月の裏側の話をしよう (5)
お客さんとの打ち合わせが終わったのは夕方の17時半だった。真っ赤で、綺麗な夕焼けがビルの向こうに見えた。
ビルの外に出たら烏丸通にはなぜか下校中の中高生が多かった。最近の中高生はこんなに帰りが遅いのだろうか? スカートを長くした女の子、髪をツンツンに立てた男の子。あぁ一番楽しい時期だな。私にも昔、あんな時期があった。なんてばばくさいことを考える。ため息が出た。
開始から二時間半、長い打ち合わせだった。けっきょく私は得意先の要望を飲むことになった。二時間半の間、各号のイメージ、原稿の文字量、表紙のイメージ、イラスト作成の量などの大まかなデザイン仕様を確認した。聞きたいことはだいたい聞けたが、実際に原稿を作り出さないと得意先でも分からないこともあり、厳しい仕事だという印象は最後まで変わらなかった。曖昧な部分がまだ多く、作業にかかるまでにはまだ何回か打ち合わせをしなければならない。
はっきり言って、普通ならば断るくらいの契約条件であった。この条件で作業をするのであれば、作業期間中は毎月、かなり大変だと思う。さらに実際に原稿が来てみないと分からない部分もあり、本当に間に合うのか? という疑問も残る。
他の二人のデザイナーにサポートを求めることも考えたが、二人が毎月で行っている作業とちょうど作業時期が重なってしまっており、サポートを求めるのは難しいと思われた。けっきょく私が一人で作業するしかないのだ。
外に出ると、藤井さんは一応謝った。
「あわちゃん、ごめんね。無理なお願いしちゃって。でも先方さん、金払いはすごくいいんだよ。だから断れなくてさ。会社のためだと思って、何卒、よろしくお願いします」
私は何も言えなかった。怒っていたこともあったが、何よりももう疲れていたのである。
藤井さんは今からもう一件別のお客さんに寄って今日はもう直帰するとのこと。営業さんは忙しいのだ。烏丸の駅で別れた。
私は社内での事務処理が残っていたため、事務所へ戻ろうと思い阪急京都線を大阪方面に引き返した。阪急京都線の特急に乗って、西院を過ぎ地上に出ると綺麗だった夕焼けはどこかに姿を消し、闇に包まれた京都の街はもうすっかり夜だった。四人がけのシートに座って思う。
藤井さんの気持ちは分からないでもない。営業なんだから新しい仕事を取りに行きたいという気持ちは間違っていない。だから、そのためにデザイナーにな要望を押し付けてしまう気持ちも分からなくはなかった。しかし私には私の、デザイナーとしての仕事がある。
なんとなく流れでデザイナーになったが、続けていくうちに私にも少しずつ仕事に対する思い入れのようなものができていた。
私が仕事に対して思うことは、とにかく「いいものを作りたい」ということだった。お客さんに納得してもらえるものを作る。それが自分の仕事だと思っていた(逆に言うと、どんなに早く作れても不十分なものではまったく意味がないとも思っていた)だからそれ相応の作業時間は最低限保証してほしいのだ。
営業とデザイナーの気持ちはいつも平行線だ。どちらも目的地は同じなのに通る道が違うため、使う手法や注意しなければならないポイントが違いすぎるのだ。
車窓から外を見つめる。ネオンの光が流れていく。なんて美しいんだろう。
ふとタマキの言葉を思い出す。
「いつやって、できることはできるし、できないことはできないやん」
私はけっきょく事務所へは戻らなかった。
少し迷ったが、時間も遅くあまり気分も良くなかったので、淡路で天下茶屋行きへ乗り換えたあたりでもう今日は仕事をするのはやめようという結論に至った。経験上、気分の良くない時に仕事をしてもろくなことが起きないことを知っていたのだ。
とは言えもうすでに大阪市内まで戻って来てしまっていた。またすぐに京都方面へ引き返してそのまま家へ帰るのも嫌だったので、アスカとご飯でも食べようと思いとりあえず北浜まで行くことにした。
地下鉄を降りてアスカに電話をしたが、出ない。時計を見るとまだ18時半だった。うーん、まだ早かったか。アスカはいつも20時近くまで仕事をしている。
地上に上がると夜の風が冷たく。堺筋では今日も車の群れが北を目指して走っていた。たくさんのヘッドライトとクラクションの音、アスカの会社はそんな堺筋沿いにある。
仕方ないのでアスカの会社の隣にあるワインバルで一人時間を潰すことにした。このワインバルはアスカのお気に入りのお店の一つで、繰り返し一緒に行くうちに私もすっかり常連になってしまった。この前行った焼き鳥屋もそうだが、アスカは美味しいお店を見つけるのが上手い。
アンティーク調のドアを開けるとお客さんはまだ二組しかいなかった。時間が早いのでまだ空いているみたいだ。
「あら、あわちゃん久しぶり!」
カウンターの中からフミちゃんが笑顔でこちらに向かって手を振っている。
「こんばんは。ご無沙汰してます」
私は上着をハンガーにかけて店の奥の席につく。フミちゃんはこのワインバルの店員だ。平日はほぼ毎日ここで働いていて、アスカと私を何かと贔屓にしてくれている。年齢は私達より二、三歳上だと思う。すこしぽっちゃりした体型で、笑顔が素敵な女性だった。ワインバルのユニフォームの白いシャツと黒のエプロンがよく似合う。
「今日は一人?」
「うん、アスカとご飯でも食べようと思ってたんやけど、まだ仕事中みたいで」
「そうか。あの子仕事遅いもんね。とりあえずビール?」
「うん、とりあえずビール」
フミちゃんが後ろを向いてビールサーバーでビールを入れてくれる。白シャツの後ろ姿からピンクのブラジャーが少し透けていた。こういうのってなんかエッチだなと思う。そんな何気ない色気が私はとても羨ましかった。
フミちゃんが振り返ってビールを出してくれる。
「あわちゃん、なんか痩せた?」
「えっ、そうかな?」
実は最近、職場でもよく言われるのだ。周りはそれを「良かったね」というニュアンスで言ってくれるのだが、私としてはあまり喜ばしく思っていなかった。
スグルの件以来、食欲はあるのだが、食べる量は以前と比べて明らかに減っていた。お腹が空いたと思ってご飯を食べても、すぐにお腹いっぱいになってしまうのだ。やはり心のどこかでずっとスグルのことが気になっていて、そんな感情がお腹の中のご飯が入るスペースをも埋めてしまっているのだと思う。
だから「痩せたね」と言われても「やつれたね」と言われたように思ってしまう。
「うーん、どうやろ。最近体重測ってないからなぁ」
私はビールを飲みながら応える。「痩せたね」と言われた時は最近いつもこんなふうにかわしていた。でも労働の後のビールはやはり美味しかった。
「首回りがなんか痩せた気がするわ。羨ましいなぁ。私なんか全然痩せられないのよ」
「ここの料理が美味しすぎるんじゃない?」
「確かに!」
フミちゃんが笑う。ここのお店の料理はほとんどフミちゃんが作っているのだ。
少しするとお客さんが増えていた。今日もお店は繁盛しているようだった。
そうこうしているうちに時刻は19時半になったが、アスカからの折り返しはまだない。私はフミちゃんがサービスしてくれたゴボウチップスをつまみにビールと赤ワインを一杯ずつ飲み、店に取り付けられたテレビを見ていた。
秋になりプロ野球も終わったため、お店のテレビは最近人気のバラエティー番組を映していた。流行りのお笑い芸人達が集まった番組だ。なんだかよく分からない着ぐるみを着て、よく分からないゲームをしていた。しばらく見ていたが、誰も彼も顔はどこかで見たことがある気がするのだが、名前が全然出てこない。思えばここ最近、仕事が忙しくてほとんどテレビを見ていなかった。私は気づかないうちに世間の流行から取り残されていた。以前はライブを見にわざわざ難波まで足を運ぶくらいお笑い好きだったのに。
そういえば高校生の時、お笑い芸人を目指していた同級生が一人いた。同級生の中でも目立つ人気者の男の子だった。あの人は今どうしているのだろう? 確か高校を出てすぐにNSCに入ったような気がする。でも未だにテレビで顔を見ないということはまだ芸人として成功はしていないのだろう。
そんなことを考えながら窓の外の堺筋にふと目をやった。相変わらず車通りが多い。乗用車、トラック、バイク、みんな急いで北を目指す。それぞれに思いがあり、それぞれに目的地があるのだろう。
その時だった。堺筋を挟んだ反対側の歩道を見て私の身体は凍りついた。ずっと、ずっと思っていた人がそこにいた。
すらっとした長身、真っ黒な癖っ毛の頭。
スグルだった。
細身の黒いスーツを着て、ショートヘアで小柄な女の子を連れていた。
お店のテレビはまだ知らないお笑い芸人達のコントを流し続けていた。




