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TS100ものがたり 10:逃走

作者: 私

僕は逃げていた。人生で初めての経験だった。複数の銀行で自分の全財産約500万円を下ろしカバンに詰め、車でとにかく遠くに逃げた。500万あれば、逃走生活といっても1年は生き延びられるだろう。車中泊を基本にすれば数年は何とかなるかもしれない。とにかく(ほとぼり)が冷めるまで逃げ切らなければならない。

 男尊女卑の風潮の激しいこの国で、女性の社会進出を促進しようとする法律ができた。しかし、女性が子供を育てるべきという価値観の強いこの国では、その法律には大きな批判が起きた。そこで修正がかけられた。

 男女の差別があったとしても、男女間の性転換が自由ならば差別と見なさない。そういう附則ができたのだ。科学技術の進歩がなせる技だった。性別が、学歴や職業のように、自由に選択できるものになったのだ。そしてこれは会社にとってもメリットだった。女性管理職に育児休業や出産で抜けられ、その間も給料を払わなければならないのは経営陣にとっては重荷だ。それならば、管理職はみんな男性、ただし女性で管理職の希望者は男性になって出世してもらう。そういうことが可能になった。また女女格差という同一性別内の不合理な差別も解消できるというご都合主義的な正当化まで現れた。

 それだけで終わるなら僕には関係なかった。しかし社内規定で、性転換を実施する場合は、その地位にいる異性の候補者を選択することになった。つまり一般職の女性が総合職に男性として異動することを実施する場合、逆に総合職の男性を一般職の女性として配置換えしなければならないのだ。

 これは一種のリストラ策として使われた。最も役に立たない総合職の男性社員がその候補になるからだ。そして、今回、その候補が僕だった。

 たまったものじゃない。それが伝えられると、僕は翌日無断欠勤し、逃げ出した。去年、同じように一般職の女性社員として働くことになった同僚の姿を見ていたからだ。女性からはいじめられ、男性からはセクハラを受け、結局性転換後半年もしないで依願退職した。勿論男性には戻れない。自分があんな目にあうのなら、辞めた方がいい。しかし、今辞表を出しても、二週間はやめられない。その間に性転換させられてしまう。

 僕は車で民家のほとんど見えなくなった山道を走っていく。

 この男尊女卑の激しい国で、一度女性になると男性に戻るのは非常に難しいと言われていた。もちろん会社を通さない一般の性転換ルートもある。しかし男女比を一定に保つため、女性が男性になるには、同時に一人男性が女性になる必要があった。自分でその候補者を指定すれば、すぐに性転換を受けられるが、そうでないと、男性の候補者が集まるまで待つしかない。しかし、男性であることのメリットの大きいこの国では、進んで女性になろうとするのは性同一性障害の患者ぐらいだった。よって女性の希望者1000に対して男性1ぐらいの割合。結局、選抜試験によって選ばれるのだが、一度男性だったものはその選抜において不利に扱われるという噂があった。

 だからどうしても逃げなければならない。女になったらおしまいなのだ。

 街燈もない山道に日が暮れていく。特に目的もなく走っているので、これがどこに続いているのか分からない。夜になったら、一晩車中泊でもいい。一応、以前キャンプで使った寝袋も積んである。

 大分標高も高くなったころ、展望公園という比較的広い駐車場のある展望台にでた。公衆トイレもあり、人気はない。他に一台も止まっていない駐車場に停めた。周囲は雲だか霧だかがたちこめており、恐らく展望台に行っても何も見えないだろう。

 山の上にあるにしては、とても大きい公衆トイレに入る。中も驚くほど綺麗だ。自動的に電気がつき、綺麗に清掃もされている。小便器の前に立ち用を足していると、車の音がする。もう一台、車が入ってきたようだ。

 一度、性転換の希望を出したのに、予定日までに性転換が実施されなかった場合、対象者は強制的に拘留され性転換が実施される。そうしないと、男女のバランスが崩れてしまうからだそうだ。失踪者を探す特殊なチームだけでなく、警察も動員され捜索されると噂では聞いていた。

 当然僕は、性転換の希望は出していない。しかし、入社の時交わした誓約書の一つに、「職務命令として性転換を命じられたときは、意義なく受け入れる」という一文があったらしい。これを根拠に、会社は勝手に性転換希望を提出できるというのだ。

 このことに関して訴訟を起こした社員がいたが、結局敗訴したらしい。彼、いや彼女は女性としての苦痛に耐えきれず自殺したと聞く。

 だから僕は、常に誰かから追われているのではないかとビクビクしていた。ただ、まさかこんな山奥まで追ってはこないだろうとは思っていた。

 尿を切り、トイレから出る。駐車場の方を見ると、黒いワゴンが止まっていた。窓には黒いスモークフィルムが貼られている。直感的に怪しい車だった。しかしそのワゴンは僕の車と並ぶように停められている。車に戻るには近づかざるを得なかった。

 いなくならないかなぁ、と思いつつ、近くの自販機でジュースを買い時間稼ぎをした。しかし動く気配はない。勇気を出して車に戻っていく。僕がそのワゴンに最接近したとき、ワゴンの扉が開き、中から屈強な男たちが出てくる。こういう状況でなくても驚く場面だ。まるでラガーマンのような体格でとても勝てそうにはない。咄嗟に体が反転し逃げ出そうとするが、いつの間にか僕の後ろにも、同じような体格で黒っぽい服を着た男が二人立っていた。

 僕の手から滑り落ちた炭酸飲料は、泡を吹きながらくるくると回った。僕はそのままワゴンに連れ込まれ、よく分からない薬品によって意識を失った。周囲の霧はより深くなっていた。


 次に目を覚ました時、僕は病室のベッドの上にいた。そして、女になっていた。つまり、乳房が胸板を押し上げ、ペニスは無くなり、代わりに胎内へと続く奇妙な感覚と割れ目があった。捕まってから僅か2日しか経っていなかった。こんなにも簡単に肉体的な性別が変わってしまうとは、話には聞いていたが、実際に体験するとさらに驚きとなって襲ってきた。僕も専門家ではないので詳しい話は分からないが、男を女にする場合は、精巣、つまり金玉にある薬品を注入すると、精巣と卵巣への変化が初期化され、反対の性の生殖器に変化を始めるらしい。卵巣への変化が終わると、その新卵巣からあるホルモンが大量に分泌されその他の肉体的な特徴も修正されて短時間で女性化するらしい。逆に女から男になる場合は、採卵と同じような方法で体内の卵巣に直接薬を注射するらしい。金玉のように外から見えないので、多少困難だと聞いた。

 胸の膨らみを恐る恐る検査着の上から触りながら窓の外を見た。逃げるのを防ぐためか、それとも自殺防止か、窓には鉄条網がはいっていた。その鉄の棒の間から覗ける景色は広大な森林と記憶にない稜線で、どこか田舎に連れてこられたことだけはわかった。

 やはり胸と股間の違和感が大きいがそれ以外でも色々な齟齬があった。布団をどけ、ベッドに座る。体の重心がおかしいし、手足にも力が入らない。なぜか髪まで長くなり、顔や首にまとわりついた。

 ベッドの柵を使ってゆっくり立ち上がり、入り口の扉まであるいた。全身が痺れ、またバランスがどうも違うので歩くのも大変だった。やっとたどり着いたドアのノブを回そうと手をかける。手まですっかり華奢な女性の手になっている。何とか力を入れて回したが、鍵がかかっているらしく、引いても押してもびくともしない。

 はぁ・・・、とため息をつく。部屋にはもう一つ扉があったので、そちらに向かう。その扉はすんなり空いた。自動的に電気が点灯し、目の前の洗面所の扉の先にある鏡には、長い髪をボサボサにし、まるで見た目にこだわらない感じの女性が驚いた表情でこちらを見ていた。

 急いでかけより鏡をのぞき込む。間違いなくそれは自分の姿だった。頬に手を当てると、鏡のなかも同じように動く。頬や顎には無精ひげの名残はまったくなく、嘘のように滑らかだ。しかし眉は自由に伸びきっているし、何より髪の毛が爆発していて酷いことになっている。ただそれでも、鏡のなかにあるのは間違いなく女性の顔だった。

「おんなになっちゃったんだ…」

 僕は高い声でつぶやいた。自分の声とはまるで違うその声は、鏡のなかの女性が、ひとりでに話したような錯覚を覚えた。

 

 その後数日間は、この個室に隔離されたまま、色々な検査を受けた。残念なことに、僕の女性化はまだ終わっていなかった。少女が大人の女性になる様に、その数日間で、胸はさらに膨らみ、体の女性的な曲線も増した。肉体的な変化が終わると、次は精神的な変化だった。きちんと期日までに出頭した場合は、このような措置は行われないらしい。しかし、逃げ出したり期日に出頭しなかったりした人物は、異性への適応度を高めるため、精神の再教育も行うらしい。変なヘッドギアのようなものを被らされ、何時間も電気刺激を当てられる。それと同時に、体の各部分に電極を当てられ、男らしい姿をするたびに電気ショックを罰として与えられた。

 そのせいで、自然と誰もいないところでも足を閉じて座るようになり、動作も無意識のうちに女性的なものに矯正されていった。また、ヘッドギアのせいか、自分が女性であるという自意識と、女性的に振る舞っていない恥ずかしさがどこからか湧き出るようになった。その前までは、女性の下着を着るものメイクをするのも髪をとかすのも、すべて煩わしい屈辱的なことのように思えたのに、頭の中からの内なる声が、それらをせずにはいられなくした。

 そうはいっても、ここまでの二十数年はずっと男だったのだ。突然、巧みに化粧や髪を整えたりはできない。しかし看護婦さんが丁寧について教えてくれた。その一つ一つを一生懸命覚えようとしている自分を、心の奥底では信じられないでいた。

 それらの訓練の成果が板につき、自分が女性であるということを受け入れ始めた頃、初経が襲った。もしそう言う下地がなかったら、突然の腹部の痛みと出血は、自分の精神を破壊していたかもしれない。しかし今では、自分が女性としてのサイクルを獲得し、そして子供を宿せる体になったという点で、なんともいえぬ誇らしさが湧いて来るのだった。

 これらの変化に必死に抵抗していた自分の男としての深層心理は、いつの間にか消え去っていた。

 

 二週間ほどして退院し、女性一般職社員として、会社に戻った。懲戒解雇も覚悟していたが、思いのほか優しく受け入れてくれた。同じ職場で、女子の事務服を着て、サポート業務をするというのは、最初こそ違和感があったものの、これも洗脳のせいなのか、思いのほかスムーズに対応できた。それどころか、女性的な気遣いやサービスを進んで喜んでやっている自分がいた。元々の男性社員からの奇異な目やセクハラも、僕の代わりに男性として配属された彼が守ってくれた。そして女性社員からの差別の目も、あまりに女性として適応しているためか、殆どなくなっていった。

 時々、無理やり作られた人格や動作に押し込められて消えてしまったかに思える男としての自意識が表層に上がってきて叫びだし、髪をはさみできり、服も下着もすべて破り捨てたくなる衝動に襲われることもあった。しかしそんな気持ちも、すぐに押さえられてしまうのだ。

 自殺したり適応できずに退職したりした他の元男性に比べれば、表面上は遥かに幸せな人生を送れているように思える。ただ、どこかで本当の自分が消されているような、なんとも言えない違和感が付いて回っているのは否定できなかった。


 そんなある日、会社で大事件が起きた。この部署の男性社員が、全員体調不良を訴えて病院に運ばれたのだ。そして、その全員が、女性への性転換の症状を示したという。警察の捜査の結果、オフィスの給湯器に、性転換薬が混入されたということだった。そして僕の配ったお茶を飲んだ男性社員が、みんな女性へと変化を遂げてしまったのだ。

 犯人はすぐに判明した。防犯カメラに写っていたのだ。それは僕だった。ただカメラに写っている僕は、まるで人格が変わったかのように大股で男のように歩き、顔も表面的には女性なのだが、その仮面の下には得体のしれないなにかが潜んでいるようだった。

 しかしなによりも恐ろしいのは、僕がそのことを一切覚えていないということだった。そしてこれは僕だけではなかった。同じような矯正教育を受けた、元男性が、何らかの犯罪行為を行う事例が多発しているのだ。もっとも猟奇的なものは、男性をホテルに誘い、睡眠薬を飲ませて陰部を切り取るというケースもあった。

 僕は精神病院に入院させられ、より激しい矯正教育を受けさせられた。しかし、女性的な抑圧が強くなるほど、自分の中で、何かがより純度を増して精整されていくのが分かる。どんなに姿を替え、行動を矯正し、頭の中をいじっても、決して消えない何かがある。

 医者たちはデータをみて、自らの成果を喜んでいるが、そうはならないことは、この僕が一番知っていた。

 退院の日の、強い太陽の光は今も忘れない。


おしまい


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