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月の裏側の話をしよう (6)


 私の身体は凍りついてまったく動かなかった。しかし頭の中では思考が堺筋を通り過ぎる車たちのように猛スピードでどこかに向かって走っていた。

 そこにいるのがスグルなことは間違いなかった。四年も一緒にいるのだ。見間違えるはずがない。そして隣の女の子にはまったく見覚えがなかった。

 そうこうしているうちに二人はエスカレーターに乗ってゆっくり地下鉄の駅へ降りて行く。女の子の華奢な腕がスグルの腕に絡んでいた。二人は親しそうだった。

 あまりに突然のことだったので、頭が全然ついてこない。身体と心とがそれぞれ噛み合っていない。脳から身体への信号が上手く伝わらず、まったく連動しないのだ。以前にも経験したことがあるが、そういう状態は本当に辛い。気持ちを落ち着かせようとしてグラスの中の赤ワインを一気に飲み干す。

 酸味のある果汁が喉を焼く。その後、ゴボウチップスを何枚か食べたら少し落ち着いてきた。今の状況、誰にだって分かるよ。

 スグルには私の他にも恋人がいるのだ。


 20時を過ぎてもアスカからの連絡はなかった。私は銘柄の違う赤ワインをもう一杯頼んで一人で飲んでいた。

 なぜ? という感情が決壊した心のダムから流れ出る。止まらない激流になって音を立てて流れ出る。堺筋の車の群れも、藤井さんの無茶な仕事も、全部流されてしまった。その激流の真ん中で、スグルとあの女の子だけが流されずに私を見ていた。

 しかし激流は涙とはまた違う種類のものだった。心とは裏腹に不思議と瞳はまったく濡れてこなかった。距離を置こうと言われた時はあんなに泣きそうだったのに。いっそ今泣くことができたらどんなに楽だろうか。涙の激流なら一時的ではあるがあの二人も流してしまうこともできるだろう。

 二杯目の赤ワインを飲み干し次は白ワインを頼む。明らかにいつもよりペースが早い。頭が少しぼんやりしてきた。フミちゃんも少し心配そうな顔だ。

 なんだか疲れた……

 ぼんやりした頭で私はスグルと初めて会った時のことを思い出す。


 当時私は二十一歳の大学生だった。同い年のスグルも当然二十一歳なのだが、その頃にはもうすでに専門学校を卒業して働いていた。

 初めて会った日のことはよく覚えている。確かあの日、私は水色のワンピースを着て、その上に黒の薄手のカーディガンを羽織っていた。まだ残暑が残る九月だった。私はその頃から日焼けをすることが何よりも嫌いだった。

 私の通っていた大学は京都にあった。生まれてからずっと宝塚の田舎に住んでいた私にとって京都の街並みは新鮮だった。この頃にはもう大学三回生になっていたが、飽きもせずに週末になると京都の街を探索して歩いた。相変わらずの散歩好きだったのだ。

 スグルと初めて会った日、私は嵐山をぶらっと散歩した後に、買わなければならない文房具があることを思い出した。どうせなら河原町まで出るか、と思い阪急電車に乗り込む、気ままな一人旅だった。まだ季節ではなかったので嵐山からの電車は空いていた。この頃は今と違ってまだ観光客の数もそこまで多くなかった。河原町までの電車の中、私はずっと文庫本を読んでいた。

 日曜日15時過ぎの河原町は賑わっていた。駅前のマルイに入ると、お目当だった文房具はすぐに見つかった。河原町にはおしゃれな文房具屋が多い。

 せっかく河原町まで来たのだからカフェにでも行こうと思い、私はたまに行くスターバックスに入ることにした。店内も混んでいたが、ラッキーなことにいいタイミングで席が空いた。私は机に持っていた文庫本だけを置いて席を取り、少しレジに並んでお気に入りの抹茶フラペチーノを買った。談笑するカップル、勉強をしている学生たち。大きな窓から見える空は昨日公園で見た空のように青かった。

 さて、文庫本の続きでも読もうか。アスカから借りた本で、借りてから少し時間が経ってしまった。そろそろ読み終えて返さなければならない。アスカはよくオススメの本を貸してくれるのだ。

 私はしばらく集中して文庫本を読んだ。周りの人たちも同じように何かに集中しているように見えた。こういう空気は好きだ。一息つこうとふと抹茶フラペチーノに手を伸ばそうとした時に、机の上に置いていた栞を下に落としてしまった。

 机の横から身体を乗り出して栞を拾おうとかがむと、誰かと頭がぶつかった。見ると隣に座っていた男の人だった。

「あっ、ごめんなさい」

 私は瞬時に謝る。同じタイミングで隣の席の人も栞を拾おうとしてくれたみたいだ。

「いや、こちらこそ」

 そう言って栞を拾って渡してくれる。少し癖っ毛で、背の高い男の人だ。タマキよりもまだ少し背が高い。

 それがスグルだった。


 スグルの服装は週末のスターバックスの中で少し浮いていた。無地のTシャツ(首の部分が少しヨレている)に油かなにかの染みのついた作業着のズボン。そんな格好でずっと髪をかきながらなにやら難しい本を読んでいた。

 私は昔から本が好きだった。自分でたくさん読むだけでなく、他人がどんな本を読んでいるのかにも興味を持った。だから実は、席に着いた時から隣でスグルの読んでいる難しそうな本が気になっていた。さっきぶつかってからは特にそのことが気になって自分の読んでいる文庫本の内容が全然頭に入ってこなくなってしまったのだ。

「あの……」

「はい?」

 突然の問いかけにスグルは少し驚く。

「何の本を読まれているんですか?」

「あっ、これ?」

「はい」

 スグルは恐る恐る本の表紙を私に見せる。表紙には「政治かんたん解説」と書いてあった。

「政治ですか。政治……お好きなんですか?」

「いや特に好きなんじゃないんやけど、勉強してみようと思って」

 そう言ってスグルは照れくさそうに頭をかく。

「すごいですね。私、政治のことなんて全然分からない。勉強しようという気も起こらないです」

「俺も全然分からないですよ。分からなさ過ぎて周りからばかにされて、それで勉強しようと思ったんです」

 スグルがそう言って笑うから、私もなんだか笑ってしまった。

「この前の選挙の時に、先輩達にお前どこの党に投票する気なんや? って聞かれたから、俺は与党に投票しようと思ってますって言うたらえらい笑われてしまって。後から聞いたら与党って党の名前じゃないんですね。自民党とか民主党みたいな」

 初対面なのに失礼だと思いつつも、ついつい笑ってしまった。面白い人だ。私だって与党、野党くらい分かる。

「悔しいから勉強することにしたんです。あなたは、えっと……」

「あっ、あわです。斉藤あわって言います」

「あわさん。俺はスグルです。あわさんは何を読んでるんですか?」

「スグル君ですね。私はこれ、村上春樹の文庫です。海辺のカフカ」

「村上春樹、うーん、読んだことないなぁ。なんだか難しそう」

「そんなことないですよ。良かったら是非。あっ、これは友達の本なんですけどね」

 そう言ってまた笑い合う。


 けっきょくスターバックスでその後3時間くらい話した。話している中で、実は同い年だったことが分かった。スグルは大阪の南の方に住んでいて、この日京都に来たのはたまたま用事があったからだったらしい。「京都なんて普段全然来ないで」なんて言っていた。そんなことを言われると私は運命を感じずにはいられなかった。

 最初は隣り合った別の席で話していたが、途中からもどかしくなり机をくっつけた。そうして最初に頭をぶつけた二人の間にあった空間は消えた。

 その日、連絡先を交換して、それから何度か二人で会った。

 スグルから「付き合ってほしい」と言われたのは三回目に会った時だった。

 私もスグルと付き合いたいと思っていた。スグルに、私の恋人になってほしいと思っていた。だから返事に迷いはなかった。

 スグルにとって私は初めての恋人だった。中学時代は異性になど興味がなく、高校時代は男子校に通い、専門学校時代に少しずつ異性を意識し出したが、よく分からないうちに卒業を迎えてしまったとのことだ。

 だからスグルには要所要所で女の子に慣れていないな、と思う場面があった。でも私はそんなことは全然気にならなかった。そんな不器用なところすら愛しく思えた。要するに恋をしていたのである。

 初めての夜はスグルの部屋で迎えた。スグルにとっては初めてのことであったが、私はその頃にはもうタマキと関係を持っていた。でも私はそんなことは言わなかったし、スグルも何も聞かなかった。

 初めての夜、密接する身体からスグルの緊張が直に伝わった。何度も何度も失敗して、その度にスグルは申し訳なさそうに謝った。私は全然気にしていないのに。

 全部が終わった後、私はスグルの頭に腕をまわしてぎゅっと抱きしめた。スグルはそれ以上の力で応えてくれた。素敵な夜だった。多分今まで過ごした夜の中で一番。

 もう四年も前の話だ。


 悲しかった。それ意外に今の気持ちを表す言葉はないように思えた。グラスの白ワインはもう残り半分ほどに減っていた。いかん、これじゃまるでやけ酒だ。

 もう今日は諦めて帰るか、と思い始めた頃にアスカから連絡がきた。

「もしもし? あわ、ごめんね。仕事長引いちゃって。今終わったのよ。どうしたの?」

「お疲れ様。いや、近くまで来たからご飯でもどうかなって思って」

「そっか、ごめんね。もうご飯食べちゃったよね?」

「いやまだ食べてないで。今、隣のワインバルで一人で飲んでる」

「あっ、そうなの? ごめん。だいぶ待ったんじゃない?」

 時計を見ると20時半だった。もう二時間も一人で飲んでいたのか、と改めて思う。

「ううん、全然平気やで」

「ありがとう。でも今日ね、家でサトシと鍋をやる約束してるのよ。あわも良かったらどう?」

「えっ、そんなん行ってええの?」

「うん、食材多めに買ってるし全然いいよ。今から会社出るから五分くらいでそっち行くわ」

 アスカはぴったり五分後に店に来た。大人っぽいビジネスカジュアルに身を包み、その表情には遅くまで残業をして疲れた様子など微塵も感じられなかった。

 アスカはフミちゃんに軽く挨拶して店の奥に入ってくる。

「お待たせ。ごめんね。あら? あんた今日はずいぶん飲んだのね。顔が赤いわよ」

「そんなことないよー。まだまだ飲むよー」

 私は上着を羽織り、ニンマリと笑う。

「この、酔っ払いー」

 アスカが私の火照った頬をつつく。

 外に出ると夜の風が冷たかった。当然だがそこにはもうスグルはいなかった。あの女の子もいなかった。嫌な感触だけが空気になって二人のいた場所からこちらを見ていた。

 風が私の頬を冷やす。まるで慰めるように。

「遅くなっちゃったからタクシーで帰ろうか」

「うん」

 アスカがタクシーを止める。夜の堺筋はタクシーでいっぱいだ。すぐにその中の一台が停まってくれた。

 二人を乗せたタクシーが走り出す。とうとう私も群れの一員になったんだな、なんて考えていた。

 夜はまだ始まったばかりだった。

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