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『あいつは長くは生きれないかもしれない。』


沙穂の母親は胸を患って死んだ。

体力の衰えとひどい咳に悩まされ、なりやがて血を吐いて死ぬ。

沙穂はそんな未来に怯えている。

皆が皆そうとは限らないが、何しろ叔母ちゃんを看取ったのは幼い沙穂だ。大好きな母親の記憶に付き纏う死の影は容易に薄れはしない。


貴族の生活は、決まりごとだらけ。とてもじゃないが、体には負担を掛けるばかりで、優雅で雅なだけではないお粗末な物らしい。

喰っていい物悪い物、決まりごとを守る上で、なおざりになっていった体が欲する物。お世辞にも美味い飯を食べているとは思えなかったし、あんな重たい着物を着続けるのに、体を動かす事もない。当然、体が鍛えられる事も無く、棒の様な手足になった。


それに比べて、腹いっぱい食べれるばかりでは無いけど、適度に身体を動かして、野菜も肉も食べるおら達の方が、よっぽど体は丈夫になる。

叔母ちゃんはまだいい、都に連れて行かれるまではここで野良仕事をしていたから。でも、沙穂はそうじゃない。

ここに来るまでの沙穂は、本当にガリガリにやせ細って、骨と皮だけだった。

でも、この村での生活の中で、だんだんとふっくらして、初めてだろう恋に目を輝かせた。よく見えないその目で、どんな未来を見ていたのだろう…。


テンに会う約束の前日、それまで微熱が出ていた沙穂が倒れたんだ。それまで、大分我慢していたのかもしれない。暫く寝かして置いて、熱冷ましを飲ませたり、おらの母ちゃんと看病していたが気が気じゃなかった。


叔母ちゃんが死んだ胸の病を疑った。きっと沙穂も口には出さなかったが同じ思いだったに違いない。

たくさんたくさんの血を吐いて痩せ細って死んでいった母親と、自分の行く末を重ねた沙穂は、小さな声でおらに言った。


『もう一度、一度でいいから、あの方に…会いたいのです。』


これまで辛いことばっかりだったろうに、これからも…険しい道が広がっているだろう沙穂の、ささやかな願いを叶えてやりたいと願うのは、悪いことじゃないだろ。


頼むよ、テン。



◇◇◇◇◇



鬼の里に帰った俺が、真っ先に向かったのはおばばの家だった。


戸口を開けたおばばの娘に、外に出るように促した。

川縁をそぞろ歩く俺はどう切り出そうと迷っていたが、意外にも先に口火を切ったのは娘の方だ。


「ふふっ。若様、私に話したいことがあるのですよね。」


せり出した腹を撫ぜながら、ほっこりと微笑む女。


「腹の子の父親の事でしょうか?」


強張った俺の表情を見て、小さく笑った。


「先ず御礼を言わせて下さい。この子の後見になって頂けるとの事、ありがとうございます。どれほどそのお言葉が心強いか。…それで、若様もお聞きの通り、子の父親は人間です。金山に向かう途中、蝮に噛まれているところに行き会いまして…。まあ、情けを交わしました。」


全く、おばばも俺も早とちりもいいとこ。真相はやはり刀水士の語った通りか。

ほんのり頬を染めた娘の横顔は、柔らかい微笑を浮かべていた。


「若様はまだお若いですし、男でございます。私のしたことはご理解いただけないかもしれませんが…私は一欠片の後悔もありません。それどころか、今が一番幸せなのです。」


ほっこりと笑う女の姿に、俺は何も言えなかった。


「一つ聞かせて欲しい。その子の父親にもう一度会いたいか?」


おさばばの娘は、変わらぬ柔らかな表情を浮かべたまま、はっきりと言った。


「いいえ。あの一度でいいのです。何もなさず、何も残せず、ただ消えていくだけだった私が、子を残す事が出来る。それだけで十分なのです。」


凛としたおばばの娘は、小さく頭を下げると、踵を返した。俺は、その後ろ姿を、ぼんやり見送った。








屋敷に戻れば、俺にとっての天敵の一人が待ち構えていた。


「どこにいってたんだ?親父殿の世話も放り出して。フラフラしていていい年はとうに過ぎている。早く身を固めた方がいいのではないのか。」


げんなりする。

姉の夫、俺の義理の兄だ。だが、こいつはまだマシ。刈葦を自分の後釜にと思う時点で、必要最低限の養育と教育を考えている。


ただな、煩いんだ。

俺の親、姉弟の確執、ぐちゃぐちゃな関係を知っているくせに、こうあるべきという姿を押し付けてくる。


「兄貴こそ、どういう風の吹き回しで?ここにわざわざ足を運ぶなんて。」


「それが、先日まで一緒に金山に行っていたのだが、急用が出来て、刈葦だけ残して金山にとんぼ返りしたのが一昨日。屋敷に戻ったのが今日だが、刈葦がいなくなっていて…探しているんだ、お前の所ではないのか。」


決めつけるんじゃねーよ。

だけど、刈葦がいないとは…。


「わかった。俺も心当たりを探してみるから。」


再び里の中で、刈葦が行きそうなとこを一つ一つ潰して行く。行きあった里の鬼達にも聞きながら探し歩いていた。それでも刈葦の姿を見た者はいない。

段々と日が傾いて、俺の中にも焦りが膨らんで行く。



太陽は西の稜線の向こうに消えた。

もう探せる所が無い。

もしかしたら、刈葦は屋敷に戻っているかも知れないと、俺は再び走り出した。

屋敷迄の坂道を駆け上がり、大きな門をくぐると、立派な構えの屋敷が広がる。庭を横切ろうとした俺の目に、赤毛の女の姿が飛び込んできた。


「姉貴…。刈葦は?兄貴が探しているんだ。知らないか?」


「久しぶりだね、愚弟。相変わらず無駄な事を…角無しなどに構う暇などないでしょう?」


相変わらずなのはお前だな。

愚かな女。

母である事を否定したあの女は、自分で産んだ子でさえも居なかった事にしようとする。


いなかったことにする?

それは…


「…もしかして、お前が…っつ、刈葦に何をした‼︎」


「別に何もしちゃいないわ。あの子が自分で選んだ、それだけ。」


怖気に背筋が泡立つ。

薄っすらと浮かべる姉の笑みが、恐ろしく凶悪な物に見えた。

先に見えた、自分の腹に宿る小さな命を、愛しむ様な微笑みとはあまりに違い過ぎて…。


「刈葦‼︎刈葦返事しろ!」


土足で屋敷の中に上がれば、後ろから非難の声。

構うものか、あいつのあの目、凍るような冷たさを含む視線が、恐ろしい。

幾つもの部屋の戸を開けたが、刈葦の姿は見えない。踵を返し庭に戻った俺の耳に、小さな、ほんの小さな声が、微かに俺を呼ぶ子供の声が届いたのは、有る意味奇跡だ。

この時ばかりは、信じもしない神に祈った。


「刈葦‼︎」


駆け寄り覗き込むと、冷たい井戸の底に、小さく見える子供の頭。


丸い井戸の壁に両手両足を突っ張らせ、慎重に降りていく。

刈葦が水に浸かりながらも、井戸の壁石の間にその小さな手を差し込み、自重を支えている。けれど、もうとっくに限界を超えているだろう。

井戸の底に辿り着けば、俺の胸元迄水が溜まっていた。刈葦では当然溺れる深さだが、寸前で壁にへばりついて耐えていた。


「刈葦‼︎しっかりしろ!もう手を離してもいいぞ!」


俺の声が聞こえていないのか、積み上げた石の間に差し込んだ手から力が抜ける事は無い。

刈葦の体を抱え、強張った小さな手を俺の手で包み込む。氷で出来た彫像の様になったその手に、熱を分け与えるべく。


ああ、腹が煮える様な怒りが俺を支配する。感情のままに、あの女の心の臓を抉り出し、握り潰してやりたい。

だけど、それだけは出来ない。刈葦のヒビ割れた心を、粉々に砕く決定打になるに違いないから。


刈葦の手に有る物。

それを見て、胸が締め付けられる思いがした。

子供の小さな手には余る小さ刀が握られていた。こんなになっても手放さない小さ刀が、決して報われる事のない、刈葦の母への思慕を物語っている。


「…にぃ…ちゃ、ん。…きて…くれた、ありが…と…」


さすが鬼の子供だ。

憔悴しているが、まだ意識も有る。


「母様の…たい、せ…つな…の…」


そう、子供でも知っている。

この小さ刀の意味。

二本角にのみ許された、妻問の宝。


刈葦にとって、これは家族の繋がりの象徴なのかもしれない。

父から母への求婚、その時携えられていたであろうこの小さ刀。

だから、折れた手も顧みず井戸に飛び込んだ。


だけど、なんでそれが井戸に落ちるんだ。

「落ちた」じゃないだろ、「落とした」の間違いだ。故意に小さ刀を井戸に落とし、刈葦に拾いに行かせたたあの女は、息子の死を願った。


これは、早とちりじゃない。

厳然たる事実。


なぁ、刀水士。

鬼は遠からず、滅んで行くだろうよ。自ら進んで黄泉路を歩もうとしている、そう思えてならない。


遠く広がる空は、何処にも境界など見えないのに…俺たちの世界は狭過ぎて、見上げる事しか出来やしない。


井戸の底から見上げた、丸く切り取られた夜空は、鬼達の小さく閉じた世界と重なった。




















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