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パッと花が咲いたように微笑みを浮かべる沙穂は、本当に嬉しかったに違いない。
ここに来るまでに見せた厳しい表情、「人質」としてここにやられるその覚悟たるやいかばかりか。生半可な物では無いのは確かだ。
けれど、あれだけ焦がれた相手が実は『鬼』で、和睦の為に決められた縁であったとしても、好いた男の嫁になるのだという事実が、彼女を安心させたし、喜ばせたのだろう。逆に言うなら、それほど酒呑の事が好きになってたんだな。
沙穂は床に座り両手をついて頭を下げる。
長い長い彼女の髪が、床に広がった。髪に隠れた顔を見る事は出来なかったけれど、その声は実に弾んでいる。
「あのっ、ありがとうございました。あの時助けて頂いたおかげで、私は今こうしていられるんです。とても感謝しております。」
「あ、ああ。いや、別に。
止めを刺しかけたのは俺だし……」
ようやく半面を取ったテンに浮かぶのは困惑。というか何だよ、止めって!
「若様、照れていらっしゃる。」
「べっ、別にそんなんじゃねーし!」
茶化すような石動の言葉に過剰に反応するテンが可愛らしいぞ。
おれもニヤニヤした笑いを浮かべながら生暖かい視線を送った。
「いやいやいや、まぁ良かったんじゃないの?それにテンは残念な美形らしいじゃん?」
「なんだよそれ?」
眉間に皺を寄せながら口を尖らすテンが何だか可愛いぞ。本当に自分に対する評価を知らないと見える。誰がなんといっても美形だっていうのに、それを自分で気がついて無いから、そこがグッとくる所なんだろうなあ。
って、オラは女子か!
石動が支度を終えて膳を抱えている。人数分の膳を重ねて持っている為、背の低い石動の頭は隠れて見え無い。
頼むからこけてくれるなよ。
「まぁ皆様、膳の支度が整いましたでどうぞ冷めない内に。」
しかし適当な婆様だ。
部屋に配膳した後声を掛けてくれても良さそうな物だと思っていたが、なんの事は無い。いそいそと酒呑がその配膳を手伝っている。
次期長よ、いいのかそれで。
「沙穂、もういつもの格好で楽にすればいいぞ。」
「助かります。もうこんな重たい物を着ようとは思えなくて。あったかいんですけどね〜。」
少々脱力したオラは、隣で立ち尽くす沙穂に声を掛けて、何枚も重ねて着ていた着物を脱ぐのを手伝ってやる。
衣桁に色とりどりの着物を掛けてやっていると、テンが横から手を出して、衣に皺がつか無いように整えてくれた。
「女にとって冷えは大敵だからな、寝床に温石を入れておいてやろう、……やってくれ石動。」
唖然とするオラの視線に気づいて、慌てて言い直すがもう時遅し。
ああああ、そう言う事かい。確かにオカンだわー。この気配り上手さんめ!
「かしこまりました若様。」
笑いを堪えた石動が炊き屋に戻っていった。
祝いの席とあって一人一人に尾頭付きの魚が出されていた。冬場にこれだけの魚を用意するとは、どれだけ大変な事か分かっている。
それだけ今日のために力を尽くしてくれたと思えば、オラも安心して沙穂を任せられるってものだ。
しかし、面倒だからとか何とか言いながら、オラと石動も一緒に膳を並べて食べるようテンが言うが、本当の所は沙穂と二人きりが気不味いのでは無いかと踏んでいる。
ここまでヘタレな反応をするテンを想像だにしていなかったからなぁ、誤算だ。
それはそれとして、石動の用意した料理が上手い!
「うまい!本当上手いなこの芋の煮付け。魚まであるなんてびっくりした。よくこの季節に獲れたな。」
「ええ、本当に。この魚は石動が取ったのですか?」
沙穂もほおを綻ばせている。
お口に合ってなによりですと、石動もニコニコしながら鼻の穴を膨らませて勢い込んで言う。
「穴場があるんですわ。水の温度や水草の茂り具合なんかいろいろ条件が厳しいんですがね、でもこれだけ釣れるのも稀です。きっと山の神様もこの婚儀を祝福なさっておられるでねぇかな。」
「確かに………」
眉間に皺を寄せながら噛みしめるように言うテン。何しみじみしてやがる、今の惚気だよな。
それより今夜の方がオラの気掛かりだなぁ。
「っていうかこんな雰囲気でいいのか?皆んなでワイワイやって楽しいけどさ、テンは今夜は頑張らなくちゃなんねえだろうが。もっと沙穂と二人っきりになって、距離を縮める努力をしといた方が、いきなり二人きりにされるよりマシなんじゃねえ?」
コソコソと耳打ちした内容には一言も触れず、テンはモグモグモグと咀嚼していた物を飲み込み、真顔でオラに向き直り厳かに言う。
「塩が足りない。」
箸を落としそうになった。
何だよ突然、そんな深刻そうに真顔で言うことなのか?
「おお、申し訳ございませぬ。ただいまお持ちいたします。いや、ケチった訳ではありませぬが……」
いそいそと塩を取りに席を立つ石動を見送るも、テンの真意は他にあるらしい。手元の椀に目を落とし、小さく息を吐く。
「刀水士、俺たちは海を知らぬ。」
「はあ?なんだよいきなり。」
「人が生きていくに塩は必要不可欠だろ。俺たちも同じだ。僅かばかりは塩を得る事は出来るが、十分な量ではないのだ。
この膳に用意してくれた塩だとて、この日の為に石動が何とか工面してくれた。それが容易でなかったろう事、知っている。」
眉間の皺が深くなる、テンには何か頭に浮かんだ事があるのだろうが、オラにはさっぱり。
「塩が足りないって、鬼の里の事か?足りないとどうなるんだ?」
「ない訳ではない、足りないんだ。だからどうってこともない奴もいれば、病になる奴もいる。この病の原因が全て塩だとは思ってはいないが、一因になっているのではないかと、里の薬師が言っておった。」
成る程、頷きながら腕を組むオラはテン達鬼が置かれた状況に想いを巡らす。
「そっか、テン達が里の外に出るのは危険が付き物だろうからな。ましてや塩田なんて持ちようはずがないし、商いなんて不可能だし、自前で何とかするしかなかった訳だ。」
オラ達の山里も塩を手に入れるために足を延ばすのだ、完全に外界から隔絶された鬼の里であればなおの事、塩は貴重品だ。
「そう、今回この婚儀をきっかけに考えたのだ、里の外の世界を知る必要がある。そして事態は思った以上に逼迫しているのではないかと。」
曖昧な物言いをするテンが不思議だった。
いつもはもっと歯切れの良い喋り方をする奴なんだが、何かあったのだろうか。
訝しげなオラに、杯を煽りながら皮肉気な笑みを浮かべ視線をくれるテン。いや、物凄く色っぽい流し目にしか見えないんだけど!本人自覚無いよね。
「蛙を煮立った鍋に放り込むとどうなるか分かるか?」
「蛙だ?そりゃ逃げ出すだろうよ。」
「その通り、だが鍋の湯が水の内に蛙を入れ、その後湯を沸かした場合はそのまま茹で蛙になるそうだ。」
苦々しく吐き捨てるテン。
ああ、鬼の里にある何かは重大な問題で、それなのにその認識を共有出来る仲間が、テンにはいないのかもしれない。テンの頭の回転の良さはなかなかの物だが、だからこそそれについてこれる奴がいないんだろうってのは容易に想像つく。
「……塩か。」
テンは忌々しそうに漬物を音を立てて噛み砕いている。漬け物に罪はないぞ。
その隣では、沙穂が不安げな様子でテンをみあげていた。
婚儀の宴の筈が何とも硬い話題で締めくくられた。