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月の裏側の話をしよう (4)


 翌日の月曜日、私はいつも通りの時間に出社した。

 職場まではJRと大阪市営地下鉄を乗り継いで行く。私の出社時間は通勤ラッシュの時間に重なるので、電車は毎日すし詰め状態だ。御堂筋線本町駅から地上に出ると、まだ9時前にもかかわらず太陽はすでにハイテンションで、駅から歩く出勤中のビジネスマン達の顔をしかめっ面に変えていった。私は少し眠かった。

 たまに今日みたいに眠気が取れない日がある。夜遅くまで本を読んでしまったり、映画を見てしまったりという時、ついつい深酒してしまった時、だいたいそんな感じだ。でも昨夜はちょっと違った。昨夜、けっきょくタマキと別れたのは深夜3時頃だった。

 私の職場は朝の9時が業務開始時刻であったが、営業と社長は得意先への直行だの、フレックス出社だのでほとんど毎日9時には出社して来なかった。私はその度に空席の営業部門のデスクを見て、「いいご身分ですな」なんて朝から思ったりするのであった。私の属するデザイナー部門だけが毎日律儀に朝9時に出社していた。


 しかしこの日は珍しく社員全員が9時に出社していた。なぜか今日に限ってみんな朝から真面目な顔をしてパソコンを睨んでいる。負けじと私もパソコンに向かうが、やはりちょっと頭が重い。なんせ昨夜は2時間しか寝ていないのだ。

 私の隣のデスクで、同じくデザイナーの林さんは全然睡眠を取らない人だった。林さんは四十代半ばの既婚男性なのだがテレビゲームが好きで、仕事が終わって家に帰り、手早く食事をして家族が寝静まる0時頃から翌朝4時頃までずっと一人テレビゲームの世界を冒険しているそうだ。そしてそこから二時間ほど寝てまた6時頃に起きて会社に出勤するという生活を送っていた。

 私は初めてその話を聞いた時、冗談を言ってからかっているのだと思った。またまたぁなんて話半分で聞いていたが、どうも本当の話らしい。驚いた。私は毎日だいたい六時間ほど眠る。4時から6時だと二時間しか寝れない。私の三分の一しか寝ていないのだ。

「でも仕事中に眠くならないんですか?」なんて聞いてみたが、「ならないねぇ。むしろこれ以上寝たら逆に頭が冴えないんだよ」なんて林さんは笑顔で言っていた。

 いやいや、やっぱりダメだよ。私は林さんみたいにはなれない。二時間睡眠じゃ頭は全然冴えない。

 朝から眠そうな顔なんて恥ずかしいので、コーヒーを飲んで今日一日の仕事に備えることにした。虹色の缶のコーヒーを自動販売機で買って一気に飲みほす。すると心なしか少し頭が冴えてきたように思えた。


 昼前に営業の藤井さんから声をかけられた。

「今日、午後から時間空いてる? ちょっと新しい仕事の打ち合わせに同席してほしくて、京都の烏丸にあるお客さんなんだけど来てもらえないかな?」

「はぁ、いいですよ」

 本当はやらなければならない事務処理もいくつかあったのだが、私は藤井さんの営業同行を引き受けた。デザイナーの私は業務のほとんどが内勤作業なため、たまの営業同行は気分転換にもなるし嫌いではなかった。それに京都までなら電車で少し眠れる。願ったり叶ったりだ。


 打ち合わせは15時からだった。藤井さんは別のお客さんのところに寄ってから行くと言うので、最寄駅で合流することになった。

 私は今日は細身の茶色いパンツに紫のセーターという格好だった。出かける前にトイレの全身鏡で身だしなみをチェックする。うん、問題なさそうだ。外出するとなると少し気が引き締まる。

 昼過ぎに事務所を出て一人で京都へ向かう。途中、天神橋筋六丁目で降りて、以前からアスカに勧められていた中華料理屋で遅めのお昼ご飯を食べた。

 中華料理屋は天神筋橋商店街の入り口付近にあった。恐る恐る店に入ると周りはサラリーマンのおじさんばかりだった。「いらっしゃい」と元気のいい店員さんに誘われ、カウンターの席に着く。

 カウンター席に着いてメニュー表を見るとそこには驚くほど多くの種類のメニューが載っていた。何を食べようか迷っているうちに、後から入ってきたお客さんがどんどん注文をしていってしまう。みんな常連なのか、ほとんどメニューも見ていない。私は怖くなってきた。

「お姉ちゃん、注文決まった?」

 さっきの元気のいい店員さんが気を利かせて注文を聞きに来てくれた。側から見ていてよっぽどオドオドしていたのだろう。そう思うとちょっと恥ずかしい。

「えーと……このワンコインランチをください」

「あいよ!ランチ一丁!」

 本当に元気のいい店員さんだ。見ていて気持ちがいい。ワンコインランチはすぐに運ばれてきた。毎日メニューが変わるようで、今日はあんかけラーメンと塩カルビ炒飯だった。安いのに量があって美味しい。

 周りのサラリーマンのおじさん達はみんな食べるスピードが早く、食べるのが遅い私は取り残され、両側の席は次々に別のお客さんが入れ替わっていく。なんだかすごいプレッシャーを感じた。やっとの思いで定食を食べきり支払いをしたが、なんだかちょっと申し訳ない気持ちになった。

アスカはいつもこういうところでお昼ご飯を食べているのか。ワイルドだ。やっぱりアスカはすごい。

 お昼ご飯を食べてお腹がいっぱいになったこともあり淡路から烏丸までの間、ぐっすり眠った。起きたらもう頭の重さは消えていた。


 阪急烏丸駅の改札の前、私は藤井さんを待っている。時間はもう14時50分を過ぎたがまだ藤井さんの姿は見えない。次の電車は15時5分着だ。これは遅刻だな、なんて思っていたら後ろから藤井さんに声をかけられた。

「あわちゃん、お疲れ様。待たせて悪かったね。行こうか」

 なんだ先に着いていたのか。なぜか内心ちょっと残念だった。

「お疲れ様です。お客さんのところまではここからまだ遠いんですか?」

「いや、歩いて五分くらい」

 藤井さんには今までも何回か営業同行したことがある。三十代半ばくらいの既婚男性で子供も一人いた。グレーのスーツに短く刈り上げた髪。絵に描いたような営業マンスタイルである。年齢的にはタマキと同じくらいだと思う。営業成績はいい方で上司からの受けも良かったが、少しいい加減なところがある。お客さんに調子のいい説明をして、実際に蓋を開けると大変なことになってしまいその埋め合わせのためにデザイナーに無理なお願いをしてくることもあった。だから私は藤井さんのことを少し警戒していた。

 藤井さんの言う通り、烏丸の駅から歩いて五分程度で目的地に着いた。今日行くお客さんはネジを作っている製造業の会社らしい。中小企業ながらも業界ではある程度のシェアを維持しており、国内に営業所と工場を合わせて五つの拠点を持っている。なかなかの優良企業だ。

 藤井さんから聞いた話では、現在この会社で毎月発行している社内報のデザイン作成をほぼ受注確定している状況らしい。そのため今日は実質的なデザイン作成を行うであろう私に最終的なスケジュールや仕様を確認させるため、同行を頼んだとのことである。

 築年数の新しそうなビルだった。藤井さんが受付をしている間、周りを見渡してみる。何かの登録商標の証明書が額に入っていくつも壁にかかっていた。近づいて書いてあることを読んでみたが、聞いたことない名称ばかりだった。

 少しして藤井さんが戻ってきた。受付でもらった首から下げる入室カードを私に渡す。カードには大きく「4」と書いてあった。

「二階やって」

 そう言ってエレベーターを呼び出す。

 二階に上がり通された会議室は妙に広く少し気後れした。十人は席に着けそうな大きなテーブル、いったい相手は何人出てくるんだろう?緊張するなぁ。

 そんな心配も束の間、一人の男が会議室に入ってきた。藤井さんが立ち上がり挨拶をしているとこを見ると、この人が先方の担当者なのだろう。

「お世話になります。本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。こちらは実際の作業を担当するデザイナーの斉藤です」

 藤井さんが私のことを紹介する。

「斉藤です、よろしくお願いします」

(デザイナー 斉藤あわ)と書かれた名刺を渡す。社会人三年目にもなるとだんだん名刺を渡すのも上手くなってくるのだ。

 十人掛けのテーブルの端っこで打ち合わせは始まった。

「よろしくお願いします。この度はいろいろとご無理を申し上げてしまって、大変恐縮です。でもやっと話がまとまりそうで私も一安心ですよ」

 先方担当者が甘ったるい声を出す。感じは悪くない人なのだが、どこかうさんくさい印象を与える。

「ええ。私も本当に嬉しいです。ここまで長かったですねぇ」

 なんて藤井さんも笑顔で応える。

 やっぱり営業さんだな、トークが上手い。私にはとても真似できないなと、いつも思う。藤井さんはもうお客さんのハートをしっかり掴んでいるようだった。

 大学四年の就職活動の時、私は営業職を希望していた。かと言ってそれは特に営業職に強い憧れを持っていたからというわけではない。

 就活サイトをいろいろと見ていて、まず自分の中で技術職の線は消えた。なんせ高校の頃からずっと文系で来ているし、専門技術なんて呼べるものは何一つ持っていなかったのだ。次に事務職が消えた。経理や人事という仕事にどうしても興味が持てなかった。

 となると残るはもう営業職しかなかった(探せばもっとあったのかもしれないが、当時の私には浮かばなかった)要するに消去法だったのだ。

 しかし結果的に営業職を目指した就職活動は惨敗だった。書類選考は比較的通過できるのだが、面接になるとことごとく落ちる。グループディスカッションや集団面接を受けて、周りと自分を冷静に比較すると、落ち続ける理由がよく分かった。周りの志望者は営業志望なだけあってトークが上手い。そして私は致命的なくらい口下手であがり症だった。

 面接に落ち続けた私は途方に暮れた。もうこのまま就職活動をやめようかとも思った。

 そんな私にアスカは、「営業職以外も見てみたら? もっとあわに向いている仕事が他にあるんじゃないの?」と言ってくれた。その頃、アスカはすでに今働いている印刷会社から営業職の内定をもらっていた。

 そんな先行きの見えない時期に、大学に入ってからずっとアルバイトをしていたデザイン事務所から正社員にならないかと話を持ちかけられた。この会社でアルバイトを始めて四年目のことだった。

 最初は事務サポートという形で電話番や請求書の作成のような雑務を行っていたが、ある日デザイナーに急な欠員が出てしまい、私が替わりにデザインを作成することになってしまった(今思えばめちゃくちゃな会社だ)その時、無我夢中で作成したデザインを社長がいたく気に入り、私の仕事は事務サポートからデザイナーに変わった。

 もともと文章を書くのは得意だったし、絵も比較的上手かった。そんな私は少なからず会社の中で重宝されていたのだ。

 就職活動に行き詰まりを感じていた私は正社員への誘いを二つ返事で受けた。大学を卒業する間際のことである。

 専門学校を出て私よりも二年先に働き出していたスグルは、私の就職先が決まったことをまるで自分のことのように喜んでくれた。スグルの家でささやかながら就職記念のパーティをしたことをよく覚えている。大きなホールケーキにロウソクを四本立て、誕生日でもないのに二人でそれをせーので吹き消した。


 ひとしきりの営業的な前置きが終わり、本題に入る。問題はここで起こった。

「原稿は毎月15日の午前中にお出しするので、初校はそれから中一日挟んだ二日後の午前中にあげてください。表紙のデザインは毎月二案ずつ出していただき、月によっては本文ページでイラスト作成をお願いすることもあります」

 先方担当者の一言で私は凍りつく。

「はい、承知しております」

 藤井さんの一言でさらに凍りつく。得意先が提示しているスケジュールでは時間が無さ過ぎる。

 原稿を受け取り校正を提出するまでには、まずページ毎のデザインを考え、次に支給された文字原稿を配置するレイアウト作業、そしてそれらに間違いがないかをチェックする内校作業が必要になる。今回依頼されている社内報は16ページのフルカラー物である。いくら原稿支給とはいえ、中一日という作業期間はあまりに無茶だ。そこに表紙を二案、イラスト作成なんてオプションが追加されると普通の感覚では対応できるスケジュールではない。藤井さんだってそれくらいのことは分かっているはずなのに……

「ちょっと待ってください。スケジュールについてですが、作業期間にもう少し余裕をいただけませんか?」

 さすがに私も口を挟む。

「うーん、でもこのスケジュールで対応していただくことが契約条件やからね……」と先方担当者が困った顔で藤井さんを見る。

 今度は藤井さんが困った顔で私を見る。

「なんとか頑張ってよ。ここはどうしても外せない条件なんだよ。お客さんもスケジュールが厳しいことは百も承知でお願いしてるんだからさ」

 この時、初めてすべてが分かった。私は罠にはめられたのだ。

 藤井さんは私の気の弱い性格を見越して今日の営業同行に連れ出したのだ。おそらく訪問の前からお客さんとの契約の話はまとまっていたのだろう。ただ、無理な条件での契約をデザイナーに相談もなく決めてきたとなると藤井さんも社内的に立場が悪い。そのため、私をお客さんとの打ち合わせに同席させてデザイナーの了承を得たという体裁がほしかったのだ。「気の弱いあわちゃんなら得意先と自分がいる前で話をご破算にするようなことはしないだろう」と考えていたのだろう。そして悔しいがその通りなのだ。

 正常に戻っていた頭が今度は痛み出した。

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