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月の裏側の話をしよう (10)


 ずっと向こうまで続く川に真っ赤な夕焼けが映っている。

 四カ月前に京都で見た夕焼けよりずっとずっと大きかった。川の流れに乱されて水面に写る赤は散り散りになっていた。

 私は淀川にかかる橋の上から一人、そんな景色を見ていた。

 ミリタリージャケットのポケットから煙草を一本取り出して火をつける。

 私は今まで煙草なんて吸ったことは一度もなかった。さっき偶然寄ったコンビニで買ったのだ。

 へとへとに疲れていたからだろうか、私はなぜかレジの後ろにある煙草を見て、吸ってみたいと思ったのだ。よくみんなが吸っている青い箱の煙草。よく分からないが、箱には10と数字が書いてある。

 けっきょく藤井さんの仕事の原稿入りから二晩事務所に泊まり込みで作業をして、なんとか今日の15時に校正を提出した。

 藤井さんはあれから得意先に掛け合って、校正の提出時間を15時まで延ばすこと、追加の4ページを取りやめ、予定していた16ページでの作業にすることを交渉してくれた。

 早めに別の作業を終わらせた林さんが手伝ってくれたこともあり、なんとか今月分の作業は無事完了した。身体はこれ以上ないくらいに疲れていた。

 沈んでいく赤を眺めながら、くわえた煙草を思いっきり吸い込んでみた。

 もわっとした煙が身体の中に入ってくるのを感じる。次の瞬間、私は思いっきり咳き込んだ。吐いてしまいそうなくらい気持ちが悪かった。なんだこれ。みんなよくこんなもの吸っていられるな。

 強さって何なんだろう? 橋の手すりに顎を乗せて考える。私のほしかったものっていったいなんだろう?

 いろいろなものが頭をよぎり、そのどれもに納得はいくのだが、同じくらいしっくりこなかった。どんなに考え込んでもいつも目の前ではいろいろなものが流れては消え、人の夢は美しく見える。

 事務所で藤井さんに怒鳴った時、私はものすごく嫌な気持ちになった。本当はこれで良かったはずだったのに。

 白い息と寒空の下のたくさんの汗。

 私はもしかしたら何一つ捨てられていないのかもしれない。捨ててしまったと思っていたものも、実はまだポケットの底に残っていて、また会える日を待っているのかもしれない。

 日々を忙しなく生きていく中で、どんなに悲しいことがあっても消えない気持ちというものが確かにあるのだろう。それはせーので吹いても絶対に消えないロウソクの火のようだ。

 小さくても確かにそこにある。おそらくそれこそが本当の私なのだ。


 左のポケットが震えた。

 ミリタリージャケットのポケットに手を入れて、底の方から携帯を取り出す。

 電話はスグルからだった。

「もしもし」

 私の声は思っていた以上に掠れていた。煙草のせいなのか、あんまり寝ていないせいなのか、情けない声だった。

「もしもし、今大丈夫?」

 電話の向こうから話しかけてくるのは紛れもなくスグルの声だった。懐かしい声、いつぶりだろう?

「うん」

「久しぶりやな」

「うん」

「元気にしてた?」

「どうかな」

「仕事は忙しいん?」

「うん、ぼちぼち」

 私の後ろを電車が通り過ぎる。電車が橋を渡る激しい音で一瞬、電話の音が聞こえなくなったが、その間、スグルは何も言わずに黙っていたようだった。

 沈黙が二人の間をゆっくりとすり抜ける。川の流れる音も車の行き交う音も全て持っていってしまうような意地悪な顔付きだった。どれくらいの時間が経ったのだろう。スグルが静かに話し出す。

「あわ」

「うん?」

「俺ら、もう一度やり直さへん? いろいろ考えたんやけど、やっぱりその方がええと思うねん」

 通り過ぎていった沈黙が向こうの方で振り返り私を見ていた。意地悪だ。やっぱりお前は意地悪だ。

「……」

「あわ? 聞こえてる?」

「……」

「あわ? もしもし?」

「……」

 私は煙草の火を灰皿で揉み消すように、そのまま電話を切ってしまった。

 夕焼けはもう半分近くその姿を隠していた。水面の赤が散り散りになる。散り散りになった赤はさらに揺れて溶け出していく。

 空にある赤も同じように溶け出していく。まるで真っ赤な万華鏡を回しているみたいだった。

 私は飛びたかった。溶け出した赤に飛びたかった。

 溢れたものを手の甲で拭いて、私は飛んだ。溶け出した赤にまっすぐに飛んでいった。

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