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煎餅布団に横たわる老人。


その目元は落ち窪み、肌はかさかさと乾き茶色くくすんで見える。


俺の育ての親とも言える爺が死んだ。

シワシワのジジイに成りおってからに。


「若様、はよう嫁御を娶られませ。」


ここ数年の爺の口癖だったが、結局そんな女の姿を見ることも無く逝ってしまった。

すまないなと思う反面、まだまだ年若い自分には嫁など窮屈で、自由にしていたいと思う方が正直な所。


棺桶に移し替えるため、抱き上げた爺の体はまるで枯れ木のようで、確かにもう爺はいないのだと実感させられる。


「兄様、どちらへ?」


従姉妹の甲高い声が頭に響く。

ああ言う声色はどうも苦手だ。

後ろから掛けられた声に手を振って答えると、屋敷を後にした。


棺桶に入っているあれは、爺の脱け殻。

そもそも爺には、もう別れの挨拶は済んでいる。あの場に俺がいなくちゃならない道理はなかろう。




川沿いにぷらぷら歩けば、滝の音が聞こえてくる。

幼子には決して近づくなと、親たちが言い含める滝だが、ただ危ないだけではない。


あの滝の向こうは、人の世だから。


俺たち鬼が渇望する、広く開けた世界がある。


だが、興味本位で覗くなかれ。

下手にちょっかいを出せば、袋叩きに合うでは済まない。三昧におろされ、挙句たたきにされても仕方が無い。

厭い、憎み合ってきた長い時間がそうさせる。理由なんかあっても無くてもいいんだ。


でも俺は、あの先にある人の暮らしや、話に聞いた都とやらを見てみたい。

物凄い大勢の人達が行き交い、沢山の物が売り買いされる市とやらを見て…いや行ってみたい。


増悪と憧憬とが複雑に入り混じった感情が湧き上がる。


滝壺を見下ろす崖まで来た。

腰に下げた瓢箪、中身は酒だ。流れ落ちる水に酒を振り撒いた。

死者に手向けるそれは、日に輝きながらあっという間に滝壺に吸い込まれて行った。


「爺、次は鬼なんぞに生まれてくるなょ。」




◇◇◇◇



「なんだありゃ。」


爺を弔ってから数日後、いつものように、あの滝壺を見下ろす崖までやって来た俺は、その滝壺の端に花が咲いているのを見つけた。

いや、花のように広がる紅色の着物。

猿のように崖を滑り降り、油断なく辺りに注意を向けながら、その近くまで寄って見てみれば…


「あー、土左衛門じゃねーか。」


しかし、なんて長い髪だと目を丸くする。

水面にたゆとう黒髪は、里の女達の倍以上はありそうだ。その髪を頬に、首筋にへばりつかせた人間は、どうやら女のようだ。


そう、滝の向こうは人間の世界。

当然、この土左衛門も人間だ。


「死んでんのかこいつ?」


爪先で土左衛門の頭を軽く蹴れば、辛うじて岩に引っかかっていた上半身が、すうっと引き込まれるように水の中に沈んだ。


トプン。


最後に沈んだ女の右手が、微かに空を搔いた様に見えた。

慌ててその右手を掴み、女の体を引っ張り上げれば、乱れ掛かる髪の間から薄っすらとその目を開けて俺を見つめた。




パチパチと小枝の燃える音が辺りに響く。


「…う、…ん」


腕の中の土左衛門、もとい人間の女が身じろぎする。漸く意識が戻り掛けているようだが、さて俺の姿を見て騒がれても面倒だ。

ずっと抱きかかえていた女を地べたに横たえると、天日干ししてパリパリに乾いた紅色の着物を上に掛けてやった。


「…ん…」


緩い覚醒状態だ、今なら夢でも見たと思うだけだろ。さっさとトンズラだ。

そう思い立ち上がろうとした俺だが、立ち上がれない。死人の様な白い腕が、着物の端をしっかりと握りしめていたからだ。


「…あ、の…どなたか、存じ、ませんが…ありがと、ござ…ま、す…」


力が入らない様子の身体を無理やり起こし、明後日の方向に頭を下げている女は、どうやら目が悪い様で、俺の姿も朧げにしか見えないらしい。


葉月とはいえ山の水は冷たい、あのまま放置すれば、こんな痩せた鶏がらじゃ死んじまうかもしれない。だからと言って、ずぶ濡れの着物を剥ぎ取り、半日近く素っ裸の女を抱えて身体を温めるなんて…柄でもなく仏心を起こした自分がどうかしてる。

更にその女を下の人里まで送り届けようだなんて…。


女は身投げなどではなく、誤って杖を滝壺に落とした挙句足を滑らして溺れたそうだ。間抜けな話だと思いつつ、何故あんな山奥まで一人で来たのかわからない。

女の歩く速さでは里に降りるのは真夜中になってしまう、これまた仕方なく女をおぶい歩き出した。


「…あの、私は下の里の長の預かりとなっている者です。重ね重ね申しわけありませんが、長殿のお屋敷まで連れて行ってもらえませんでしょうか…。」


「ああ。」


「…申しわけありませぬ…その、見苦しいモノを、お見せしまして…」


確かに貧相な肉付きだったが、あの色の白さだ。普段から身体を動かす事などないのだろう。ならばそれも無理からぬこと。大体そんなにかしこまって詫びられても、返答に困る。 これは俺の気まぐれでしかない。

だいぶ体の調子も持ち直して来たと見えて、俺の背で何やら小さな声で話し始めた女は、都から来ているという。なんだか変わった女だと思ったが、成る程、ここいらの村娘と一緒にしてはいけない身分の者なのだろう。祝い事でも無いだろうに、あんな色の小袖を纏うぐらいだからな。

黙ったままの俺に構うことなく、ポツリポツリと都での生活を言葉に紡いでいく女は、きっと知らない。

鬼は、鬼の悲願である広い土地と自由を、喉から手が出るほど欲しているそれら全てを、我が物としている人間を深く妬んで、恨んで、憎んでいる事を。


真っ暗な畦道を歩き、里の中央にある大きな屋敷が見える所迄来た。途中幾つもの松明が揺れて人が集まっている様子。きっとこの女を探しているのだろう。


「里長の屋敷に行くまでもない。あんたの迎えは来ている。」


大声で呼ばわれば、誰か気づくだろう。

背中から女を降ろし、声を上げようとした時、焦ったような女の声と、ひやりとした小さな手の感触がある。

俺が振り向いた途端、慌てて離れて行くその感触。


「もし、…あの……。」


鬼は夜目が効く。だが、俯く女の丸い耳が黒髪からのぞいているが、指先から伝わる冷たさからは考えられないほど熱を帯びた色に染まっているとは、気がつかなかった。


「なんだ。」


続きを言い淀む女に焦れた俺の尖った声。そして、小さくもはっきりと通る涼やかな女の声で紡がれた言葉。


「沙穂と…申します。…あの、お前様の…御名を…」


女の声に被せる様に、不意に近くで声が上がった。


「誰かいるのか?」


揺れる松明が近づいて来る。

里の人間に見つかれば面倒だ、これ以上の迷惑は蒙りたくはない。


「おう、女が居たぞ!皆探してるのはこいつだろ。」


小さく舌打ちした俺は、素知らぬふりで答えた。

明かりが届く前にここを立ち去らねばならない。俺の正体が露見した時の騒ぎを想像すればうんざりする。鬼を狩ろうとする人間を返り討ちにするは容易い。だが、より一層逆上した人間達が鬼の里にまで乗り込んで来たら…あぁ、本当めんどくせえ。


俺は溜息を一つ付くと、素早く身を翻し闇夜に紛れ走り出した。


面倒事はごめんだ。



◇◇◇◇



「沙穂のバカちん!目が悪いに一人でどこをほっつき歩いてた!」


怒り心頭のおらを気配で察した従兄妹は、首を竦めて怯えたようにこちらを見ている。


刀水士とみじごめんなさい。皆様にも心配をさせました。」


当たり前じゃ、沙穂はただの従兄妹じゃない。

今だおらと血が繋がっているのが信じられない、美しい女だ。

鄙には稀なその美しさは母親譲りだが、同時にその美しさゆえの危険も孕んでいる。この儚げで清楚な美しさは、数多の毒虫を引きつけて止まないという、恐ろしいまでの色香を備えているということを、本人は欠片も理解していない。


「ご、ごめんなさい。でも聞いて刀水士、あの…私を助けて下さった方が居て、それで…」


「ちょい待て、なんじゃ助けてくれたて?ただ迷子になっとったのと違うんか⁉︎」


おらの剣幕に更に縮こまる沙穂。上目遣いにおらを見るなよ、可愛いから許す‼︎とか言いたくなる。

イヤイヤ、嫁入り前の妙齢の女子に何かあっては、叔母ちゃんに顔向け出来ない。


「あっ、いえその…何でも、ないです。」


玄関の上り框に沙穂をを腰掛けさせ、土間に用意してあった桶の水に手ぬぐいを浸す。固く絞った手ぬぐいで、その小さな白い足を丹念に拭いた。

彼女の白い足に触れて、何も思わない程淡白な人間ではないが、如何せんおら等は従兄妹同士でも、超え難い壁がある。


おらは百姓で、沙穂は貴族の娘なのだ。


種明かしは簡単。

沙穂の母親が、たまたま運悪くこの村を見回りに来た貴族の若様に見初められ、まるで攫われるかのように都に連れて行かれたのがきっかけ。


まぁ、田舎の娘っ子が貴族に見初められるなんて、いい迷惑でしかない。まして一方的な執着を押し付けられた心が伴わない関係なんて、拷問だよな。貴族の屋敷では田舎猿と馬鹿にされ、随分酷い目にあったそうだ。当然、その娘も同様。ただ、一応の貴族の姫としての教育は受けていたのは…手駒として使う算段があった事だろう。


そんな沙穂が何故この山里にいるのか?


それも簡単な話だ。

体を壊し目まで患う様になってしまった沙穂の利用価値など無いに等しい。

厄介払いとばかりに、母親の里に帰されたのは半年前。

この半年の間に身体は随分回復したものだ。来たばかりはかなり重い病状だったが自分で起きて歩ける様になったし、何より自分から何かしようという気になった事が、おらには嬉しい。沙穂が元気になってきたって事じゃ。



「ったく、叔母ちゃんを悲しませる真似はやめてくれよな。」


「うん…。」


その時おらは、沙穂の長い長い髪が未だしっとりと湿り気を帯びていたのに気づかなかった。

同時に、沙穂の気持ちにも…。


















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