月の裏側の話をしよう (3)
車は大通りを大阪方面へと走る。色とりどりの灯で彩られた23時の街の景色は右から左へ、なんだかすごく長いパノラマ写真を見ているみたいだった。
昔、私のお父さんはよくパノラマ写真を撮った。普通の写真より広域で景色が撮れることを気に入っていたのだ。普通のアルバムにはうまく入れられないパノラマ写真をお母さんは嫌ったが、私はお父さんの撮るパノラマ写真が好きだった。
窓の外で流れては消える景色をパノラマ写真で残せたら、どんなに素敵だろう。私はそんなことを考えていた。
「工場な」
「えっ?」
反対側を向いて外を見ていたら急にタマキに声をかけられた。
「家の前の工場なくなったんやな」
「うん、もう一年くらい前の話やで。今は家電量販店ができてるわ」
「そんな前なんか。前来た時はまだあった気がするで。ほんならやっぱここ来るの、一年振りくらいなんやん」
「えー、そうか。そうなんやな。なんか全然そんな感じしないんやけど」
「あの煙突」
「えっ?」
「あの工場の煙突、俺けっこう好きやったんやけどな。今時あんなレトロな煙突なかなか街中にないで」
「うん、私もあの煙突好きやった。家電量販店なんていらんのに」
「せやな」
タマキが笑う。その笑顔を見ると私はいつも自分の大事にしていたもの全部を持っていかれてしまいそうな気持ちになる。
私とタマキは似ていた。私がいいなと思うものをタマキも同じ様に思っていることが多い。さっきの煙突のことだってそうだ。今までタマキに煙突の話なんて一度もしたことなかったのに。自分と同じようにタマキもあの煙突を好いていてくれていた。そんな目に見えない繋がりが私は嬉しかった。
あの冬の夜から私とタマキはちょくちょく会うようになっていた。もうあれから七年も経つ。十八歳だった私は二十五歳になり、タマキは今年で三十五歳になるはずだ。
タマキと会うのはいつも決まって夜だった。だいたいいつもタマキが車で私の家まで迎えに来てくれる。その後、夜道を走ったり、どこかの喫茶店でお茶を飲んだり、ごくたまにご飯を食べに行ったりした。
タマキは大阪で総合商社の営業をしている。近畿圏を北へ南へと連日飛び回っており、大阪市内にある自宅は実質帰って寝るだけの部屋になっているみたいだった。私と初めて会った日はたまたま仕事で宝塚に寄っただけだったらしい。今日もスーツを着ているところを見るとおそらく仕事帰りなのだろう。
白いシャツに黒いスーツ、そういう格好が本当によく似合う人なのだ。仕事はいつも忙しそうだった。
この七年間、二人で本当にいろいろな話をした。学校のこと、仕事のこと、友達のこと、読んだ本のこと、お笑い芸人のこと、音楽のこと。タマキはいつも優しかったし、似た者同士でする会話は楽しかった。数年の付き合いの中で男女の関係を持ったことも何度かある。私にとってタマキは初めての人でもあった。
スグルと付き合いだしてからも私はタマキと会っていた。もちろんスグルはそのことを知らない。アスカにだって話したことがなかった。私はタマキとの関係のことを誰にも話さなかった。
私はスグルのことが本当に好きだった。その気持ちは誰が見ても「恋」という存在だったし、その全てを本当に大事にしたいと思っていた。ずっとずっと懐に入れて温めていたかった。そうすることがささやかながら私の生きている意味だという気がしていたのだ。そしてそれはスグルにとっても同じだったはずだ。たとえもう消えてなくなってしまっていたとしてもそれは間違いなく同じだった。
一方で私はタマキに対して恋愛感情を抱いたことは一度もなかった。不思議だった。タマキは本当に文句の付けようのない素敵な人なのになぜかそんな感情は一度も生まれてこなかったのだ。私にとってタマキという存在は「恋」をするには大人過ぎたのだろうか。そして恋愛など抜きにしても、タマキには抗いがたい魅力があった。
あの冬の夜に吹雪の中で魔法にかけられてしまったのだ。今でも本気でそう思う。
車が万博公園の外周に停まる。唸りを上げていた大きな車がとたんに大人しくなった。その様子は獰猛な動物がふっと目を閉じて眠りにつく瞬間を連想させた。
「それで、あわはこの一年いったい何してたん?」
「別に普通やで。何も変わってないよ。仕事して帰って寝ての繰り返し。休みの日は相変わらず公園まで散歩したりコーヒーを飲みに京都まで行ったりしてた」
「そうか。仕事も相変わらず忙しい?」
「うーん、忙しいな。でもタマキの方が忙しいやろ」
「俺も相変わらずやな。ええことなんか悪いことなんか。でも俺はあんまり忙しいとか意識せえへんからなぁ。まぁ寝る時間が少ないとしんどいけどな。よう分からんわ」
タマキはこういう人なのだ。仕事はやらないといけないことと割り切って、そのうえで最大限それを楽しむ方法を考える。だから忙しいとかそうでないとかそんなことはどうでもいいのだ。楽しむことしか考えていない。ある意味本物の合理的主義者なのだ。
でも仕事はすごくできるのだと思う。パソコンに何かを打ち込んでいる顔や、電話での語り口を見ていると分かる。私の職場の営業とは全然違った。
「彼氏とは?上手いこといってるん?」
しばらく取り留めのない世間話をした後、痛いところを突かれた。タマキは窓を開けて煙草に火をつける。あの暖炉の赤だ。
「うん、まぁね。彼もいろいろ大変そうやけどね。元気にしてる」と、なんとなく誤魔化した。でもけっきょくは無駄だった。
「ふーん」
「タマキは? 彼女とかは?」
「どうやろね。ま、ぼちぼちかな」
「何よ、ぼちぼちって。人には聞いておいて」
吸いきった煙草を灰皿に押しつぶして笑う。消された火種が最後の狼煙を上げ、車内にはタマキの吸う煙草の匂いが溢れる。バニラの匂いのする煙草。私にとってそれはタマキの匂いだった。
「あわ」
「なに?」
「彼氏となんかあったんやろ? 正直に話してみ」
黒縁メガネの奥から意地悪な目が私を見ていた。
「なんで分かったん?」
もう笑うしかなかった。
「分かるわ。電話した時から元気なさそうやったで。あわとも長い付き合いやからな。この一年、ずっと彼氏のこと気にして俺と合わんかったんやろ? これは彼氏となんかあったんやわってすぐ分かったわ」
「ほんまにもう。タマキには敵わないなぁ」
「別れたん?」
「ううん、でも距離を置こうって言われた」
「そうか。ほんで今は会うのやめてるん?」
「うん、メールも返ってこない」
話しながら、いったい私は何をしているんだろうと思った。タマキにこんな話をするなんて夢にも思わなかった。
「ねぇ、タマキ、こんな時どうすればいいと思う?」
「どうって、あわは別れたくないん?」
「うん、別れたくない」
「難しいな。相手がそんな感じならしばらく放置してみるのがええんちゃうん? それで戻れるんなら戻ればいいし、あかんならあかんで次を考えればいい」
「相変わらずサッパリしてるなぁ。別れるなんて私は嫌だよ」
靴を脱いで車のシートに足を上げ、体育座りみたいなポーズをする。お行儀は悪いがこの体勢は楽なのだ。
「それは分かるよ。せやけどいつやって、できることはできるし、できないことはできないやん。あかんことはスパっと諦めて次いかな。日々、自分のできることの範囲を広げる努力をしてたら諦めることはそない怖いことちゃうよ」
タマキに相談した私が馬鹿だった。タマキの辞書には「感情」という言葉が載っていないのだ。
「友達にはね、別れたくないって正直に言ってみって言われてん」
「うーん、どうやろ」
話してるうちにスグルのことがすごく愛おしくなった。別れるなんてやっぱり怖い。
「なんか気を引くようなこと言ってみるとかどうやろ?」
私はすがるように尋ねる。
「例えばどんな?」
タマキはまた煙草に火をつけ、煙を窓の外にふーっと吐き出して尋ね返す。
「ええと、最近職場の男の子に声かけられてる……とか?」
「なんやそれ。実際そんな人おるんか?」
「……おらん」
「おらんのかい。やめとき、やめとき。そんなん絶対逆効果やわ」
「うーん、気を引けるかなと思うたんやけど……」
「あわは彼氏に心配されたいんか?」
「心配されたいと言うか、うーん、あかん誰かに取られる! って思ったらちょっとは変わってくれるかなって思って。あぁ、そういうのを心配って言うんか」
「なんや、じゃあ彼氏に心配させるようなことしたるわ」
タマキはいたずらっぽく笑って私の肩を引き寄せる。次の瞬間、私はタマキの腕の中にいた。一瞬何が起きたのか分からなかった。
「どうしたの?」
タマキは何も言わずにキスをした。
最初は驚いたが、私はすぐにそれを受け入れた。
あぁダメだ、やっぱりまだ魔法が解けない。
タマキの背中に腕を回す。数十秒間夢中で求めあった。自分が溶けていくのを感じた。身体が熱い。オーブンの中でドロドロに溶けていくカマンベールチーズみたいだ。
少しして二人は離れた。タマキもちょっと照れくさそうだ。そういうところは、可愛い。
また流されてしまった。本当に私は弱い。何もかも中途半端だ。この一年間会うのをやめていた理由は、タマキの言う通りスグルに気を使っていたからだ。スグルを裏切りたくなかった。でもダメだった。またこれで振り出しである。
「私はダメね。みんなみたいに強くはなれない。彼のこともそうやけど、自分の考えで進んでいくっていうことが上手くできないんよね。なんとなく周りに流されて進んでいってしまう。その間にすれ違っていく人や景色はすぐに消えていっちゃうんよ。そういうのって何か悲しい」
少しの沈黙の後で私は気持ちを吐き出す。不思議なくらい自然な言葉が心からこぼれた。
「でも少なくとも俺はあわのそんな弱さが好きやで」
タマキの長い髪に月明かりが反射していた。私は少し驚いた。
「そんなん言われたの初めてやわ」
昔からいつも弱い自分が嫌いだった。そして周りからも、もっと強くなりなさい、もっと強くなりなさいと言われ続けてきた。弱い部分を認められたことなんて一度もなかった。特にタマキはそんな弱さを絶対に許せない人間だと思っていた。
「あわの話し方とか笑い方とか、俺は全部好きや。昔からずっと好きや」
さっきまで意地悪だった目が、いつの間にか驚くほど優しいものになっていた。私はそういうのに弱い。
「ありがとう。タマキはやっぱり優しいね」
「優しいも何もないやろ。ほんまのこと言うてるだけ」
スグルは四年間、好きだなんて全然言ってくれなかった。愛情表現が下手なのだ。
誰かから好きなんて言われることは滅多にないし、本当に嬉しい。誰かに求められている感覚。例えそれが空っぽの言葉だとしても。何も入っていないプレゼントでも綺麗な包みと花形のリボンは美しい。今はそれでもいいと思う。
別れ際に車の中でもう一度キスをした。素敵なキスだった。黄色い月だけが夜空からこっそりそれを見ていた。
けっきょく今日もスグルからの連絡はなかった。




