K氏の事件
A~Zまで悪人を並べ立てようとしててやろうと思っています。
自分の中の悪を並べ立てれば、書いている本人の私は毒が抜けきって真っ当になれるかも知れません。
そう願を掛けながら、意外と悪が出てこないことに焦りながら、Kです。
懐かしい寂しかった頃のことを思い出しながら書きました。結婚前のすさんだ気持ちを、何とか思い出しながら書きました。
トイレに入って、誰もいないと俺は凄くホッとする。
ここ最近、俺は小便をする時に屁をこきたくなる。小便器の前に立って、ナニを出して、さあ用を足そうとすると、ケツの穴がむずむずとなってくるのだ。
正直これには参る。他に人がいると、俺はそいつが出ていくのをじっと待つ。ナニからは小用が出たくてもがいているし、ケツの穴は力が入って閉じられているからガスが逃げ場を失って、腹の中に戻っていくのが感じられる。
誰もいなくなると、俺は腹に力を入れて戻っていった屁を放つ。だいたい、音はしない。なんだ、だったら人がいても屁をこきゃ良かった、そんなことを思いながら俺は小便を安心して流す。
そして、いつも思い出す。もう何年も前になるが、ある人が定年で退職した。その人の強烈なトイレでのイメージを。
俺が入社したての頃、職場には、活気の塊と脱力の溜まり場とがあった。怒号が飛び交い、電話を両手に持って三人で喋っている先輩、茶坊主のように頭を一切上下に動かさずに滑るように歩く女性社員。
俺は戦場に来た高揚感とは、こんなものかと思った。俺は早くその中に飛び込みたかった。で、飛び込んだ。最初は露骨に先輩の女子社員に罵られ、バカにされ、それを上司に庇って貰ったりした。だが、電話は最初から両手に持った。電話番しかさせてもらえなかった俺だが、とにかく両手に持ちたかったのだ。俺宛の電話なんて無いから、もちろん取り次ぎだけだったが、それでも両手に受話器を持った。捌いて捌いて捌きまくる。俺はそんな自分の姿に酔った。
周りはそんな俺の姿を笑った。女子社員は「先方に失礼よ」と俺を睨んだが、部長は俺の肩を叩いて「ええて、ええて。」と笑ってくれた。
生きていくってのは、つまりはサバイバルさ。生きていくってのは、簡単なことであるはずが無い。俺はずっとそう思っていた。この国が平和なのは、ここ数十年だけのことであって、それまでは戦争をバンバンやっていた。そもそも、生きるってのはまさに命がけ。人間以外の生命体を見てみれば分かる。瞬間瞬間が命のやり取り。高度な社会を作り上げた人間といえども、その闘争、生存競争こそが生きるという現実のはずだ。
毎日食っているパンや米、豚肉、牛、魚、野菜だって、育てたり取ったりするのにどれだけ苦労することか。それを出来ない俺達は金を出して買っている。これが市場経済だ。だったら、俺も負けずとガリガリ仕事しなきゃ嘘だろ。
俺は女子社員に噛み付き、怒鳴り返し、それでも両手に受話器を持ち、両肩で受話器を挟んで頭から液晶画面に突っ込むような格好でパソコンの画面を睨みながらキーボードを叩いた。有能かどうかなんて、どうでも良かった。ただ、格好からでも仕事をしている姿を演じたかった。
今思えば、幸せな時間だった。
誰もが戦っていると思っていた。戦っているからこそ、飯が食えるんだと。じゃなきゃ、嘘だろ。いや、そうじゃ無い奴らもいるのだと、しばらくして知った。
入社して三ヶ月ほど経ったある日、俺の隣席のおっさんが昼休みから帰ってきた。そして、汗だらだらの状態でズボンをずらし始めた。
昼休みに会社の周りをジョギングしているという情報は得ていたが、仕事で直接絡むことはなかったので、俺はその人を良くは知らない。
ガチャガチャと盛大に音を鳴らせてベルトを外し、おっさんは雑巾色と言って良いのか、銭形警部がはいているようなデカパン(作者注:トランクス)を露出し、ブッと盛大に屁をこきやがった。しかも、わざわざケツを俺の方に向けてだ。
これには、唖然とした。デカパンが屁の風圧で波打つのが見えた。なんてみっともないやつなんだろうと、俺は思った。そもそも、屁をこくのに何でズボンをずらす必要があったのか、しかも、ケツを他人に向ける必要が。俺のことが、余程嫌いなのだろうかとも考えたが、全く接点はなく、挨拶以外で口を利いたことさえない。その挨拶も、挨拶を返してもらう時に俺に対する嫌悪感は、微塵も感じられないのだ。
それ以来、俺は多少そのおっさんに注意を向けるようになった。それまでは全く気にもかけていなかった。居るのは知っていたが、それでも意識の外の人間だった。俺が何故おっさんに全く意識を向けなかったのかという理由も、その内に分かった。
まず、おっさんの机の上にはパソコンがない。パソコンが使えないほどのロートルなのか、パソコンが必要ない仕事なのか。今時パソコンが要らない仕事など、考えられない。勤怠一つ入力するにも、どうしているのかと思った。
次に、おっさんの机の上には書類入れがない。つまり、余所の部署から回ってくる書類を受け取るための箱が無いのだ。箱に机の上を幾分でも占領されるのがイヤなのかというと、そうでもないようだ。なにせ、おっさんの机の上にはなにも乗っていない。ちびた鉛筆が転がっているだけだ。
俺が必死に電話を取り、Excelに数値を叩き込んでいる間、おっさんはひたすら図面を見ている。茶色く変色したピリピリと音のする紙(作者注:トレーシングペーパ。略してトレペ)の図面だ。
右手には水色の色鉛筆を持っているが、それが図面を撫でることはない。ただ、そこにあるだけなのだ。
俺の島(作者注:何人かが机を寄せ集めているところ)では誰もが騒がしい。茶を飲んでは「あっチイなあ」と自分で淹れた茶なのに文句を言い、電話を取れば飴と鞭が入り乱れる。激しくキーボードを叩く音、イライラとマウスをクリックする音、「ここウルセーから、ちょっと便所行ってくるわ」と言ってタバコを吸いに行くやつ。良い悪いはあるが、賑やかで活気がある。
それに比べて、おっさんの島はまるで廃墟のようだ。しーんとしていて、しわぶき一つ無いと言って良い。だから俺の意識に全く入ってこなかったのだ。存在していないのと同じだった。でなければ、例え他の部署だったり島だったりしても、俺も喧々諤々やりあっていた。顔も名前も知っていたはずだ。
そのおっさんと、何度か便所で一緒になったことがある。で、おっさんはズボンを下ろしすと、やたらだらんと長いナニを出して、必ずブッと屁をこく。屁にあわせてナニがブルンと上下に動く。その後で小便をダラダラと垂れ流す。
最近小便に行って屁が出そうになる俺は、どうしてもそれがフラッシュバックするのだ。
おっさんらの余りに平和な風景に俺は苛立ちを感じ、一度上司にあの人達は何をしているのかと尋ねたことがあった。上司は困ったように笑っただけで、答えてくれなかった。
他の部署の古参のおっさんと唾を飛ばし合って意地の張り合いをした後で、「あの人達って、昔は強者だったとか?」と水を向けてみたが、鼻で笑う以外、何も返ってこなかった。
おっさんらの肩書きには、主任とある。一体全体、何を主に任されているのやら。
唯一話をしてくれたのが、先輩の女子社員だった。タバコを吸う先輩にくっついて、屋外の喫煙所で缶珈琲を持っておっさんのことを尋ねたが、先輩も何も知らないという。たまたまそこでタバコを吸っていた先輩の女子社員が俺の疑問を聞きつけたのだ。
「XXさん(最古参のお局ババアだ)に聞いたんだけど、うちの会社に技術部があった時の人だって。開発もやってたらしいよ、何十年も前は。」
開発なんて、今はもうやっていない。いや、俺は全くそんなことがあったなんて知らなかった。
先輩は、ああと生ぬるく言った。
「生きた化石だな。」
紫色の煙が、青い空に向かって吐き出される。けだるく、脱力しきった先輩の表情から、煙だけが勢いよく吹き出される。
「俺達の稼ぎで、あの人ら食わしてるんですよね?」
バカバカしいじゃないかと俺は食って掛かった。先輩女子社員はバカにしたように笑った。
「仕方ねえじゃね。あの人らだって家族があるんだし。」
だから、何だってんだ。ここは養老院じゃないはずだし、俺達は何もしないやつらを食わせる義理なんて無いはずだ。
「若いねえ。いい?こんな仕事するから、来てくれって会社が募集して来たのが俺やお前やあの人達なの。だけど、会社の都合でその仕事、しなくなったの。じゃあ、そこで『そういうことで』って切ってたらよ、働く側からしたらたまらねーじゃね。」
俺は言葉を失った。呆然と無気力な先輩の横顔を見た。本当に、そう思っているのか?この先輩も、席に着けば顔色を変えて戦士の表情になるのだ。脅し、すかし、持ち上げ、媚びまくって商談をまとめる最前線の戦士。俺はなんだか気が殺がれる思いがした。
先輩はそんな俺の顔色を見たのか、フッと笑って言った。
「世の中ってのは、不条理が条理を駆逐して出来てんだよ。お前もその内分かるさ。それが世の中ってものよ。」
俺はだけど、おっさんらを心底軽蔑した。何もすることもなく、ただ会社に来て図面を眺めて一日終わり。珈琲をたっぷりと時間を掛けて淹れ、廊下では無駄話をフロアに響き渡る大声で長々とやり、昼休みの後はズボンをずらせて屁をこく。
俺はおっさんらを腹の中で寄生虫と呼んでいた。会社に食いつく寄生虫。こんなやつらがいたのでは、会社がいくら利益を上げても吸い尽くされる。もっと金をかけるべきところはいくらでもある。こいつらに払う年間800万ほどの金があれば、これって俺の年収の倍なのだが、どれほど事業が広がるか。それを俺に使わせてくれれば、どれだけより多くの金を作れるか。
定年まで一年となったところで、おっさんらは順次係長になっていった。それに激怒した一人が社長室に怒鳴り込みに行ったらしい。
小さな商社だ。誰が行ったかなんて直ぐに噂話にのぼった。無論、噂を広めているのは女子社員達だ。
おっさんらは係長として退職し、その分退職金には色が付いた。おっさんらは嬉しそうに退職していった。俺は、はらわたが煮える思いでまばらな拍手をして送り出した。
話を戻して小便だが、屁が出そうになると必ずあのおっさんを思い出す。そして、自分があのおっさんのようになるではないかと不安になる。だらんとした勃起しきれないような中途半端に脱力しきれないナニを垂らし、盛大に人目を気にせず屁をこく人生の絞りかす。
肉体的にも、仕事上でも、そうなったらしまいじゃないか。俺は自然と肩に力が入るのを感じる。
体を弛緩させなければ、小便も屁も出ない。俺はホッと体の力を抜く。
さてはて、果たしてあのおっさんらに力を抜く必要なんて有ったのかと思いながら。
おっさんらがいなくなって、おっさんらの島は庶務の女子社員の島に変わった。
それまでが無音の島だったのが、キーンと響く声が常時耳に入るようになった。だからと言って俺の仕事に対する集中力は落ちない。
新人の頃は無駄に受話器を両手に持っていたが、五年目にもなると冗談抜きで電話二台を抱え込み、ついでにパソコンのWEBカメラ越しにもう一人とテレビ会議をする。一体何人と話をしているのか、時々分からなくなる。電話の向こうの相手も、話しの流れによっては変わる。一つの電話を置くと、次の電話が鳴る。その間に空いた手で短く成果をメモする。次の電話にも答えながら、前の話しも続ける。
電話を切ると、俺はカバンを抱えて会社を飛び出す。屁こきのおっさんの席だったところには先輩の女子社員が座っている。
「切符」
先輩の女子社員が新幹線の切符を渡してくれる。「ども」と短く答えて俺は飛び出す。
ちょっと新人の頃は着られなかったような上等のスーツの裾を左手でパンと叩く。これが俺の気合いの入れ方だ。さあ、商談だ。バトルのゴングが鳴る。寝技で商談を勝ち取るのが、近頃の俺の得意技だ。そう、徹底的に持ち上げて媚びてすり寄る。俺にはこのやり方が身に合っているらしい。割りと巧く行く。俺は、これを寝技と呼んでいる。
タクシーに乗って行き先を告げる。近くの歩道を、制服を着た高校生が歩いている。俺は彼等の楽しそうな笑顔を横目に、今の充実した生活をひしひしと有りがたいと思い締める。
あの頃に、良い思い出はない。俺はバスケットボール部に入っていたが、動機はある程度不純だった。女子にモテたいからだった。だが、俺は見向きもされなかった。見向きもされないことに、俺はある程度慣れていた。俺はそういう奴だった。
どれだけ練習をしても、たいして上手くはならなかった。もちろん、練習すればするほど上手くなったが、目立って上手いというわけでもなく。三年生になっても、試合は誰か二人くらいが怪我で出場できなければお呼びはかからなかった。
俺もただ受け身でいたわけじゃない。好きな女の子に好きだと言ってみたことも有ったが、「なんか、イメージが湧かない感じ」と断られた。何とも言えない絶望を感じた。まだどこどこが嫌いだと言われた方がマシだ。
俺はMan of nothingだったのだ。
勉強も、どこへ行っても真ん中だった。小学校でも、そのまま進学した公立の中学校でも。少し勉強して進学コースのある高校に進んでも。全く聞かないほどではなくても、パッとは思い出せない名前の大学に進んでも。俺はいつも、成績は真ん中くらいだった。
スポーツも、好きだったから頑張れたが、パッとした成績は残せなかった。中学時代は水泳に打ち込んだが県大会にも出られず、もがきながら自己ベストを更新するだけの日々だった。無論、どの女子からも好きだとは言ってもらえず。この頃はまだ、自分からは言えなかった。
顔も平凡なんだそうだ。良くもなく、悪くもなく。どこにでもいそうで、印象に残らない。テレビドラマのエキストラ、そんな顔だと言われる。こんなに一生懸命生きているのに、何と言う言いぐさだろう。腹が立つが、人の意見だ。どうしようも無い。
学生の頃は、バイトに勉強に忙しかった。バイト先でも、大学でも、俺はやはり空気のように記憶に残らない存在だったようだ。
あんなに周りを笑わせ、仲間のために体を張ってバイト先の店長に立ち向かってクビになっても、誰の印象にも残らないなんて。そんなことってあるのか。
俺はどうしようも無い無力感にさいなまされていた。
俺は、一体何なんだ。
どうして俺は、こうも他人からスルーされるのだ。俺は誰からも必要とされず、誰からも愛してもらえないのか。俺は、俺はそんなにおかしいのか。
変なら変で、印象には残るだろう。中学校の頃にはナニを出していじっては女子を泣かせていた奴がいた。高校の頃にはケンカしては出席停止を命じられ、ほとんど学校に来なかった奴がいる。それでも、俺の印象には残っているし、同窓会があれば本人がいなくても話題にのぼる。
じゃあ、俺は?俺がその場にいなかったら、誰か俺のことを話題に上げてくれるのか?
きっとどの話題にも上らないだろう。どうして俺はこうも透明な存在なんだろう。俺が話せば、周りは楽しそうに笑うのに、記憶に残らない?仲間のために自分を犠牲にしても、記憶に残らない?何故?どうして。
ずっとそんなだった。
何とかしたかった。
敢えて小さな商社を希望したのは、ひょっとしたら何とか長になれるかも知れないと思ったからだ。課長、部長、次長。何でも良い。そうすれば、いくら何でも部下は自分のことを意識もするだろうし、記憶に残らないことはないだろう。
それに、俺は猛烈に仕事をしたかった。女性に受け入れられないフラストレーションというものは、女性に受け入れられたことのあるやつには到底分かるまい。自分で自分を慰めることに罪悪感を感じていたら、俺はきっと間違いなく犯罪者になっていた。それ程に狂おしいのだ。そうとしか言えない。頭の中の血が沸騰して、自分がどうにかなるのかと恐れる。無意識にコンクリートの壁に頭を叩き付けそうになる。それが、延々続くのだ。どこまで続くか分からない、それも又恐怖だった。世の中の半分は女性だ。なのに、誰も俺を受け入れてくれない。この惨めさ。誰を罵っても意味が無く、泣いても叫んでも、どうせどこにも声なんて届かない。
俺はそんな惨めさを、振り切りたかった。
バリバリ仕事して、それこそ『契約してやるから抱かせろ』くらい言えるようになりたかった。だからこの上なく人と泥臭く交われそうな商社を希望した。
今では電話をかけても名乗らない。一々名乗っていたら、『知ってるよ。さっさと用件言えよ。』と返ってくる。
これが、嬉しい。だから、俺は二三度会話をしたことのある相手に電話をする時は、名乗らない。「ど~もども~。お世話ッス」この最初のフレーズは絶対に固定だ。挨拶代わりだ。
先輩にその事を話したことがある。いつもの喫煙所で、俺は缶珈琲を持っていた。
「お前のその子供かと思う高い声、まあ二~三回聞けば忘れねえわ。」
惚けたまなざしは魂を空にでも吸い込まれたのか、先輩はそう言った。お前の実力じゃない、声のトーンだと。でも、俺はどっちでも良かった。覚えてもらえるなら、どっちでも良い。
アパートに帰れば倒れるように寝て、何日かに一度ネット上の女を頭の中で抱いて自分を慰めてしていたら、俺は安定を得ることが出来たように思った。
仕事が忙しくなればなるほど、俺は喜んだ。先輩は俺のことをドMと笑ったが、上等だ。
一度、他の先輩に「調子こいてんじぇねえぞ、ガキが!」と小用を足している時に腰を蹴り飛ばされたことがある。俺は便器に胸から激突し、スーツのズボンも自分の手も小便まみれになった。
男の嫉妬というものを初めて知った。それから、色んな手で嫌がらせを受けた。陰口、シカト、書類を汚されることもままあった。周りの俺への態度も、微妙に変わっていった。便器にぶつけた時の胸の骨に食い込むような痛みが、ずっといつも疼くようだった。俺の気分は滅入っていった。
ある朝来たら、机の上に珈琲をぶちまけられていた。契約書にもベットリとかかっていた。顧客の契約印が押された契約書を無防備にも机の上に置いていた俺も悪いのだが、俺は自分の中で何かが砕ける音を聞いた。
俺は自分が虐められている間はただただ卑屈になっていた。それまでの自信のある自分はなりを潜め、喫煙所では「病気か?お前」とからかわれた。
だが、いくら机の上に放置したというミスがあるにしろ、魂削って取ってきた契約書に珈琲ぶちまけられて、俺は完全に神経が切れた。
俺は給湯室からポットの電源を引っこ抜いて持ってきて、その中身をそいつの頭からぶっかけてやった。
「俺より仕事が出来ねーからって、調子こいてんじぇねえぞ、この役立たずが。」
声は酒に焼けたようなガラガラ声だった。
「チンポ付いてんのか、テメエ。」
手に持った空のポットをそいつの頭に叩き付けようと振り上げたところで、いつもだべっている先輩に腕を掴まれた。
「馬鹿やろうが。やり過ぎだろうがよ。」
先輩の声は仕事用の低い小さなものだった。
俺はその後社長室に呼び出された。社長はニヤニヤ笑っていた。
「元気だねえ、君。
やったことは、まあいけないことだから、減給10%三ヶ月な。それで彼も矛を収めるって言っているから。うん、警察には訴えないってさ。後でちゃんと謝っておきなさいね。
それにしても君、契約書汚されたのが導火線だって?面白いねえ。本当に面白いね。」
俺は思わず社長に尋ねた。
「私は、社長の記憶に残る社員になれますか?」
社長は一瞬きょとんとしたが、
「僕が重度の痴呆症にならない限りね。」
と言ってくれた。俺はその場で涙を滂沱と流してしまった。
入社当初のことだ。あれから五年経った。俺はいまだに自分に自信を持てないでいる。
誰かが、「君はエッジが効いてて良いねえ」と言ってくれれば、涙を流さんばかりに喜んでいる。
仕事はどんどんと新しいことを任され、自分でも新しい仕事を作り始めた。お客さんの中には俺のことを「ちゃん」付けで呼んでくれる人もいる。下の名前でだ。俺は嬉しくて仕方がない。この人の記憶に、もっと深く残りたいと思う。
先輩のタバコのお供で、今でも缶珈琲片手に屋外の喫煙所に休憩に出ている。とりとめのない話をしたり聞いたりすると、なんだかちょっとホッとする。
「そうそう、あの野郎、こないだの部の宴会で、まだネチネチ言ってやがりましたよ。」
入社当初に両手に電話を持って電話番していた時の部長が、今や取締役になっている。
取締役には、入社以来可愛がって貰っている。
「相変わらず君はエンジン全開で走りまくってるそうだね。」
確かに暴れ回っている。それだけに衝突は社内/社外を問わず多い。俺は一応それを詫びた。
「ええて、ええて。そういう人が会社を、社会を変えていくの。スティーブ・ジョブス、知ってる?ジョブス目指しなよ。
俺ね、君みたいな大生意気な人って、大好きなの。期待してるよ。」
俺は大いに意気に感じた。その感触を噛み締めている時に、
「あの人は誰にだって『期待してるよ』ってゆうんだ。俺にも、毎度宴会でそう言ってるから、気にしない方が良いぜ。」
熱湯を頭からぶっかけてやった奴が、勝手に何かを見透かしたようなにやけ顔で言いやがった。俺はそれを愚痴った。
「う~ん、君みたいに猪突猛進は仕方ないよ。いくら俺が根回ししろって言っても、君は聞く耳持たないじゃない。だったら、それくらいの嫌味は覚悟しなきゃ。かわいいもんだよ、それくらいなら。」
先輩は空を見つめたまま、口と鼻からぽわ~と煙を垂れ流す。
俺が気になっているのは、そこではない。取締役が誰にでも期待していると言っているという点だ。期待していると言って悪いわけじゃない。だが、俺としてはなんだか騙されたような不愉快な気分だった。
「取締役、よく『君には期待している』って言ってますよ。」
喫煙所は建物の壁に急ごしらえの屋根を付けたところにある。その建物の壁に背中をベッタリと預け、ケータイをいじりながらめんどくさそうに隣の島の女子先輩社員がタバコを吸っている。
俺は、女性がタバコを吸っているという点だけでもゲンナリする。その上、かなりの上から目線だ。俺は色々とゲンナリした。
「でも、『君のことが大好きだ』とは、言わないけど。」
そう言うと、まだかなり残っていたタバコを灰皿に捨てて戻っていった。
俺はその背中を呆然と見送った。
ハッと先輩の方を向くと、ニヤニヤしながら先輩が俺のことを見ていた。
「彼女さ、君に気があるんじゃ無いかな。前々からそうじゃ無いかなって思っていたんだけど。」
「嘘でしょ?だって、あの人、タバコ吸ってますよ?」
「ますねえ」
それから俺は何となく体がぎくしゃくと言いながら動くようになったような気がした。
先輩女子社員から切符を受け取る時も、「ども」といつも通り言いながらも手が微妙にそれて受け取り損ねたり、何かを渡そうとしてポロッと落としたり。
そんな時は、入社当初と変わらず嫌味を言われる。声の大きさは小さくなったとは言え、俺は妙に緊張してしまった。
・お局様だか何だか知らないが、上から目線が気分悪い。
・女性なのに、タバコを吸っている。
・トゲトゲしい態度が一向に収まらない。
・常に攻撃的。
・宴会でも喫煙所でもコンパでも、ずっとケータイをいじっていて、人と話す時も目を見ない。
これだけ俺としてのマイナス評価がズラリと並ぶ人も珍しい。しかも、多分に年上。ありえねえ。
表面上、俺に気があるようには全く見えない。
あるとすれば、この会社の年収くらいじゃないのだろうか。俺はかなりやり手で成績も良いのは誰もが知っている。その分、年収は多く貰っている。その稼ぎに寄生して、自分はのんびりしようってのじゃないのか。そう思うと胸くそが悪くなってくる。
それでも、俺は出張のみやげを買うのに、今まで以上に時間を掛けるようになってしまった。今までなら、目に入ったものを適当に買って、女子社員の島にポイと放り込んでいた。
それが今では、一人一人の顔を思い浮かべながら、その好みの平均を俺が勝手に想定して、考えに考えた菓子を買って帰る。それを先輩女子社員に手渡しするようになった。
・みやげを受け取る時に、礼を言わない。
やっぱ無い。無い無い無い。何やってんだろ、俺。
「君さ、知ってる?彼女さ、君より年下なのを。」
相変わらず先輩は無気力に煙を吐き出している。俺はそれを呆然として見ていた。
「あの娘さ、高卒だから、君より四歳若く入ってきてるわけ、会社に。
君は今何年目?六年目か。じゃあ、彼女は八年目かな。この会社では、社歴は彼女の方が先輩だけど、実は君の方が年上なんだよね。」
それであの態度かよと、俺はますますゲンナリした。とても年下には見えなかった。皮肉った言い方をすれば、お局としての貫禄が年上にしか見させていない。
俺は鼻から溜息を漏らして珈琲の缶を見つめた。
「ゲッ、あいつ年下のくせにあの態度かよッ!って思った?」
先輩は魂を雲に吸い取られたように、目は空一面に広がっている雲を見ているようだ。
「図星です。」
「うん、素直だ。
前にさ、彼女、君に気があるんじゃ無いかって言ったの、覚えてる?」
「ええ、ショックでしたから。」
へへと先輩は笑った。
「一生懸命にさ、君にバカにされないようにって、肩に力入っているんだよ、あの娘。
かわいいじゃない?」
ニカッと先輩が笑う。
「いえ、全然。」
「若いなあ。若いなあ、まだ。俺から見たら、かわいいよ。」
「タバコ、吸ってるじゃないッスか。」
「ッスね。」
「女性の体は男性と違います。女性は子供をお腹の中で育てなくちゃいけないでしょう?その可能性があるのに、タバコってどうかと思いますね。」
「そうねえ。」
「男女平等って言ったって、体の造りに違いがある以上、全く同じことをしても良いとはならないでしょう?」
「ですねえ。」
「そこんとこ、どう考えているのかなとか思うと、俺的にはないですよ。それに、向こうもそんなこと、思ってないと思いますよ。」
「そっかー。」
先輩は鼻と口から同時に煙を盛大に吐き出した。
「旨いよ、タバコ。君も覚えたら?」
「匂い、嫌いなんッスよ。」
「ッスかー。」
それから何度も、喫煙所に先輩の金魚の糞よろしくついて行った。だけど、先輩女子の姿を見ることは無かった。俺は、たまたま時間が合わなかったのだろうくらいに思っていたか、気付いてさえもいなかった。
気が付けば、着ているものが変わっている。ええと、夏はいつの間に去って行ったのだろうと自虐的に笑っていると、秋も飛んでいって冬になった。
夜中だろうが何だろうが、遠慮無くバンバン携帯に電話が入るようになっていた。海外とやり取りをすればこうなるのかと、流石に俺もくたびれる気がした。
夜遅くにゴミアパートと化した自宅に帰り、シャワーを浴び、ビールを引っかけてほぼパンツ一丁で寝る。夢を見る間もなく熟睡しているところに電話のベルが鳴る。俺は慌てて電話を取り、頭を日本語から英語モードに切り換える。これに二~三秒かかる。その間は英語で返せない。
「Just calling you to talk about your proposal. ‘Cause my boss is interested in yours. HAHAHA. You, lucky guy.」
コーラでも飲んでいるのか、言葉の間にゲップの音が盛大に入る。今のはゲップではないとやたら強弁をする。紳士であるふりをすることに人一倍気を使うアメリカ人らしい焦りが感じられる。ただ、俺の睡眠を妨害したのは、こういった昼の休憩にちょっと言っておこうという軽い電話だったりする。
時差ぐらい考えろと、殺意を抱きそうになるが、極めて嬉しそうな大袈裟な反応を示し、是非話を聞かせてくれと懇願する。
短時間でも、集中して眠れないのは応える。
そんな頭がボーッとしている時期に忘年会があった。だから、何故目の前に件の女子先輩社員がいて、サシで向かい合っていたのかは覚えていない。
手にしようとしていた日本酒の徳利を、目の前で取り上げられてしまった。
「もうよしなって。そんなクタクタなのに、これ以上飲んだら体に障るよ。」
遠くにワヤワヤと人の声がこだましている。先輩の声だけがハッキリ聞こえる。
「いいじゃないですか、どうせ俺は誰にも覚えてもらえない寂しい奴なんです。いやあ、ここで急性アル中になっても、救急車呼んでもらえないかもですよ。俺、何か無色透明で、存在感がまるで無い奴らしいですから。ははは、rock 'n' roll fuck!」
rock 'n' roll fuck!は何故か俺と一部のアメリカ人の間で流行っていた。お互い細かい詰めの交渉をしていて、お互いに合意が出来てもその上司もとなると又振り出しに戻ったりする。そんな時に、rock 'n' roll fuck!と言うのだ。意味は無いのだろう。ただ、誰かの口から突いて出た。それが俺に移り、またまた俺の口から他のアメリカ人の口に移っていった。伝染病みたいな言葉だ。
「寂しいからって、無茶しないの。」
「うッせー、タバコ女。何、知ったかこいてんだよ。
寂しいんだよ、どうせ俺は水みたいなものだからな。誰からも覚えてもらえず、誰からも必要とされず、誰からも愛されないんだよ。そんな人間なんだよ、もうすぐ人生三十年にもなるけど、誰からも愛してなんてもらってないんだよ。それ、分かる?な、三十年近く生きてきて、この孤独。童貞なんだよ、俺は。ヤバイだろ、人間として。
だったら良いじゃんよ。仕事して、仕事して、仕事して、その間だけでも誰かの記憶に残るんだよ。そいで宴会で急性アル中で死ねば殉職だろ?俺的には本懐だよ。
何もかも学生時代と同じよ。周りは相手はしてくれるよ、仕事だからね。だけど、本当に俺のこと、見てくれてるのかよ。俺だから話をしてくれているのかよ。俺の個性に向かって話をしてくれているのかよ。分からねえのよ、それが。怖いのよ。
でも、どうせそんなの分かんねえよ。上辺ではみんな俺のことを必要だとか、面白いとか、忘れられないキャラだとか言ってくれるけど、じゃあ実際いなくなったらどうなんだよって話し。きっと、ソッコー忘却の彼方に押しやられんじゃね?俺。どうせ、そんな程度なんだよ。
みんなが見てるキャラだって、俺が演じているだけのキャラだもんね。
ね、俺とセックスしても良いとか思う?思わないでしょう?いや、いいんだよ、それで。みんなそうだわ。
俺はね、もう死にかけの婆さんでも立つよ。やらせてくれるなら、拝んでやらせて貰うよ。俺は童貞なの、頭がおかしくなりそうなのよ。仕事の波に呑まれてないと、惨めさと苛立ちと寂しさで人でも殺しそうになるの。
そんなの分かんねーよ、フツーの人にはさ。」
俺は泣いていた。何を言ったか、ハッキリとは覚えていない。ただ、泣きながらボツボツと愚痴をこぼした。酒なんか、飲むんじゃなかった。
「分かるよ。寂しさって、誰もが抱えているもんだって。私だって、抱えてるんだよ。だから、一人で抱え込まないで。そんなものに潰されないで。」
「ハッ、フツーの人に言われたくはありませんねぇ。あんた、セックスしたことあるだろう。男にさせてくれって言われて、しただろう。あんたはその男と、して良いって思ったんだろう?いや、したい、抱かれたいって思ったんだろう。俺は、一切の女からその対象外に認定されているんだよ。それがどれだけ惨めか。
分かってたまるか。分かってたまるかよ、この俺の惨めさなんて。俺だけのものさ。俺だけにしか分からねえんだよ。」
その後は、歌った。吉幾三が持ち歌だ。瞬間的に声をひっくり返して歌う。ネクタイを鉢巻きにするのは、当たり前すぎてもちろんやる。誰もがゲラゲラ笑う。でも、どうせ直ぐに忘れるさ。
「ああ、影が薄いことが悩みだったのね。う~ん、何悩んでんのか、正直分からないよ。だって実際、今じゃ君の影は真っ黒に光り輝いているよ。
ま、光が強ければ強いほど、その色に対する好悪はハッキリ分かれるよね。俺は好きだよ。面白いから。巻き込まれるのも巻き込むのも楽しいからね。
だけど、それをスタンドプレーだと思う奴もいる。ま、思わせておけば良いんじゃない?」
「何と言うか、俺って存在しているのかなって思うんですよ。何と言うか、そこにいるのかいないのか、自分でも分からないみたいな。ずっと、お前は存在しないみたいだと言われ続けてきたので。」
俺も先輩もジャケットしか着ていない。小雪がちらつく寒空に、とっくに冷たくなったホットの缶珈琲を持って、俺は喫煙所に立っていた。
「君さ、事務の娘、ここ来なくなったの、気付いてた?」
「ああ、あの先輩スか?そう言えば、そうかもですね。」
「かもですよ。」
先輩は鼻から煙を無気力に、延々と吐き出す。
「誰かさんが、タバコ吸う女は嫌いだって言ったからだって。」
「俺ッスか?」
「ッスよ。夏より前から、来てなかったでしょう?元々、タバコ吸いに来てたんじゃなくて、外の空気吸いに来てたんだよ、あの娘。だから、ほとんどタバコ、口にしてなかったでしょう?
あら~、そんなことも気が付いてなかったんだ。
自分は周りから目を向けられないって言いながら、自分はどうなんでしょうね?」
「いや、だって。そんな対象じゃ無いって言うか。」
「対象じゃなくても、同じ職場で仕事する仲間でしょう?じゃあ、なんで目を向けないのさ。
髪型変えたの?とか新しいネックレスだね、とかでも女の子は喜ぶものよ、言ってあげると。」
「俺が言ったら、セクハラって言われそうです。」
「う~ん、そこは最近、難しいよね。
でもまあ、ちょっとは周りに目を向けなよ。君は自分が認められないって焦る余り、君に認められたいと思っている人間を見落としているかもよ。それって、バカみたいじゃない?」
そんなものだろうか。
すっかり冷たくなった珈琲に問いかけてみる。そうなのか?
いや、俺に認められたい人間なんて、いるのか?だって、俺は、ほとんど存在していない人間なのに。水か空気みたいなもので、その場で無くなっても、スッとどこかから代わりが来るみたいな。
数日後、俺は会社のトイレで倒れた。フラッと、まるでゆっくりと電気が消えるみたいに、目の前が真っ暗になった。
俺を助けてくれたのは、俺が熱湯をぶっかけたあの野郎だったと聞いた。男子便所の朝顔に、俺は顎を預けるように頭を引っかけていたらしい。
「前向きでしょう。倒れる時も、前向きなんですよ。ハハハ。」
入院先の病院で、見舞いに来てくれた社長に冗談を言ってみたが、受けなかった。
「君ね、頑張ってくれているのは凄く分かるし、嬉しいけど、体壊しちゃダメだよ。そこまで頑張っちゃね。
いいかい、君が倒れて、君の代わりをみんなで務めようとしたけど、仕事量も多ければ君が独自に進めていたことも多くて、結局回らないんだよ。
いくつかの商談も破談になっちゃってね。これ、君のせいだよ。」
社長は茶目っ気たっぷりに俺を睨む。
「倒れちゃいかんの。スター選手がいても良いけど、そのスターが欠けたら回らないなんて、組織としてダメなのよ。
うちのような小さな商社でも、それでも組織だからね。誰々がいないから、もう出来ませんとか、話が分かりませんとか、それじゃ困るのよ。お客さんも、怖くて付き合ってくれないよ。
だからね、倒れちゃダメなの。」
俺はベッドに腰掛けたまま、社長に深く頭を下げた。
喫煙所仲間の先輩は、見舞いには来てくれなかった。喫煙所ではローテンションだが、職場ではこの上なくハイテンションな人だ。忙しいのだろう。
隣の島の女子先輩社員は来てくれた。小綺麗な格好で、涼しげな表情は年よりも幼く見えた。
俺の頭の中では、濃い化粧、吊り上がった目、ケバい私服という印象だった。どれも、真っ正面から見たら、全く当たらない。
俺は、何を見ていたんだろう。
気まずく黙っていると、先輩が口を開いた。
「セックス、したよ。
初めてしたのは、高校の時。クラブの先輩。好きだって言ってくれて、好きだからしたいって。
だからしたの。
でも、ただしたかったのね。私のことが好きだったのかどうかも、私には分からない。
二人で会えばセックスをして、何か食べて、セックスするだけ。その内別れちゃった。
その後も、何人かとはしたよ。でも、同じよ。
男の人って、ただしたいのね。私という人格とじゃないの。私という器となのよ。
愛してる。大好き。ずっと一緒にいたい。
プレゼントもくれる、食事にもドライブにも連れて行ってくれる。でも、それはセックスとセット。セックスが付いてないと、何もしてくれないのかな。」
「いや、あの。それは違うんじゃ無いかと。」
「そう?
凄く優しそうな人が、ホテルに入った途端ビンタをする人がいたわ。もう豹変って言葉以外思いつかない。
乱暴にされた。凄く傷ついた。でも、誰も分かってくれない。
器だから?人格は傷ついても、器としては傷ついていない。だから、その後も他の人は私とセックスをしたがった。
付き合いたかったのか、ただセックスをしたかったのか、分からないの。
私は、私を必要として欲しいの。ただそれだけ。その中にセックスはあっても良い。でも、セックスのために私を必要として欲しくないのよ。
分かる?私も、寂しいのよ。」
俺は呆然として話を聞いていた。俺は、世の中の一体何を分かっていたのだろう。
俺は独りよがりで、ひょっとしたら俺は周りを傷つけるだけの存在だったのかも知れない。だから、俺には人を引きつける磁力が無かったのだろうか。
「あのですね、最近、俺、トイレに行くとですね、小と一緒にと言うか、小の前に屁をこきそうになるんです。」
「へ?って、おなら?」
「はい。前に設計の人、いたでしょう?定年で辞められましたけど。あのメガネの人、トイレでいっつも小の前にデッカイ屁をこいてたんですよ。」
「ちょっと、マジで?」
「俺ね、もうその人みたいになるんじゃ無いかって、心配で心配で禿げそうなんです。」
「禿げたらまんま親父じゃん、既にビール腹だし。って、おならとオシッコって、セットなの?」
「いや、珍しいと思いますよ。だって、他にそんな人、見たこと無いですもん。
だから、俺、トイレは誰もいなくなるまで小できないんですよ。」
「入れ替わり立ち替わり誰かが入ってきたらどうするの?」
「泣きそうです。」
「だよね。」
「でね、俺もいずれ、ああなるのかなって。電話もかかってこない。PCもない。仕事中は誰からもほぼ話しかけられない。昼休みの後は汗をダラダラ流して、ズボン下ろして、デカパンが揺れるくらいのデカイ屁を人に向かってこくんです。もう未来が怖くって。」
「ま、その前に便器に突撃したけど。」
「顎、骨折ですよ。」
「ホント間抜けよね。漫画にもならないわ。
あ、後で救急車呼んでくれた人、お礼言っときなさいよ。あなたのオシッコまみれになりながら、小脇にあなた抱えて119番に電話してたんだから。
あんな小者で卑怯で陰険な奴だけど、根は小心者なんだからね。」
「ッスね。」
「ッスよ。」
俺はどこかで聞いた言葉だと思った。喫煙所だ。時々、先輩が煙を吐き出しながら俺に相槌を打つ。「ッスよ。」目の前の霧が晴れたように思えた。
俺は先輩の目を見つめて言った。
「好きになっても、良いですか?」




