子羊編 一緒
天使は今日も外へ出た。
比較的多く孤児を養っているフォリスリ教会から外出する人の中で唯一出られるたった一人の幼い少女は、ボロの大きなバスケットを両手で持って笑顔で歩いて行く。
貧しい食事と厳しい労働で華奢な体がさらに細くなっているというのに、買い物をするであろう少女は元気に振る舞っている。
肌色の長い髪は綺麗であっただろうに、外出の前の教会の掃除のせいで煤がついている。手は荒れているものの、裾の黒ずんだ汚れと比較すれば清潔な方だ。
今の彼女の中で一番の外見的な美しさを言うならば、それは透き通る水のように澄んだ青い目くらいなものだ。
俺は彼女の様子をそこらの家の屋根に登って眺めている。
別に、俺は暇ではない。食べ物を盗んで惰性で生きるのに精一杯だ。しかも、盗まれてもさほど問題ではないところを慎重に調べる作業さえ含まれている。俺という奴はなんと真面目なのだろう。
と、俺のことは然程重要ではない。屋根伝いに少女を追い掛けた。
彼女の名前はラティシエシアという。俺は彼女のあまりの可憐さと美しさに心を惹かれてストーカーしている。
彼女の一番の美しいところといえば、誰もがそう言うだろう、やはり真面目さだ。
教会の教えを基準に、耳障りのいいお行儀の良さをそのまま体現している。睡眠欲や食欲、あまつさえ性欲のカテゴリーに入る少しの好意さえ律しているように見える。
要は人に好かれて当然の子供になっているのだ。でなければ、外出厳禁の孤児達の中で彼女だけ外へ出られる訳がない。
──振り向いた。
ラティシエシアが俺のいる方向へ首を曲げて、顔を空へ上げると彼女の丸い目が俺を捉えた。
彼女の歩みが止まる。体も俺に向かせた後、静かに会釈した。
「そこのお方。他所様の家を踏むとは、人として恥ずべきことではなくて?」
それこそ天使のような声で俺に疑問を投げ掛ける。確かに他人の家の屋根に勝手に登ることは良くないが、それはあくまで自分の常識だからだろうか、降りるようには促さない。
彼女は自分の価値観を俺には押し付けていないように聞こえた。
「俺は猫みたいなもんだ。屋根が壊れたら人に戻って弁償することもあるかも知れないがな」
「まぁ! 猫さん?」
「知らないのか? 猫が寄り付いた家には虫や鼠が居なくなるんだぜ」
「随分と自由な猫さんですね。寄り付くというほど、長居はしていないでしょう? では猫とは言えませんね」
「あーあー聞こえねぇなぁ。にゃーにゃー言ってくれねぇと」
「猫は人の言うことは人の言葉でしか理解できないのですよ。お馬鹿さんね、くすっ」
俺は黙って飛び降りた。
随分と……お優しいことで。
何も言い返せなくなりむすっとしていると、彼女はバスケットを見て困った顔をした。
「ごめんなさい、お話はしてあげたいけれど、これからお買い物をしに行かなくてはならないの。また会えた時、次はゆっくりとお話しましょ。他所様の迷惑になってはなりませんよ。約束ね? ごきげんよう」
手のひらをひらひらと動かした後、足早で俺から離れていく。
……さて、自由のない人間様がまた俺の相手をしてくれるだろうか。意外と活発なあの子のことだ、休む間を削って無理をするかも知れない。
このまま別れて、俺なんかの為に労力を割かせる訳にはいかない。
俺は彼女に駆け寄ってバスケットをひったくった。
「何をするの!」
「俺は暇だからよ。買い物くらい付き合ってやんよ」
「いけないわ。私なんかの為に迷惑は掛けられませんもの!」
「いいっていいって」
「暇を削って無理なんかさせられません!」
「へーきへーき」
何も言い返せなくなりむすっとすると、彼女はバスケットを見て困った顔をした。
……あれ、おかしいな。喜んでもらえるとばかり思っていた。
「このかご、もしかして他人に触られたくない程大事だった?」
「いえ、私のお気に入りという訳ではないですが……」
歯切れの悪い言い方だ。
使命感と言うのだろうか、彼女の中で他人の手を借りる事は気落ちするようだ。
このまま手を貸しても後味が悪い。どうにかして穏やかな空気に変えることにした。
「だったらさ、これをお前への寄付ってことにしようぜ」
「寄付……?」
「ああ。お前が使うはずだった体力を俺の体力で置き換えてやる。お前は余った体力を今まで出来なかったことに費やせばいい」
「それはあなた様にとってあまりにも利がありません」
「俺にはお前の笑顔で十分なんだよ。それに、孤児院の大部分は寄付で成り立ってるだろ? 今更断る必要もないだろうよ」
我ながら会話として成立させるには卑怯だと思う。しかし、彼女は聡明であったのか、俺の言葉ではなく俺の感情を読んだかのように表情を柔らかくした。
先行く俺の隣に駆け寄って、細い手を俺の肩に置く。
「ありがとう、猫さん」
照れる。
「俺はセンナノ。センナノって名前」
「私はラティシエシア」
俺達はでこぼこの石畳の道を歩く。道中の空き家では時折老人や飢えた子供が俺達の笑い声に顔を出すが、すぐに影へと消える。
今日は曇り空。雨に備えてか、道端には浮浪者の姿は見受けられなかった。
「ラティシエシアは外の世界は知ってるか? この町の外の様子とかさ」
「いいえ。それよりも私の名前、言いにくくはない? みんなからはラティって言われています」
「名付けてもらった名前を略称するのは気が引けるんだよなぁ」
「そう? ではこれからもラティシエシアと呼び続けるの?」
「願わくば」
すると彼女は口に指を当てて抑えるように笑った。
「不思議ね」
「何がさ」
「見て分かるでしょ、私には親が居ないってこと。この名前はどこにいるとも知れない親から貰ったもので、その意味を知ることは二度とないでしょう。だから愛着も思い入れもないの」
「だから省略してもなんとも思っていなかった」
「そうです。教会で育ったはずの自分自身の価値観が、センナノさんのようなどこをほっつき歩いているのかもしれない子供よりも劣っていたことに虚しくなりました」
彼女は虚空を掴む自分の手を慈しむように見つめる。
自分を考える余裕など久しぶりに出来たのだろう。話を続ける気配も、まして俺から話しかけようとする気も起きなかった。
俺は虚空の大空に声を送った。
「初めてかもしれないなぁ。こんな大層ご立派なお方に受け入れられるのは」
「……」
「お前ってもしかして、三歳児にすら劣等感を抱くんじゃねぇの? そんな奴、どこの世界を渡ったとしてもラティシエシアしかいないだろうよ」
「ええそうよ。ラティシエシアは愚かなの」
彼女は顔を上げた。
「違うな、ラティシエシアは大真面目なんだ」
──フッ、と笑みを浮かべて再び空へ声を届ける。
「ラティシエシアは意気地なし」
「ラティシエシアは思慮深いんだ」
「ラティシエシアはうるさい」
「ラティシエシアは心配性なんだ」
「つたない」
「成長性」
「馬鹿」
「一生懸命」
「半人前」
「驕らない性格」
「よく叱られる」
「お前は悪くない」
水色の目が俺の顔の下から覗き込む。
「センナノさんは、捻くれていたいんですね」
「どういう意味だ」
「素直になれないフリをするのが楽しいのでしょう? それで相手の反応を探るのが楽しくてしょうがない」
「そんな嫌な奴だと思われるのは心外だな」
「だから、傷付いた人を見るのが苦痛で今のように優しくなる」
それに肯定も否定も返すことが出来ない。もしそうしたならば、俺を操作する為のボタンを渡すようなことになる気がするからだ。
「それでどうなるって言うんだ。結局酷い奴じゃないか。俺が人の弱みばかり狙って動くサディストとでも言いたいか」
ちっちっち。ラティシエシアは人差し指を優雅に振った。
「優しさの扱い方が優しい。これがセンナノさんの一番の良いところです」
「優しさの扱い方ってなんだよ」
「うーん。私はね、見返りを求めるからこそ他人に優しく出来るのだと考えているの。それは大小様々でも、その優しさの扱いさえも優しい人こそが優しい人なんだわ」
まるで、俺が彼女に何を思っているのか全て見透かしたことを言う。
もしかすると俺の下心も分析しようとするかも知れない。
自分の考えの正しさを証明する為に他人というフィルターを通す。自分が自分である為に他者を鏡のように使うことが個人を取得する方法ならば、彼女はあまりにも自虐的だ。
俺は……彼女の薄い信頼を壊す。
「……この国は人の住めるところじゃねぇよ。戦争ばっか引き起こして、国の端の俺達の町はいつ攻められるか分かったもんじゃねぇ。引っ越そうにも戦争で貧困なせいで家族を切り捨てて老人や子供が置いていかれる。お前も目を背けている場合じゃねぇ」
あえて避けていた。今日を生きる為に、しんどい気持ちを封じる為に見ないようにしていたその問題に、ラティシエシアの表情は影をさす。
「生きるだけじゃ駄目だ。戦う力が必要なんだ。今日、俺はそれを話しに来た」
彼女はすぐには返事を出さなかった。自身の手の甲をさすり、歩く速度を落として考える。
「意外と……人は満足します。どんなに苦しい人生も命と比べれば受け入れてしまう。その命を、温かな夢に預けることの何がいけないのでしょうか」
「俺は分かるよ。お前がわざと遠回しな言い方をしたところで、俺には分かる」
「……こんなことを話す為に降りてきたんですか」
「ああ」
俺の脳裏には彼女に嫌われるだろうという予想はあった。今までの会話は全て俺の吐き出したいもののために付き合い、過程などなんの興味もなかったのだと思われるだろう。
俺の事情と彼女の事情、混ざり合うには一筋縄では行かない。ラティシエシアが拒絶することは目に見えていた。
「私には今を守ることで精一杯。社会とは変えるものではなく溶け合っていくもの、理想の押し付けはただの破壊なのよ」
「ルールがそんなに大事か?」
「ルールこそが人の最強の武器でしょう?」
俺に余裕は無かった。軽く笑うという選択肢がいつの間にか消えていた。
彼女の目が変わっているのだ。慈愛があり不安を包み込んでくれるような不思議な魅力は、今は子を守る母のような凶暴さにかわっている。
それは敵意とするに何の違いもない。
「初めから自由なあなた様に、目に見えないものの価値は分からないでしょう。私はあなた様が嫌いです」
「そんなことはない……」
「では何故なにもかもを捨てて逃げるようなこと、平然と言えますか! 誤魔化さなくとも、あなた様はそういうことを言っていたのですよ!」
……俺は話を逸らすような人間ではない。本質を常に突いて生きてきた。それが今はどうだろうか、言葉が鉛のように沈んでいく。
嫌われることに免疫が無かったとは信じられない事実だ。
「なにもかもを背負った結果が今のお前だろ。他の孤児よりもぼろぼろで、痩せて、痩けて、おまけに貧しい! そんな力のないお前に価値観がどうのこうの言えてたまるか!」
「見損ないました! 男のくせに口だけはお上手ですこと! あれよこれよ言う前に私を救いたいと思うのなら、言うこと聞かさずかっこいいところ見せてください!」
彼女は突き放す言葉を避けながら、上手く激情をコントロールしているように見えた。
まるで俺が彼女に惚れているようなことを言う。多くの場合、それは憶測や決めつけというものではあるのだが、俺と彼女の間には分かりあう為の細い繋がりが出来ているのだと信じたい。
彼女だけではなく、彼女の大切なもの全てを守る何かを得なければ、この繋がりはすぐに切れてしまうだろう……。
「ありがとうございました。もう結構です」
ラティシエシアは俺からバスケットを静かに取ると、立ち止まる俺を置いて先に進んだ。
ここで皮肉の一つでも言ってやれば自分の気持ちも少しは晴れるだろうに、そう出来ないのは心の弱さが原因か。
……だが、それを補うだけの悪戯心は有り余っている。
「ラティシエシア!」
呼び掛けられ振り返る彼女へ、ポケットから金貨三枚が入った袋を取り出して投げ渡す。袋は彼女の胸元に当たると、ストンとバスケットの中に落ちた。
それが何なのか彼女はすぐに分かった。
「こんなもの必要ありません!」
「いらなかったらその辺にでも捨てれば良いさ。それが納得出来ないって言うのなら、俺を探して返しに来いよ」
「あなた様がどこに居るかなんて、分かるわけないでしょう!」
「俺のこと分かったようなこと言うくせに、嘘つくなってんだ!」
彼女は俺がどこに居ようとすぐに見つけ出す気がする。それはそれとして、彼女には金という権利が必要になるはずだ。真面目な彼女には金貨三枚を稼ぐ機会など絶対に訪れない。
そうと割り切ってしまえば、俺は何の罪悪感もなく相手の気持ちを傷付けてしまえた。
「私は、ただ……!」
「時間がないんだろ。さっさと買い物済ませてこいよ。俺は知らねー」
口では何とでも言える。こうして建前で自分から離れようとも、時間が経てば会いに行こうと考えているどうしようもない寂しがり屋だ。
彼女の剥がれかけの仮面が落ちる前に、俺は彼女とは逆方向の道の角を曲がって離れた。
……くだらないものに執着して、未来の可能性を薪にする。それを放っておけない俺も可能性を無駄にしてしまっているのかも知れない。
俺はひと足先に外の世界へ戻ることにした。
空は曇り続けている。
城下町の末端、明日生きるか死ぬかも決められない曝け出された土地にはほんの一部を除いて取り残された者達が身を削りながら住んでいる。
モンスターに喰われるか、敵国の兵に蹂躙されるか。死に方だけは自由だ。
マザーメッティス。悪童の長であり、貧しき者から秩序を奪った悪である。彼女は廃屋が並ぶ住宅街の中で輝かんとばかりに綺麗で大きな屋敷に住んでおり、厳重な警備が反逆を許さない。
俺は門の警備員の一人である傷だらけの男シャグナイに近付いた。
「マザーに会いに来た。通してくれるか」
シャグナイは黒手袋の右手で金銭を要求する。俺はポケットから金貨を一枚渡して通ろうとした。
「待て。チップが足りない」
図々しいことだ。
「冗談は一度きりにしてやる。ここでクビになりたくなければ通せ」
「ハッ! ガキが大人を舐めるなよ──!」
彼は明後日の方向を向き笑いながら、俺の死角を突いて蹴りを入れようとした。
俺は肘で奴の膝を打ち、今度は足を明後日の方向へ曲げてやる。
けたたましい叫び声を置き去りにして、俺は屋敷の中へ入っていった。
雑草取り、壁磨き、柵磨き。全て薄汚い子供達が行っている。大扉の前に立つ比較的堅いの良い子供は俺の目と会うや否や、大人様の顛末を目撃してか黙って道を開いた。
屋敷の中は世界が変わって見えるほどに綺麗だ。だからか、中で働く子供は皆衣服が同じであり清潔さを保っている。
あいもかわらず掃除ばかり。ここは毎日のように外も中も布切れで磨き続けられている。おかげで埃の一つも見つけられやしない。
まだ甘えたがりだろうに、シワの一つも出来ていないそこら辺の男の子に声を掛けた。
「おい。マザーメッティスの所へ案内してくれ」
「は、はい!」
素直だ。将来は商人かな。
彼は布切れを持ったまま先頭を歩く。不安そうにちらちらとこちらを見るが、まさか俺のような紳士がマザーメッティスを殺すのではないかと危惧しているとでも言いたいのか。
彼女の死はほぼここの子供達の死に繋がっている。用心するに越した事はないが……。
複雑な気分にさせられ、着いた場所は二階の応接室だった。男の子はゆっくりと扉を開けると、中へ入って一礼する。
「マザー。お客様です」
中央奥、ふかふかなバイオレットのソファーに座る一人の少女は俺を視界に入れると、険しい表情を柔らかな笑みへ変えた。
闇夜を照らす満月の目が男の子に向けられ、彼は落ち着いた様子で再び一礼して去っていった。
「正門から入るなんて珍しいですね」
「メッティス。俺は変わることにしたんだよ」
「今は誰も居ませんよ。メッティスのような偽名ではなく、クロヤと呼んでくださいな」
「今日はストロンゲストとして来た」
──マザーメッティスは妖しく笑った。指を鳴らすと部屋の明かりが紫へと変わる。
和気藹々さは過去へ。これから仕事の話だ。
「任せていた仕事は順調ですか?」
「いつもの場所に置いてある」
「いえ、苦労したか聞いています」
「話が早いな。俺が話したいことをまるで分かっているみたいじゃないか」
「私はこの世でたった一人しかいないあなたの最高のビジネスパートナーなんです。もっと頼って頂かなくては」
彼女は透明ながら細かく装飾されたテーブルの上にある空のワイングラスを取り、グラスの脚をくるくると回す。
テーブルを囲んで縦の前と後ろで二つ、横の左右で四つのソファーの内、出入り口に近い隅に座って彼女と向き合う。
「使えない子供を使いたい」
「それであなたの仕事が務まると?」
「ここで使用人として雇うにも限界があるだろう。まして、幼い子供に用心棒は酷だ」
「もしもあなたに預けるとして、私の切り札はどうするつもりなんです?」
「調達する」
「……国でも作りますか?」
「作れと言われれば」
彼女は立ち上がり、静かに俺の隣に腰掛ける。
「泥棒の仕事はしばらく無くて大丈夫です。その代わり、あなたにぴったりなものを拾って来ました」
「聞こう」
「フォリスリ教会……聞き覚えがあるでしょう。無垢で無知な子供を集め、お国の援助で成り立っている綺麗な組織。他所様の評判は上々、軍の士気もあれのおかげで鰻登りと噂されています」
ほぼ嘘は付かない女だ。そして、理屈側でもある。
「ストロンゲスト。あなたにはフォリスリ教会を潰して来て欲しいんです。あれは私にとって邪魔であると同時、あってはならないものでもあります。故に──断罪を」
ワイングラスを差し出す。それを受け取れば引き受けるということだろうが、それで何をすれば良いのかと察すると身の毛がよだつ。
彼女の考えていることは理解できる。加えてその想いも伝わる。言葉は単なる飾りに過ぎない。
グラスを受け取り天井を眺めた。そこには何も無いが、無いからこそ自分の中身を見ることができるものだ。気持ちの整理がしたかった。
「……さ、仕事の話はこれでおしまいです。食事にしましょう」
「俺は大丈夫だ」
「それではいけません。働いてみんなの役に立ったならば、みんなが納得するような報酬を受け取って安心させる。個人のわがままは無くなっていくものです」
……クロヤは立ち上がると、部屋の隅の黒い机の上にある呼び鈴を振った。
すると扉が開かれ、俺達よりも二歳年上の若い少女が入った。
「お呼びでしょうか」
「セリカさん、食事を運んでください。私がお話ししていた通り、五人分でお願いします」
「すぐにご用意します」
返事のすぐ後に淡々と調理室へ向かっていく。
物事の手際の良さに、俺は呆れてしまう。
「俺の頭の中の何もかもが見えているのか?」
「さてね。毎日作っているかも知れませんよ」
「残りの三人分はどう説明する」
「案外、センナノくんが言い出す前に私が押し付けようとしていたんでしょうね」
「不安を一つ消してやろうか。俺はお前を嫌いにはならない」
彼女はフッと笑い、優雅に部屋を出て行った。
久しぶりの風のない空間に取り残された俺は、単純な興味から指を鳴らした。すると部屋の明かりは紫から橙色に変わる。
誰にでもできる芸当ではない。そして、そんな適当なことで変化する仕組みでもない。
彼女の俺に対する想いは暖かなものだ。何故、俺のためにここまで優しくするのかは見当もつかないが、そこに悪意があるはずもない。
ガラじゃないのだ、悪なんて。
帰りは早かった。クロヤは三人の子供を連れて来た。
身なりがマシで、他の子供よりも肌がまだ荒れていない姿勢の良い男。
入浴したところでゴミ漁りしていたであろう手に生傷が無数にある落ち着きのない男。
最後の一人は、その落ち着きのない男の後ろに隠れ、猿のぬいぐるみを抱きしめながら怯えた目で俺を見る女の子。
なるほど、使えないにも種類があるか。
「さぁ座って。食事にしましょう」
クロヤは女の子の肩を優しく押してソファに座らせると他の男も続いた。
クロヤと言えば、この館の長のくせに何故か俺の隣に座る。中央奥に腰掛ける方がらしさはあるだろうに。
「あ、あの、こんなにうまい話があっていいのかなって。お、おれはまだなにも働いてないのに、食べていいのかなって」
落ち着きのない男が勇気を出した。クロヤは一度口を開きかけるも、横目で俺を見て微笑むのみだ。
こいつらは俺が育てるのだ。俺ではなく、全てをクロヤに丸投げしていては信頼もなにもない。
「実績や成果は問わない。行動を起こす意思があれば、俺達はお前達を助けよう」
「そ、それって、もしかして悪いことなんじゃ……」
「だったら悪くない方法で行動しようとすればいい。重要なのは意思だ」
すると姿勢の良い男の方が立ち上がった。
「『ヤカの団』のマザーメッティス。荒くれ者を集め、善良市民である児童誘拐、拉致監禁を繰り返す極悪犯罪集団。しかし、その実態は児童を中心とした慈善団体……とでも言うのか?」
「国が正義ならば私は悪と? では私は悪となりましょう」
「貴様は大きな秩序の中でちっぽけな癌でしかない! 貴様の作る道に他の者達の未来はあるのか!?」
「天上の天使も地底の餓鬼も正義と悪どちらかに振り切らなければ救うことはできません。悪も人、人である者は救うべき対象なんです。簡単に癌などと例えていい相手ではありません」
「子は国の未来だ! 独善で国の未来を奪う気か!?」
「勝つことにしか頭にない連中に贖罪を完遂する機会が訪れると、信じろと? 勝つために理性を捨てた連中に再び理性が宿ると? これは人と国の戦いです。そのどちらでもないあなたに何が言えますか。叫びたければすぐに私の座にあなたが座りなさい」
「僕は……! ぐっ……」
彼の言葉は続かなかった。
どこの出生でどんな生活をし、何を目指しているのかは知らない。しかし拾われた身でようやく繋げた命が、すぐに人々を導く指導者になれるはずがないのだ。
クロヤはトップの立場に苦痛を感じていた。だから俺以外にも対等な存在を求めて食事会を開こうとしたのだ。だがそれは早くも潰える。澄ました顔をしていようが内心は責任の重さにうんざりしているだろう。
俺はクロヤにとってのもう一つの口だ。彼女が言えないことは俺が言う。
「難しい話は終わりだな。俺はお前達の面倒を見る上司、名はセンナノ。自己紹介といこうか」
話題作りに一番乗りで混ざったのは、やはり落ち着きのない男だ。
「お、おれヌイって言います! さっきの奴はローウェで、こいつはヘルって名前です!」
ヌイの紹介でヘルという女の子にしせんを向けると、ビクついてヌイの後ろに隠れた。
「随分嫌われたな」
「いえ! きっとセンナノさんに会えたのが嬉しくて照れてるんです!」
「これでか?」
「は、はい! 失語症っていうのみたいで喋らなくて、普段は魂が抜けたような感じなんですけど、怖いって感じは反応しなくて……ええと……」
「お前とその子はどんな関係なんだ?」
「……おれが町を歩いていたら、ちょっと裕福そうな家から血だらけの強盗が出て行ったのを見かけたんで、おこぼれを貰おうと漁ってたら暖炉の中の隅で見つけたんです」
威勢が良かった男の頬がピクリと動いた後、気にしていることを誤魔化すように座る。
「なるほど、だったらお前は何故自警団に渡さなかったんだ?」
「それは……これ以上悲しい想いをさせたくなかったから……とか」
「孤児院や親戚に引き取られるよりも今の方が良いということか?」
「そうです……」
幼いくせに、正義感だけは筋を通している。ヘルから頼られていることや腕の傷の数々が証拠だ。
ヌイは知っているのだ。国の面の下は腐敗していると。
これを聞いたクロヤの心情は穏やかではないはずだ。彼女は出来るのならこの境遇の子供全員を甘やかしたいと考えている。しかし、人はペットの器には大きすぎた。
「ヘル。席に着きなさい。無礼です」
クロヤの声が鋭く響く。彼女の声には力が宿っていた。
立派な屋敷、姫よりも艶やかな髪、人一人買えるくらいの上等なドレスに幼さのハンデをものともしない絶世の美貌。それの漂わす空気が彼女の存在を最大まで高めている。
言い表すならば『正当性』だ。
「──座りなさいッ!!」
怒声はすぐにヘルを動かした。ふるふると震えながら座り、ちらりと俺とクロヤを見ては下を向く。
これで成長出来るのかと育成者はいつも悩むものだ。高い理想を上回れば期待し、下回れば落胆する、そんな自分中心の考えは切り捨てようともガンのようにしつこく湧いて出る。だから義務として動くしかない。
これは感情を切り離した義務であり、別れである。
そこでようやく部屋に使用人のセリカが料理をのせてある台車を押して入って来た。セリカは気まずい空気をなんのその、黙々と各席に並べていく。
「これって、なんですか! なんか凄い!」
ヌイがその料理を見て大きく反応した。それにクロヤが返事をする。
「ただ野菜や肉を蒸したものです。良いものをわざわざ調味料で誤魔化す必要がありませんから」
「随分と贅沢なものだ。搾取は儲かるか?」
反抗的な少年ローウェはすぐに口に出る。それをマザーメッティスが返す。
「吹奏楽団の指揮者が木の枝で演奏して、どれほどの人が納得するのでしょうね」
「余裕があると言うのか!」
「ヤカの団は振る舞いで収益を得ている。人殺しの賊ではありません」
「そんなものは騙しだ!」
「なんと言われようともそれが私のやり方なのです」
いちいち構っていればキリがないというのに、クロヤは根気強く付き合う。それが期待の裏返しなのだろうが、進むはずのものが停滞することは避けたい。
ここは俺が強く言う必要がある。
「お前がこれから働く場所は民主主義だろうが資本主義だろうが通用しない国の外の世界だ。もう国民扱いは出来ない」
「喚くなと言いたいのか! こんな無法者の集まりの中で自分達さえ助かればいいと、より大きな国を潰す気か!」
「お前の意見は俺が受け取る。俺がお前の上司だからな。お前の想いを俺が伝えればマザーメッティスとやらも流石に聞き入れるだろうよ」
矢継ぎ早と出て来そうな胸の内をぐっと抑え、ローウェは拳に力を入れて黙る。
そうだ、それがいい。いつか自分が自分であれるように、今は成長することに専念するべきだ。
険悪な雰囲気の中、ヌイとヘルは夢中になって食べている。その精神の強さに呆れながら俺も手を付けた。
クロヤはそれら三人を見守りながら、小さめの声で俺に話しかける。
「構い過ぎず、無視し過ぎず、適切に接してくださいね」
「どうだかな。いつかは俺達から離れて行くんだ……他人ってのは、無駄な存在さ」
「理屈だけなら機械でもできます。けれど、私達は生きているではありませんか」
「どうだかな……」
「自信が無いんですね。それでも自分に誠実に向き合って来たならば、私でなくともきっと誰かが力になってくれますよ」
「俺に関してはその誰かすら見つけるのが奇跡みたいなものだと思う」
「奇跡は残り続けます。夢、幻を追い求めることに価値はあります」
「どうして断言できるんだ。お前は奇跡を見たことがあるのか」
「この残酷な世界に生まれてすぐ後に、私は奇跡と出会ったのです」
時の流れの傷とでも言おうか、滲み出る苦労が大人の風貌を醸し出す。……が、彼女は無邪気に笑い、澄んだ水の入ったグラスをこちらに向けた。
「人類の進化に乾杯です」
「……」
思い出すのはあの孤児院の奴隷、ラティシエシア。クロヤと同じ香りがした。
信念は違えど志の高さは一歩も譲らない。畑を一から作るか、腐った土壌を復活させるか、どちらにしても善意はある。頭ごなしに否定すべきではない。
しかし、今回の仕事はまさにラティシエシアの否定に繋がる。たかが数年生きただけの子供の戯言と言われれば受け入れざるを得ないが、では大人の言うことを聞いていれば良いのかというと、そもそも俺達を導く存在はいない訳だ。
人というのは、一人一人が同等の価値であるはずだ。クロヤだけ、ラティシエシアだけ、あるいは自分だけを特別扱いしようとしてしまう俺のこの感情はなんだ……?
何をしようにも押し掛かる責任の重圧に辟易とさせられながら、のろい手で盃を交わしたのだった。




