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月の裏側の話をしよう (9)


 それからの四ヶ月は早かった。

 何しろ毎日が本当に忙しかったのだ。デザイナーとしては喜ぶべきことなのだが、夏に発行された、私が表紙のデザインを担当したフリーペーパーの評判が良く、その影響もあってこの数ヶ月、事務所には多くのデザイン作成の依頼が持ち込まれた。

 あのフリーペーパーのデザインにはそれなりに自信があったのだが、まさかこんなに反響を呼ぶとは思ってもみなかった。

 社長はその功績をたたえ、私に臨時ボーナスを出してくれた。最初は遠慮していたが、周りの後押しもあり、私はけっきょくそれを受け取った。

 私はその臨時ボーナスで同僚のデザイナー二人と難波のかに道楽へ行った。三人で様々な蟹料理を堪能して、ビールとハイボールをたくさん飲んだ。蟹料理は美味しかったし、誰かにご馳走するということはやっぱり気分の良いことだった。

 すっかり寒くなった季節の中で、私は厚手のコートを着て仕事へ行き、夜は今年買い換えたばかりの羽毛布団と毛布にくるまって寝た。

 ふとカレンダーを見ると、いつの間にか歳月はもう二月になっていた。


 この四ヶ月の間に、私は数回スグルとメールで話をした。

 しかしそれは特別な会話ではなく簡単な近況報告だけの連絡で、二、三通メールをやり取りすると会話はすぐに途切れた。

 最初にスグルから距離を置きたいと言われてからもう半年近くが経つ。

 付き合っているのか別れているのかすらも定かではない今の関係を、私は特別辛いとは思わなかった。あのショートヘアの女の子のこともあまり考えなかった。

 一度だけ、一人で部屋の窓から月を見ている時に、もしかしたらスグルはもうあのショートヘアの女の子と一緒に暮らしているんじゃないかと思ったことがあった。

 私の夢見た場所で今頃二人は暮らしているんじゃないか、二人でお風呂につかって月の裏側の話をしているんじゃないかと本気で思った。その時はさすがに少し胸が痛んだ。

 だけど冷蔵庫のグレープフルーツジュースをコップ一杯分飲んで布団に入ってしまうと、思いの外すぐに眠りにつけた。


 タマキとはあの夜から一度も連絡を取っていない。私からも電話をかけなかったし、タマキからも電話はかかってこなかった。


 寒い寒い冬の朝、私はいつもより早い時間に出社した。

 朝の7時半、事務所に行くと私が一番乗りだった。アルバイト時代から長く勤めているが、一番最後に帰ることは何度かあったが、一番最初に出社するのはこれが初めてだった。

 まだ眠そうなビルの管理人から事務所の鍵を受け取り、提示された確認欄にサインをする。

 誰もいない朝の事務所は冷んやりしていて暗い。柔らかい朝の自然光の中、パソコンもコピー機も藍色に染まっていた。私が電気と暖房をつけるとそれらは各々自分の色を取り戻した。

 今日は四ヶ月前に打ち合わせをしていた藤井さんの仕事、社内報のデザインが始まる日だった。今日の午前中に原稿が入ってきて、明後日の午前中に校正を提出する予定だ。

 あれから何度となく社内、社外で打ち合わせを繰り返し、なんとか対応可能な段取りが組めた。とは言え、ぎりぎりな作業なことは最後まで変わらなかった。

 今日、まずは午前中に入稿する原稿の内容を確認して、全体のページレイアウトとデザインを決める。翌日朝から文字を配置していき、平行して表紙案を二案作る。それらを取りまとめ、その日中に校正を一旦完成させ、三日目の朝から内校と、それに対する修正を行い、午前中に完成した校正データを先方にメールで送る。

 何か一つでも予定が狂えば終わりな、綱渡りのスケジュールだった。

 おそらく今日は深夜までの作業になるだろう。作業が始まるとこの仕事にかかりっきりになるため、他の仕事をすることができない。だから朝早く来て他の仕事を片付けようと考えたのだ。

 誰もいない事務所の中、一人で仕事をすることは気持ちが良かった。朝だから空気もいいし、何より静かだ。

 例のフリーペーパーの件以来、同僚の私に対しての見方も変わった。私は最近では実質、デザイン部門のエースのような扱いをされていた。

 確かに私のデザインの効果で仕事が増えたのは事実だ。でも私自身は別に自分に技術や才能があったからあのデザインを評価してもらえたのだとは思っていない。技術や才能だったら私以外の二人の方がずっとある。ただ運が良かっただけだと思っていた。

 しかしそれとは別に自分の作ったものが評価され、たくさんの人に見てもらえたということについては本当に嬉しく思っていた。

 世の中には誰の目にも付かずに消えていくものがたくさんある。むしろ、ほとんどがそういうものだと言っても過言ではないだろう。

 そう考えると私は幸せだ。


 9時半には私は予定していた仕事をほとんど終わらせていた。後は藤井さんの原稿入りを待つだけだった。

「いよいよ、今日からやね。そんな早起きして大丈夫やったん?」

 出社した林さんが声をかけてくれた。

「全然平気ですよ。それでも林さんよりは寝てますので」と言って私は笑う。


 タマキと最後に会った日、私は強くなると決めた。弱かった自分を脱ぎ捨てて前に進む。

 そう思って日々を過ごすと不思議と身体もタフになった気がする。仕事で成果が出せた影響もあるのだろうか。今はがむしゃらでもいいからとにかく進んでいきたかった。


 しかしその日、11時を過ぎても原稿は入稿してこなかった。私は忙しなく進む時計をしきりに見てそれを待っていた。

 お客さんに電話をしても、会議中と言われてしまい連絡が取れないうえに、藤井さんもずっと外出していて全然連絡がつかない。

「個人用の携帯にも出ないね」

 気をきかせて林さんが連絡をしてくれたが空振りだった。

 一分一秒でも早く原稿を受け取りたい今の状況、あの人はどこで何をしているのだろう? 私は焦っていた。でもそれ以上に呆れていた。だから頭はいたって冷静だった。

 時計は無情に正午を過ぎる。築き上げてきた約束は簡単に破られたのだ。

「あわちゃん、大丈夫?」

 林さんが気を使ってくれている。

「うん、まぁ大丈夫です。どっちにしても今は待つしかないですからね」

「あいつ、どこで何してるんやろ」

 私の代わりに林さんが腹を立ててくれている。

 いつ原稿が入るか分からない状況の中、私は昼ご飯にデスクで菓子パンをかじった。

 この四カ月で私はまた少し痩せた。

 このままではちょっとまずいなと思い、筋トレを始めた。寝る前に腹筋、背筋を30回ずつやる、それだけで少し健康的な人間になれた気がしている。


 トイレに立った帰りに廊下の窓を開けて外の空気を吸う。

 真冬のツンとした空気が肌を刺した。遠くの空には名前も知らない鳥達が寒空を気持ち良さそうに飛んでいた。まったく、人の気も知らないで。

 試験期間中なのだろうか、まだ昼過ぎなのに下校中だと思われる高校生達が歩いていた。三、四人のグループになってそれぞれ駅を目指す。マフラーを唇まで上げて、笑いあったりしていた。

 私はそんな光景を見て、正月休みに母校を訪ねた時のことを思い出した。


 今年は仕事が忙しく、年が明けた後に遅れて休みを取り宝塚の実家に帰った。

 年が明けて数週間が経った実家にはすでにお正月感はなく、毎年決まってリビングに飾っていた鏡餅も片付けられて、すっかり日常の風景に戻っていた。

 私は特にやることもなかったので、毎日、本を読み、久しぶりにお母さんの作ったご飯を食べて過ごした。

 私の通っていた高校は実家から歩いて行けるところにある。私学だったのでほとんどの同級生は電車を乗り継いで通っていた。そんな中、徒歩通学の私は周りから羨ましがられていた。

「歩いて学校から帰れるなんていいねー」

 なんてよく言われたが、私は本当は徒歩通学なんてしたくなかった。

 みんなと一緒に電車に乗って、コンビニで買ったお菓子を食べながらくだらない話に花を咲かせて帰りたかった。

 私の通学路は線路の横の一本道で、よく電車で帰る友達が車窓からみんなで手を振ってくれた。私も笑顔で手を振り返すのだが、電車が過ぎ去った後、やっぱり少し寂しかった。

 年始の風の中、私は久しぶりに母校への道を歩いていた。

 何年ぶりだろう? もしかしたら卒業以来初めてかもしれない。

 そんなことを思いながら丈の長い厚手のミリタリージャケットのポケットに手を突っ込んで歩く。

 久しぶりに訪ねた母校は驚くほど変わっていた。

 私が三年間通っていた校舎は丸ごと姿を消しており、見違えるほど大きく真っ白な新しい校舎が建っていた。

 今日は平日で普通に授業をしているみたいなので、学内には入らず外から様子を見ていた。あまりの驚きに校門で掃除をしているおじさんに尋ねる。

「ここの校舎はいつ建て替えたんですか?」

「うーん、もう四年くらい前になるかな。前の校舎はもう老朽化が酷くてねぇ。お金はかかるが思い切って建て替えることにしたらしいんよ」とおじさんは言う。

「そうですか。ありがとうございます」

「あんた、卒業生?」

「そうです」

「驚いたやろう。えらい立派になってもうたからなぁ。でもちょっと寂しいか? 俺も長年ここで働いてるから、苦楽を共にした校舎が取り壊された時は辛かったで」

「そうですね。久しぶりに会いに行った友達がいつの間にか引っ越してしまっていた時のような気持ちです」

「うん、そうやろな。まぁ、でも綺麗な校舎に建て替わったってことはええことやわ。生徒等も喜んでるし、綺麗な校舎やと俺も掃除し甲斐がある。授業してるけどちょっとなら中入ってええで。どうや?」

「いえ、ここで結構です。ありがとうございます」

 掃除のおじさんは笑顔で手を振って校舎の中に入って行った。建て替えてから四年ということは少なくとももう四年以上はここには来ていなかったのか。一人暮らしを始めてからも、年に数回はすぐそこの実家まで帰ってきていたのに。

 掃除のおじさんはああ言うが、私は新しい校舎になぜかあまり良い印象を持てなかった。まるで、「あんたの知り合いのあいつはもう随分前に行っちまったよ。今は俺がここに住んでいるんだ」と冷たくあしらわれたような感じだった。それくらい新しい校舎は大きくて堂々としていた。

 四年か。四年の歳月は私とスグルの関係をぼろぼろにしてしまった。だけどこいつはまだ真っ白くピカピカだ。ちょっと悔しいな。

新しい校舎は「そんなん知らねえよ。俺には関係ないだろ」と言っているようだった。


 私の母校は校舎とグラウンドがそれぞれ別の場所にあった。校舎から歩いて十分くらいの場所にだだっ広いグラウンドとテニスコートがあるのだ。

 見に行ってみると、こちらは逆に驚くほど昔と変わっていなかった。

 テニスコートは全部で五面ある。私が在学していた頃と同じように、コートは綺麗に整備されていた。よく知らないが、私が卒業した後からテニス部が急激に強くなったようで、今では全国大会の常連になっているらしい。私はそれをテニス部だった友達から聞いた。

 テニスコートの奥に見えるグラウンドでは体育の授業をしていた。

 マラソンの授業のようで、男の子たちが広いグラウンドを走っていて、女の子たちはグラウンドの円の中に座ってそれを見ていた。

 そう言えば、私が在学していた頃からこの季節の体育は毎年マラソンだった。私はそれが嫌で嫌で仕方なかったことを思い出した。

 グラウンドの横には観戦用の客席がある。私はそこに座ってマラソンを遠目で見ていた。十年くらい前に自分もここで走っていたのか、と考えるとなんだか変な感じだ。

 男の子たちは走っていた。こんなに寒いのにたくさん汗を流して、白い息を吐いていた。女の子たちはずっと彼らを見つめていた。きっと男の子たちは女の子の目線を意識して走っているに違いない。

 男の子たちの何人かはこの中の女の子の誰かに恋をしているのかもしれない。また逆に女の子たちの何人かは白い息を吐く男の子の誰かに恋をしているのかもしれない。もしくはもうすでに二人だけの世界を持っている子もいるのかもしれない。

 誰かのために強くなる力。そんなものが確かにこの世界には存在するのだな。夢の中じゃなくてここにある。

 私は急に悲しくなった。だってそれは私がすでに脱ぎ捨ててきたものだったから。私の白い息は誰にも見られずすぐに消えた。

 線路沿いの実家への帰り道、私の横を電車が通り過ぎる。私は手を振ってくれる誰かがいた日を想い、静かに歩みを進めた。


 藤井さんが事務所に現れたのは15時頃だった。短く刈り上げた髪を掻きながらデザイナー部門のデスクに歩み寄ってくる。

 私はそれに気づいていたが、気づかないふりをした。

「あわちゃん、電話出れなくてゴメン。先方さん、原稿作りが上手く進んでないみたいで、うちにデータを送れるのは今日の夕方になりそうらしい」

 藤井さんのいつもの調子のいい声だった。営業トークの声。コートを脱ぎながら続ける。

「だけど校正は予定通り明後日の午前中にほしいみたい。あと、今回は年度末号だからもう4ページ増やしたいって言われたんだけどなんとかならないかな?」

 藤井さんはちょっと困った顔を見せる。

「藤井君、あんまり無茶な要求ばかりするなよ」

 林さんが立ち上がり藤井さんを睨む。明らかに声が怒っていた。私は林さんがこんなに怒っているのを初めて見た。

「いや、もちろん無茶なことは分かってるんだけど、そこをなんとか。ね?」

 藤井さんは困った顔を崩さないで続ける。私はずっと下を向いていた。

 もう止めて。本当の言葉だけがほしい。上っ面の言葉なんて私はもういらない。誰かを信じていたい。

 頭の中では私が今までたくさんの人からもらったたくさんの言葉や光景がぐるぐると回る。


 できることはできるし、できないことはできないやん。

 白シャツの後ろ姿から透けるピンクのブラジャー。

 もっとあわに向いている仕事が他にあるんじゃないの?

 バニラの匂いのする煙草。

 ピンカートン。

 来年には俺らも一緒に暮らしたいな。

 せーので吹き消したロウソク。

 白い息。


「ふざけないでよ」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。

「えっ?」

 藤井さんと林さん、そしてみんながこっちを見る。

 私は机を叩いて立ち上がった。

「できることとできないことをよく考えてから仕事を受けてよ! 自分で責任の取れないような仕事はするな! プロなら他人に責任を押し付けるような仕事はするな!」

 私は無意識のうちに怒鳴っていた。


 でも分かっていた。私のほしかったものはこんなものじゃない。

 私はただ幸せになりたかっただけなのだ。

 月の裏側のことを話して、静かに笑い合っていたかっただけなのだ。

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