスの中、真っ白い白衣を着た白髪の医師は、白い紙コップをテーブルに置いて尋ねた。
その真向かいの席に腰下ろした、確かに浮かない顔をしている。彼は膝の上で拳を握り、俯き加減のまま問いに答えた。
「実は、さっき眠っていた時に、おかしな夢を見たんです……。すごく怖い夢なんだけど、とてもリアルで……まるで、本当の自分の記憶のような……」
「ほほう。詳しく聞かせてくれるかな? カウンセリングは専門外だが、何か力になれるかも知れない」
「はい……。全くおかしな夢なんです。……そこでは、僕は五歳くらいの男の子になっていて……」
そんな風に、宇夫は「悪夢」の内容を語り始めた。
※
夢の中で、宇夫は悪戯好きな腕白小僧だった。特に彼は姉──あるいは歳上の幼馴染──と思しき少女を標的としており、他愛ない悪さをしては、彼女を困らせていた。と言うのも、この少女は彼がどんなことをしても、穏やかに苦笑するだけで許してくれたからだ。結果、悪餓鬼はつけ上がり、また彼女に構ってもらいたいこともあって、彼の悪戯は徐々にエスカレートして行った。
──と言うのが、その夢の中での設定だった。
ここまでの部分を走馬灯のように一瞬にして理解した直後、シーンが切り替わる。
そこは、宇夫の知らない和室の中だった。もしかしたら、例の少女の家なのかも知れない。
──もぉーいいーかい?
どこかから、彼女の声が聞こえて来る。宇夫は「まぁーだだよ!」と大声で答えつつ、室内にあった箪笥の抽斗を開けた。中身を少し物色した彼は、女性用下着を一着取り出すと、シメシメと言った表情で抽斗を閉める。
それは少女の物だった。
とは言え、性的な興味からの行為ではなく、単に見られたくない物を勝手に持ち出し、さらに隠すことによって困らせてやろう──ひいては彼女に構ってもらおう──と言う、魂胆なのだ。
──もぉーいいーかい?
その声に先ほどと同じ返事をした彼は、静かに襖を開け、廊下の様子を窺った。細長い廊下の突き当たりでは、セーラー服を着た少女が一人、壁に向かって佇立していた。宇夫の方に白い制服の背中を向ける彼女こそが、「鬼」役なのだ。
宇夫はできるだけ足音を立てぬよう気を付けつつ、素早く廊下を横切り、ドアを開けた。無論、先ほどの下着は握り締めたまま。
ドアの向こうは脱衣所になっており、大きな三面鏡のある洗面台の隣りには、ドラム式の洗濯機が置かれていた。静かにドアを閉めた彼は、迷うことなくその洗濯機に向かう。
宇夫は丸い蓋を開け、足から先にその中に入った。土下座するような姿勢になると、小柄な彼の体は難なくそこへ収まった。この時は恐怖など微塵も感じず、ただちょっとした冒険に出たかのようなウキウキとした気持ちと、自分の悪戯の成功を確信し、ひたすら悦に浸っていた。
「もぉーいーよぉー!」
自信タップリに答えた彼は、その箱の扉を閉じた。
──が、有頂天でいられたのも束の間だった。
少女が家の中を歩き、自分を探し回る音を聞いているうちに、宇夫はある違和感を覚え始めたのだ。
──あれ? 息が苦しいような……。
それは、気のせいなどではなく、むしろ自明の理であった。ドラム式洗濯機の中などと言う狭い場所に入っているのだから、酸欠になって当たり前だ。
ましてや、夢の中の宇夫は五歳児である。代謝のいい子供のことだから、汗を掻くことで余計に体力を消耗してしまうだろう。
額にはすでに大粒の汗が浮かんでおり、そのひと雫が輪郭を伝い流れる。
ほどなくして、次第にハッキリとした恐怖を感じ始めた彼は、慌てて扉を開けようとした。
──しかし、開かない。
そもそも中に人が入ることを想定していない以上、洗濯機の扉を内側から開けるのは非常に困難である。自分から進んで隠れ彼だったが、今や完全に閉じ込められてしまっていた。
それがいかに危険な状況か、子供ながらに理解できた。形振り構っていられなくなった彼は、ようやく下着から手を離し、バンバンと丸い小窓を叩き始める。
──助けて! 助けて! ここだよ! ここにいるよォ!
宇夫は半ベソを掻きながら、声を張り上げた。しかし、鬼が気付く気配はなく、それどころか彼を探し回る足音すら、聞こえなくなっていた。
恐ろしいほどシィーンと静まり返った家の中に、助けを求める彼の声だけが虚しく木霊する。
そうしているうちに、息が吸えなくなって来る。まるで誰かに首を絞められているかのように、どれだけ空気を吸い込もうとしても、酸素を取り入れることができない。
ジリジリと、確実に「死」が歩み寄る恐怖に、幼い宇夫は絶望した。ほどなくして、声を出すことも、拳を振るうこともままならなくなる。
──やがて、宇夫はグッタリとして動けなくなった。意識は朦朧とし、今にも打ち寄せる晦冥の波に攫われてしまいそうに思われた。
そして、最後には強烈な眠気に耐えきれなくなった時と同じように、スッカリ重くなった彼の瞼は閉ざされる──
その瞬間であった。
宇夫がそれを目にしたのは。
扉の小窓により丸く切り取られた脱衣所の中に、いつの間にか先ほどの少女が佇んでいたのだ。
──やった! **姉ちゃんが見付けてくれた!
彼は心の中で歓声を上げ、閉じかけていた瞼をどうにか開いた。これで助けてもらえる──宇夫はホッと安堵し、相好を崩しかけた。
──が、しかし。
希望を見出したのも束の間、彼はあることに気付いてしまう。
そこ──扉の向こうから彼を見下ろす少女の顔は──笑っていた。
形のいい唇から白い歯を零し、円らな瞳を弓なりに歪めて。
それが、宇夫が悪夢の最後に見た、世にも恐ろしい物だった。彼女の黒すぎるほど黒い黒目は、ハッキリとこう告げていたのだ。
ザマアミロ、と。
※
「と、言う夢なんですが……」
話し終えた宇夫は一息吐くと、不安げな表情で向かいの席の様子を窺った。
彼が話している間黙って腕組みをしていた医師は、「ううむ」と唸る、
「なるほど、確かに奇妙な夢だね。──しかし、まあ、気にしすぎないことだな。心配せずとも、夢の内容なんてすぐに忘れてしまうさ」
「はあ、そんな物ですか……」
「そうだとも。だから、ほら。いい子だから──もう少しだけ眠っていてくれ」
そう言い放つと同時に、彼はテーブルに置いてあったリモコンのスイッチを押した。
すると、途端に宇夫は瞼を閉じ、項垂れたまま、死んでしまったかのように動かなくなる。
ふう、と息を吐いた医師は紙コップに手を伸ばし、冷めたコーヒーを啜った。
その背後には、いつの間にか職員の男たちが佇んでいた。
「いいぞ、連れて行って」医師はそちらを見向きもせずに、不機嫌そうに言った。
「は。了解しました。──おい」
リーダー格らしき一人が合図すると、残りの二人が宇夫に近付き、小さな彼の体を台車の上に乗せる。彼らが幼児の形をしたそれを運んで行くのを見送りつつ、残った男は医師に尋ねた。
「ところで、不調の原因は?」
「簡単なことだ。オリジナルの記憶を引き継ぐ際に、事故死した時の物を消しきれてなかったんだよ。だから、その一部が『夢』として蘇り、重篤なエラーを引き起こしたのさ」
「なるほど、そうでしたか。開発部の方にシッカリ初期化を徹底するよう言い付けておきます。
いつもながら、助けていただいてありがとうございます。自動人形専門のお医者様は、日本では先生だけですから、私共もついつい頼りにしてしまって」
「そんなことはいいから、早く彼を治してあげなさい。ご家族の方だって待っているんだろう?」
「それはもう、すぐにでもそうさせていただきます」
男は恐縮しきった様子で答えると、足早に去って行った。
真っ白いテラスの中、一人きりになった真っ白い医師は、ボヤくように独白する。
「彼の話が本当なら、まるで逆さまのピノキオだな。子供の悪戯に対する罰にしては、厳しすぎるが……とにかく、彼がいい子として生まれ変われるのを願うしかないか」