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月の裏側の話をしよう (2)


 そして今日、アスカと会った日から十日後の日曜日である。

 私はやっとの思いで起き上がったはいいが、特にやることもなかったので近くの公園まで散歩することにした。私は散歩というものが好きだった。昔から最小限の荷物だけ持ってふらふらと歩き回り、気に入った場所で一人で本を読んだりジュースを飲んだりすることが楽しくて仕方なかった。小さい頃は行き先も告げず勝手に一人で出掛けてよくお母さんに怒られたものだ。

「行き先を言ってから出掛けなさい。最近じゃこのあたりも物騒なんだから」

 今ではお母さんの言うことも分かる。だけど、私は一度も行き先を告げなかった(嘘の行き先を教えたことはあったが)だって私の散歩に行き先なんてなかったのだから。

 お気に入りの紺のニューバランスのスニーカーを履き家を出る。

 私のマンションから駅と反対方向に歩いて十分程度のところに市営の大きな公園がある。公園の真ん中には大きな広場があり、その広場を囲むように長い散歩道がある。また公園の入り口付近にはブランコやジャングルジムなどの遊具もあり、広場を挟んで反対側には噴水と水遊び場がある、まさに子供の欲求を全方位で満たしているような公園なのである。

 こんな公園が子供の頃近所にあれば良かったのにといつも思う。

 日曜日の午後なので家族連れが多く、たくさんの子供達が公園を走り回っていた。ある子はサッカーをして、またある子は自転車に乗って。笑ったりしていた。彼らにとって今日の空はきっと気持ちの良いものなんだろうな。

 日曜日の風が散歩道の土埃を飛ばす、近頃はあんなにたくさんいた蚊もすっかり姿を消していた。寒過ぎず、歩きやすい気候だ。ニューバランスで秋を踏みしめ散歩道を行く。気持ちいいなと思い空を見上げたが、相変わらずそこにはビニールシートがぶら下がっていた。

 私は散歩道沿いのベンチに座って広場の草野球を見ることにした。草野球といってもゴムボールとプラスチックのバットを使った簡易なもので、みんな色とりどりの服を着て肌寒くなってきた季節の中、元気にボールを追いかけていた。小学校二、三年くらいだろうか。審判がいないのでストライク、ボールの判定が曖昧になり、すぐに口論が起き、その間にランナーが勝手に盗塁してまた口論になってというような平和で愛すべき草野球だった。

 私はよく知らないのだが、私のお父さんは若い頃、草野球チームのエースだったらしい。私が産まれるずっと前、お父さんとお母さんが結婚するかどうかの頃だ。その頃、お母さんは毎週末、お父さんの応援に野球場まで足を運んでいたらしい。お弁当を持って試合を見守るお母さん。風の外野席。淡くて若い二人の恋。お父さんは結婚を機に仕事を変え、草野球も辞めてしまったらしい。

 愛すべき野球は、ほとんどの選手が男の子なのだが、なぜかキャッチャーは身体つきも華奢な女の子だった。キャッチャーの女の子は男の子相手でもまったくひるまず、ストライク・ボールの抗議を繰り広げていた。凛々しい姿、なんだかアスカみたいだ。

 あの女の子もいつか恋を知るのだろうか。誰かを愛し、その人にも野球の判定みたいに自分の主張をしっかりと言えるような強い女になるのだろうか。

 私は駄目だな。スグルにストライクって言われたらボールだと思っていてもストライクにしてしまう。


 ストライク、バッターアウト、スリーアウトチェンジ、ゲームセット。


 あの女の子と同じくらいの年頃、私は一人で街を歩き、木陰やベンチでまるで何かから隠れるように本を読んでいた。女の子の首筋から流れる大粒の汗に、私は憧れに近いものを感じてしまっていた。

 不意にポケットが震えた。鋭い振動が狭い空間で暴れ出し、私の足にその感覚が伝わる。私は草野球に集中していたので、最初はその意味が分からなかった。はっとしてジーパンのポケットに手を突っ込む。こいつはいつも突然だ。油断している時に限ってその存在をアピールしてくる。ちらちらと意識して誰かを待っていたりする時は黙りを決め込んでくるくせに。困ったものだ。

 反射的に電話はスグルからだと思った。やっとスグルが会いに来てくれたんだと。

 しかしそこにいたのはスグルではなかった。

 電話はタマキからだった。


 23時の夜の闇は深かった。まるで沈黙が聞こえてきそうなくらい静かな、不思議な夜だった。生きていく中であと何度こんなに静かな夜と出会うのだろう? 良いとか悪いとかを超えてその静けさは美しかった。エアコンはこの時期は飛び石連休だし、秋特有の虫達も今日は喉の調子が悪いのか姿を現さなかった。

 おそるおそる窓の外を見てみる。あの家電量販店も今日はもう閉店して真っ暗になっていた。それにしても静かだ。今日は日曜日だからだろうか? 明日に備えてみんなもう寝てしまったのだろうか? 私も明日からまた仕事だ。みんなと一緒に寝てしまう方が正しいし、ずっと自然だ。

 私はタマキのことを待っている。

 誰もいない夜の闇を見つめていた。風が冷たかった。最近では夜はもうずいぶん立派な冬の顔立ちをしていた。

 あぁあんな優しい顔をしていたのに、すっかり成長してあなたはもう冬になってしまうのね。またしばらくお別れなのね。

 思春期のように短い秋へ、私は誰にも聞こえない声で話しかける。


 ヘッドライトの光が闇を散らした。次の瞬間、タマキの車が角を曲がるのが見えた。

 私は反射的に隠れるように窓から離れて部屋の中に戻った。ずっとタマキを待っていた自分が恥ずかしくなったのだ。そんな私を追いかけるように携帯が震える。ゆっくりと携帯に手を伸ばして応答ボタンを押すと、画面の中で数字が動き出した。

01、02、03……

「もしもし」

「ついたで」

 タマキの声だ。

「うん、今行くわ」

 私は部屋着のワンピースにねずみ色のカーディガンを羽織り外に出る。

 タマキの車は大きい。私は車には詳しくないが、多分高い車なんだろうなと想像する。真っ黒で、軍隊の人なんかが乗っていそうな車なのだ。そしていつもピカピカだった。私の前にそれが停まる。

「乗りや、寒いやろ?」

「うん」

 大きな車の大きな助手席に私の華奢な身体が収まる。

「シートベルト」

「あっ、うん」

 シートベルトを締める。真っ暗でもベルトの位置はちゃんと分かっていた。しっかりと身体をシートに固定する。

「よし」

 タマキがアクセルをそっと踏み込んだ。大きな車がゆっくりと、そして堂々と動き出す。頼もしい奴だ。

 私を乗せて車は走り出す。闇を抜けて国道171号線の方へ走っていく。あんなに深かった夜の闇が窓の外を流れて行く。車の中は風もなく寒くなかった。

「寒ない? ちょっと暖房つけようか?」

 ハンドルを切りながらタマキが言う。

「いや、大丈夫よ。ちょうどいい」

「そうか、ほんで今日はどこに行きたい? どっかでコーヒーでも飲むか?」

「うーん、今日はコーヒーって気分じゃないなぁ。ちょっと走って、どこかで停まってお話ししない? 夜のお散歩ということで」

「お散歩って歩いてへんやん。それを言うならドライブやろ」

「そうとも言う」

 二人で笑い合う。いつもの感じだ。私とタマキ、二人の世界。

「会うの、久しぶりやね」

「うん、半年ぶりくらい?」

「もっと前やろ。あわ、いつ誘っても全然会ってくれへんやん」

「そうかな? そんなつもりはなかったんやけど」

 嘘だった。そんなつもりはあったのだ。

 私はタマキをどこかで避けていた。だってタマキは驚く程素敵だったから。


 タマキと初めて会った時、私はまだ高校生だった。高校三年生の冬だ。その頃、私は大学への進学も無事に決まり、一人暮らしに向けた資金作りのため、実家のある宝塚で喫茶店のアルバイトに励んでいた。


 二月の寒い寒い冬の夜だった。

 私は朝からずっと働き続けで疲れ果てていた。朝の9時から働き出し、今が夜の21時半、閉店は22時である。途中に少しの休憩を取ったが、それにしても重労働だった。たかが喫茶店、されど喫茶店、何より立ちっぱなしは辛いのだ。喫茶店は駅から少し離れた郊外にあるのだが、大通り沿いにあり車も停められるので、それなりに流行っていた。その割には従業員が少なく、私みたいな高校生のアルバイトでも今日みたいな一日中勤務のシフトが頻繁にあった。

 疲れた。でもゴールはもう見えている、あともう少しだ。自分に言い聞かせていた。

 21時半の時点でお客さんは1人しか残っていなかった。夕方あたりから空模様も怪しくなってきて、新しいお客さんが入ってくる気配もなかったため私はテーブルを順番に拭いて回っていた。

 最後のお客さん。私はずっと店にいたから知っていた。あの人は昼過ぎからずっと同じ席にいる。

 すらりと背が高く、髪の長い男の人だった。ここにいる間、ずっとパソコンに向かい、時々思い出したかのように骨董品みたいな万年筆で皮の分厚い手帳に何かを書き込んでいた。熱いコーヒーを飲み、19時頃に一度サンドイッチを買って食べていた。一時間か一時間半の間に一度、疲れたのか黒縁のメガネを外して目を揉む、そして同じくらいの間隔でかかってきた電話を取るために一旦店の外まで出て、ついでに煙草を吸って戻ってきた。

 私はずっと知っていた。

 閉店時間の22時、外には雪が降り出した。もう何回目の雪だろうか? その年は雪が多い年だった。

「あの、申し訳ございません。そろそろ閉店時間になります」

 店員の中で一番年下の私が閉店を伝えにいく。彼は最初は何を言っているのか分からないような顔をして私を見ていたが、時計を見たら状況を察知したようで、「あっ、ごめんごめん。もうそんな時間か」と言って、すぐにパソコンの電源を落として、他の荷物を鞄にしまった。彼のその動作の手際が良くて私は関心してしまった。

 私が無言で彼のそんな様子を見ていると「遅くまでごめんな。ありがとう」と言って彼は座ったまま上着を羽織る。

「あの」

「うん?」

「雪が降り出したみたいです。外はきっと寒いですよ」

 彼は不思議そうな目で喫茶店の小さな窓から外を見る。

「雪……ほんまやな。ありがとう。気を付けるわ」

 少し笑顔を見せて席を立つ。近くに立つと彼は思っていた以上に背が高かった。長くて黒い髪が室内灯に揺れて綺麗だった。

 後姿、サヨナラの合図で右手をヒラヒラとさせて喫茶店を出て行った。


 それから三十分程度、閉店後の後片付けをした。洗い終わった食器を棚に並べて、一日苦楽を共にしたレジを寝かしつける。まだ半年程しか働いていないが私はもうだいたいの仕事をこなせるようになっていた。それにこの日は珍しくいつもは何もしない店長も片付けを手伝ってくれたのでいつもより早めに仕事を終えることができた。

 喫茶店の制服を着替えるために更衣室に行く途中、ふと窓の外の雪が視界に入る。降り方がさっきよりも強くなってる。窓の外を白が舞う。私は家から自転車でここまで来ていた。これは早めに帰った方が良さそうだ。

 ノックをして更衣室のドアを開けたら、ちょうどアルバイトの先輩が出てきた。

「あら、今日は斉藤さんが最後?」

「はい、私が最後です。店長もさっき帰っていきました」

「雪がひどくなってきたみたいねぇ。斉藤さん帰り自転車でしょ? 大丈夫?」

「たぶんまだ大丈夫だと思うんですが……早めに着替えて帰ります」

「そうね、その方がいいわ。じゃあお疲れ様」

「お疲れ様です」

 私はぺこりと頭を下げて先輩を見送る。

 素早く着替えを済まして店内の電気を消した。最後にもう一度、真っ暗になった店内を見渡す。よし、完璧だ。

 足早に店を出ると、ドアを開けた瞬間、視界は真っ白だった。「あっ」と思ったその瞬間に激しい風とも雪とも分からない衝撃が顔に当たる。ぎりぎりの使命感で入り口の鍵だけ締めたが、そのまま慌てて屋根のあるテラス席へ逃げ込んだ。この喫茶店には室内席の他に屋根のある大きなテラス席があるのだ。

 たった一瞬であったが私の服や髪にはパウダーのように柔らかい雪がたくさんついていた。身体についた雪を払い落とし、依然として降り続ける横殴りの雪を見る。さっき外を見た時よりさらに降り方が激しくなっていた。あーあ、これじゃ自転車は無理だな。

 諦めてテラス席の椅子に座る。

「君の言う通り外は寒いな」

 不意に後ろから声を掛けられ、びっくりした。閉店後の真っ暗なテラス席に誰かいるなんて考えもしなかったのだ。私はつい柄にもなく「きゃっ」なんて女の子みたいな声を出してしまった。まぁ女の子なんだが。

「ごめんごめん、脅かすつもりじゃなかったんやけど。そりゃびっくりするわな」

 二つ後ろの席であの最後のお客さんが微笑んでいた。

「こんなところに誰かいるなんて思わなかったから」

「ごめんな。なんか、君には謝ってばっかやな」

 優しい笑顔。私はドキドキしていた。突然声をかけられた驚きなんてもうどこかに行ってしまっていたのに。

 長めの綺麗な髪、黒縁のメガネ、丈のある黒いコートが細っそりとした身体によく似合う。理想的な大人の男性のイメージがそこにあった。

 この人ともっと話してみたいと思ったが、不思議と何一つ言葉が浮かんで来なかった。全然浮かんで来なかった。

「すごい雪やな」

 沈黙の池にそっと石を投げ入れるような話し方だった。私の心に静かな波紋が揺れる。

「すごいですね。あの、もしかして雪のせいで帰れなくなっちゃったんですか?」

「いや、そういう訳じゃないねん。随分降ってるからな、ちょっと眺めてたいなって思って」

 そう言って煙草に火を点ける。真っ暗だったテラス席がほんの一瞬だけ赤に染まる。それはまるで暖炉のように暖かみのある赤だった。

「ここから向こう側の吹雪を見てると、なんだか自分が住んでる世界とはまったく別の世界を見てるみたいやない? 氷河期ってこんなんやったんかなって考えてた」

 テラス席から外を指差す。相変わらず激しい雪が降り続いていた。

「氷河期……」

 そう言われてみると確かにそんな気がしてきた。夜の黒を白が襲う。風はとても早く、目にも止まらないスピードで黒へ向け白を投げ飛ばす。そこには圧倒的な黒と白しかない。その光景はずっと前にドラえもんの映画で見た氷河期の雪山のシーンに似ていた。ずっと前の記憶。確か吹雪の中からマンモスが現れるのだ。

「さてと」

 彼は煙草を消して立ち上がる。

「帰りはもしや自転車?」

「はい、そうです」

「この雪じゃ今日はもう自転車は無理やろ。俺の車、駐車場に止めてある。乗ってきや。送ってくわ」

「えっ、でも……」

「大丈夫、雪道でも走れるタイヤに変えてあるから」と、言って彼はにやっと笑う。そう言う意味ではなかったのは言うまでもない。

 私はその日、初めてあの大きな車に乗った。降りしきる雪なんてあの車には関係なかった。堂々と、白に塗りつぶされた車道に二本の線を引いていく。帰り道、私は車の中に充満する大人の空気に押しつぶされそうだった。でもそれは全然嫌なことではなかった。


 これがタマキとの出会いだった。

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