<十九>この世への未練
<十九>この世への未練
娘はもうこの世には居ない。しかし、久子は何だか百合が天から自分の姿を見下ろしているような気がしてならなかった。生きている間に会うことが出来なかった娘。娘の方も同じだ。生きていさえすれば会う機会などいくらでもあった筈なのに。
久子は、取調室で一人になり休憩しながら小さな窓からぼんやりとこぼれる日の光に目をやりながら考えた。
一緒に岬に行って忽然と姿の見えなくなった彼女。そこには彼女の長靴がきちんと揃えられていた。少しの時間久子と一緒に居たこと自体、周りに居た宿の人は否定していたし、そもそも彼女がその時この世に存在していないことは西積丹の朽ち果てた旅館が一番に証明していた。
しかし、久子と一緒に居る彼女は確かに嬉しそうだった。その顔は今でも久子の目にはっきりと焼きついていて、それが夢や幻であったとはとても信じられなかった。
◆◇◆
時、ほどなくして久子のアリバイは成立した。陽平が警察の記録をもとに都内から北海道までアリバイの複数証言を取り、警察へ提出したのだ。警察の裏付け捜査も同じ結果を示した。誘拐犯である百合の行動と久子の足取りには『一日』という明らかな時間軸のずれが認められたのである。
百合が男児を誘拐し札幌近郊から家族へ脅迫電話をかけてきた日、久子は旅の準備のため都内で買い物をしていた。翌日数回に亘り電話が有り、小樽近辺で身代金の受渡しが行われた日に、久子は札幌で同窓会に出席していた。久子が誘拐犯でないことを立証するにはその二つの日時のズレだけでも充分だった。
警察に記録のある犯人の足取りは、その後携帯電話の位置を追い、西積丹を巡り最後にK岬から洋上まで続いて忽然と途切れている。
身代金を受け取ったその日、百合は西積丹へ身を隠していた琉依と会い、そこで出生の秘密を明かされたのではなかったか。そして、百合は琉依を誘ってともにK岬へと向かった。この世に生まれて僅か十八年間の人生を自ら閉じることとなった最期の地、K岬へと…。同じ日久子は小樽から西積丹へ移動しており、全てが一日遅れの中で、その夜、久子は、西積丹で見知らぬ少女に会った。時刻的には百合がK岬に到達した頃だったかもしれない。百合がこの世を去ったあたりから少女が久子のもとに現れている。翌日少女は久子と東積丹へ、その翌日にK岬まで誘い、とうとう久子の前からその姿を消した……。
久子が林の中の小屋で男児を発見したのは、誘拐されてから足掛け五日目にもなる。もしここで久子が道に迷わされてなかったなら、男児は亡くなってしまっていたかもしれない。
警察官が取調室へ入ってきて、久子に部屋を出るように促した。久子は薄暗い廊下を警察官と二人で歩きながら、頭の中で再び考えを巡らせた。
――あの子。若い時の私にどこか似ていた……あなた。亡くなった百合でしょ? 私に会いに来て、自分の死に場所へ連れて行き、そして、自分の犯した行為によって空腹で死にかけている誘拐した男の子のもとへ私の車を導いた……。
――この世への未練があったのね……百合。私のことと、自分の犯した罪のこと。でも、私はあなたに生きてるうちに会いたかった……。
「ああ。百合!」
久子の突然の大きな叫び声に、取調官は驚いて思わず後ずさりし一瞬壁に貼り付いた。




