<一>新しい命
<一>新しい命
窓辺にある置時計は、柔らかな陽の光を反射してあたかも自ら光を放っているが如く輝いていた。昨日まで三日間続いた雨雪も今日にはあがって、窓から見える空はすっきりと晴れ渡っている。ここ北海道の春の訪れはまだまだ遠いが、その空は新しい命の誕生を祝福してくれているかのようである。
松原久子。彼女は小樽市内のはずれにある小さな産院で、昨日初めての子供を出産した。彼女の実家は隣のS村にあり、この産院からは四キロ程離れた山間に位置している。実家は数年前まで養蚕と少々の野菜畑で生計を立てていたが、今では一人残された母が永年夫婦でこつこつと貯めた郵便貯金と僅かばかりの年金で暮らしている。
久子は小樽市内の高校を卒業後、東京へ出てイベント企画の会社に就職し、そこで仕事を通じて知り合った自称プロ・ミュージシャンの松原陽平と二年前に入籍、夫の住んでいた都内の借家に転がり込んだ。都内といっても都心までバスと電車を乗り継いで徒歩まで加えると二時間以上かかる。
陽平はプロのジャズドラマーだが、グループを結成しては解散の繰り返しで、その生活は定職を持たないフリーター同然であった。アマチュアバンド時代はコンテストで最優秀ソリスト賞を取り将来を嘱望された彼も、プロの世界に入ると彼のテクニックはプロではごく当たり前のものであり、アマチュアトップを経てきた人間ばかりがいる中で彼らを追い抜くことは容易なことではなかった。家計は二人だけでも赤字となる月が多く、借金こそないが、子供が生まれてからの先行きには大いに不安があった。それでも陽平は、「毎日働くよ。子供向けのジャズ教室も家でやっていこう。街頭でおひねり貰うのも手だしね。やろうと思えば何でもできるさ」と明るく笑ってみせた。
「陽平。あなた、石原裕次郎にそっくりで、しかもドラマーなのよ。売れない筈ないと思うんだけどなあ」
「あのね。ミュージシャンを役者か何かと勘違いしてない? 売れるとか売れないとか、そういうの違うよ」
人は皆、授精した瞬間に死へと向かっていく。否、そんな悲しい運命をも「楽観視」できるという生きるための武器を天に授かっている。
生きることの本当の大切さは誰にも教わることはない。しかし、教わることなしに人はそれを知っている。
生き続けなければ必ずこの世に未練を残してしまうことを……。
【華】




