愛すべき悪癖
拳骨で頭を殴ると彼女は情けない悲鳴を上げた。
「痛いっ」
「それはこっちの台詞だ!」
鏡を見るまでもなくわかる。私の肩口には既にくっきりと歯形がついているだろう。……ああ、またしばらくTシャツが着られない。
やるはずだった課題はもちろん机に置き去りである。努力はした。でも彼女にうちでやろうと誘われた時点で集中できないことは決定していた。
というか彼女も課題を真面目にやる気はなかったにちがいない。
「噛んだからお預け」
「ええーごめんってばー」
ワイシャツのボタンを一番上まで留めて防衛すると、私の膝の上にこちらを向いて座っていた彼女は抗議の声を上げた。口調こそ平素と変わらないものの既に甘え声だ。
かわいい子猫。
ただし噛み癖がある。
いまだにしつけられない。
「痕残されると困るっていつも言ってる」
わざわざキス直前一センチ弱で話してやると、焦れた彼女が自分から顔を近づけようとするがその額を押さえて動きを止める。
「私彼氏もいないことになってるからね、歯形なんてバレたら大惨事なんだけどなぁそこんとこわかってんの子猫ちゃん」
「ひどい、焦らさないで」
「……人の話聞けよ」
「聞いてるよ」
不満げに座り直し、彼女は膨れた。子供か。
「じゃあなんで同じこと繰り返すのかな?」
「だって」
「だって何」
睨む勢いで目を合わせると、圧力に負けたように逃げるように視線を逸らす。体まで逃げ腰になっているから腕を掴んで引き寄せる。
一声唸った彼女は、こつんと私の額に彼女の額を合わせた。
目を伏せているから瞳が見えない。
「印をつけたいの」
「印?」
「私のもの、っていう、印」
ずる、と額が外れる。重力に任せて彼女の肩に頭を預けると、一瞬の戸惑い混じりの沈黙の後、頭を撫でてくれた。
私だって不安だ。
男女間に芽生える気持ちを私は知らないが、似たようなものなのか、あるいはもっと確かなものなのか。
ともすればただの親友に戻りそうで。
だからいっそうの努力がいる。
相手を自分に惚れさせておく、努力。
鈍い痛みが残る肩に触れる。消える度に喪失感に襲われて、ガードが甘くなって、何度も刻まれた印がそこにある。
「……ねぇ」
「うん」
「私のこと、独り占めして」
私の声は予想以上に弱気だった。
頭上から吐息だけの笑い声が聞こえる。
「どうしたの急に」
「別に」
「らしくないなあ」
「知ってる」
軽く音を立てて額にキスをして、彼女はじっと私の目を覗き込んだ。
薄い茶色の瞳は私のものより淡く透き通って、よほど無邪気だ。
「いつも独り占めしたいと思ってるよ」
「……そっか」
「うん。まあ実際独り占めだけどね、だっていつも単独行動してるでしょ」
「うるさい」
友人が少ない自覚はある。
彼女は目を細めて笑った。
「じゃあ、私のことも独り占めしてくれる?」
……それが、どれだけ難しいか知ってて言ってるのかこいつは。
社交的でいつも人に囲まれてるからしたくてもできるわけないだろ。
「無理そう」
「えー……」
瞬間、笑顔がみるみる萎んだ。不満げな、寂しげな上目遣いは、これは反則だと思う。
「なんで?」
「いつも集団行動だから」
「じゃあそこから奪ってよ」
「それを私に強いる?」
む、と顔をしかめ、彼女は私の髪に手を伸ばした。無意味に指に絡めながらとつとつと言う。
「強奪して、ほしいのになぁ」
それを。
至近距離で言うな。
「……私を独り占めしてくれたら」
無言で彼女が顔を上げる。同時に私は視線を逸らす。言い慣れない言葉は恥ずかしい。
「そのときは、私だって独り占めしてることにならない?」
今だって。
そう付け加えると、彼女は心底嬉しそうに笑った。
「そうだね」
……くそ、かわいい。
破壊力わかっててやってるのか。
おまけにその笑顔を無差別に振り撒くから気が気じゃない。
「笑顔」
「笑顔?」
「他のやつに見せる必要ない。……私だけに見せてよ」
「わあ、すごい我が儘」
無茶苦茶なのはわかってる。できるわけないのも。本気だと彼女は思ってないし、もちろん私も本気ではない。
でも、もし実現するなら。
常軌を逸しているけど、私は嬉しいと思ってしまうだろう。
「それから」
小首を傾げた彼女と視線を絡ませ距離を詰める。頬を撫でると心地よさげに目を細めた。
「……何?」
元に戻っていた彼女の声がとろけそうに甘くなる。
このまま。
骨抜きにしてやる。
「その近さで強奪とか言われると別のもの奪いたくなるから」
返事は待たない。
そしてなけなしの距離をゼロにした。