支度
夜明け前の庵は、ひどく静かだった。
煙が細く立ち上るも、囲炉裏の炭はほとんど落ちていた。残った熱が微かに息をしている。
梓は机に向かったまま、薬草の記録帳に筆を走らせていた。
濡れ具合、香り、摘む頃合い。干し、刻み、煮出す順。草が命を落とす前に決めねばならぬことが、いくつもある。
他の皆は夜中まで作業を共にしていたが、やがて一人、また一人と自室に戻っていった。
ふと窓に目をやると、夜明けが近いのか外が白み始め、風が木々を揺らす音が聞こえる。
「もう、朝か」
徹夜だった。
もし草が足りなければ、もし薬が足りなければ。――そう考える度、瞼は重くならず、眠気がやってくる気配などなかった。梓にとって、夜を越すことは珍しくない。
薬研の音が奥の部屋からゴリゴリと鳴り始める。朝早くから、ババが庵に蓄えていた薬草を砕いていた。
炭と草の匂いが混じり、不思議と胸の奥が落ち着く。
戸口が軋み、寝ぼけ眼の火緒が入ってきた。
「……おはようさん。まさか、寝てへんとか言わへんよな?」
皮肉たっぷりに、ぼりぼりと腹を掻きながら朝っぱらから絡んでくる。
梓は口をきくこともなく、返事の代わりに、書き終えた紙をひらりと振った。
ふわぁと大きな欠伸をしながら火弦も入ってくる。
徹夜明けの梓に茶々を入れた二人は、「……ようやるわ」と呆れたように言い放ち、井戸へと向かった。
――しばらくして、戸口がガタガタと軋み、今度は膳を片手に刹が現れた。
土間から囲炉裏端に上がるも、梓の姿は見当たらない。
「梓ー、起きたか?」
刹が声をかけると、庵の奥からゆらりと影が現れた。
「刹、おはよ……。なんか、結局気がついたら朝だったよ……」
「また、寝てねぇのか」
目の下には真っ黒な隈を作り、ふらふらと力なく歩いてくる。
刹が「はぁ」とため息をつき、限界が来た梓は板の間に突っ伏した。
「薬草は俺たちで採ってくる。お前は休んどけ。今のお前が来ても逆に足手まといだし、寝ないと頭も働かんからな」
「でも、僕が行かないと――」
がばっと体を起こし、言うことを聞きそうにない梓の口を手で塞ぐと、無理やり板の間に体を押し付ける。
梓は観念したのか、再び板の間にごろんと突っ伏した。
「……わかった。頼むよ」
梓は寝転がったまま気のない返事をし、力尽きる。
すーすーと寝息を立てる梓を見た後、刹は音を立てないよう静かに庵を後にした。
山は夏だというのに冷え、草の生え方も乏しい。
刹を先頭に、朔、火緒、火弦の四人は、大きな籠を背負って少し離れた山まで来た。
「これ、薬草なんか?」
「それはちゃうわ。触ったあかんで。手ぇが荒れてまうやつや。似とるから間違いやすいみたいやな」
「あぶなっ!」
火弦が梓の書付を見ながら言うと、火緒が慌てて手を引っ込めた。
皆が散り散りに草を摘み、籠がなんとか埋まり始めた頃、岩場で一息つく。
火緒が、梓の書いた書付を見ながら唸る。
「んー。なぁ?薬草って、どこでも同じやないんやろ?別の土地とか行ったら、もうちょいようさん薬草もあるんとちゃうん?」
刹が火緒の言葉に小石を四つ取り、国に見立てて配置する。
「そうだな。お前にしては、よく気が付いた。この国は四つに分かれている。で、俺らが今いるのはここ」
「お前にしては、は余計とちゃう!?」
不貞腐れる火緒を他所に、刹は四つの内の下の小石、南に位置する場所を指さした。
「常葉だ。で、今回の戦は、北の赤坂と東の白岩が戦り合うらしい」
刹は、上に配置した小石と、右に配置した小石をぶつけあった。
「で、たくさん薬草が取れるのはこの白岩。赤坂は赤土ばかりで育ちが悪い。西は青陽の港町。南蛮のめずらしい薬草は高くつくからな。論外だな」
刹は左側にあった小石をどかせ、その石を朔が拾う。
(南蛮かぁ。行ってみたいなぁ。僕も玄瑞のように、あちこち旅してみたいなぁ。そしたら……あの人にも会えるかな)
朔は未だ帰らない玄瑞を思い、小石をぎゅっと握りしめ、小さく息を吐いた。
その様子を見た刹は気を察したのか、籠を背負い立ち上がると、山の麓に見える川の方を指さした。
「お前ら、帰りに魚取って帰らねぇか?」
「魚っ!取りに行くーっ!」
「晩飯にはええなぁ」
「僕も魚食べたいっ!」
乗り気の皆に、刹が一言付け加える。
「ただ、寄り道すっから怒られるの覚悟な」
(こうして呑気にしてられるのも、今しかねぇからな)
薬草を一つの籠にまとめると、四人は山を下り川に潜る。空いた籠の中に魚がたんまり取れ、薬草よりもたくさんの土産を手に帰路についた。
庵に戻ると、案の定、梓とババがイライラした様子で待ち構えていた。
「どこをほっつき歩いておったんじゃ!薬草がダメにならぬうちにやってしまわねばならぬというに!」
「はぁ。やっぱり僕が付いてないと、すぐこれなんだから……」
二人の小言は後回しにして、時間が惜しいとすぐに作業に入った。
梓とババは手際よく摘んできた薬草を干し、刻む物と、煮る物とに分けた。
刹達は、夕飯の支度のため魚を捌き内臓を取り除くと、枝に差して囲炉裏の周りに立てて焼く。
残りの魚は、笹に通し干物にする。
その合間にも、休む間もなく庵の中からは薬研の音が響いた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
梓とババが向かい合い、朝からババが薬草を砕いていた続きを始める。
炭と薬草の匂いが混じって、庵の空気が少し苦い。
「……寝不足でも手は止まらんか」
ババも手を止めることなく、少し笑う。
「寝たら、草も手も腐りますから」
梓の返しに、ババが目を軽く閉じた。
「お主もよう似とるわ、あの頃のワシに」
「師匠も寝ずに薬を?」
「そうさのう。遠い昔の話じゃ」
ババは懐かしむ様に、言葉を噛み締めた。
夜が更けても、庵の中はまだ灯が消えることはなかった。
ババが薬研を転がしながら言う。
「梓。今、何の薬を作っておるのか分かるか?」
「はい。おそらく……金創膏かと」
ババは、「よろしい」と言うように頷く。
「此度の調合、何の為にしておるかわかるか?」
「はい。薬を売りながら戦の予兆の確認と、規模と場所を知るためです」
「そうじゃ。薬を作り細々と生きることもできる。じゃが、ワシらは戦から離れられんのじゃ。戦忍びとして城に仕えていた頃から、戦に関わる生き方しかできん。すまぬの」
その一言で、庵の中に重みが満ちる。
誰一人口を開かず、黙って作業に徹した。
ゴリ、ゴリ……ゴリ――。
薬研を擦る音に間隔が開き、次第に小さくなっていく。
朔が最初に舟を漕いだ。
火緒が笑いながら薄掛けをかけてやる。
次に火弦が欠伸を噛み殺しながら、壁に背を預けた。
「目ぇ閉じたら終わりやで……」と呟きつつ、すぐに火緒の寝息が重なった。
庵の灯だけがゆらゆらと残っている。
梓の手の動きも、ゆっくりになっていった。
隣で刹が練られた薬をすくい上げ、様子を確かめる。
「もう寝ろ。あとは俺と、ばあさんでやる」
「うん。でも……あと少しだけ」
言葉が、睡魔に溶けていった。
刹が肩を支えると、梓はそのまま小さく身を預けた。
その後しばらくして、刹にも眠気が襲い、梓に寄りかかるように眠りにつく。
外の虫の声と混じって穏やかな寝息の中、囲炉裏の火がじわりと沈む。
灯りの中でひとり残ったババが、薬を詰める手を止めない。
練り上げられた薬は合わせ貝の中に入れられ、鮮やかな緑を出していた。
「薬作りは鮮度が命。情報も鮮度が命」
独り言のように繰り返し呟きながら、指先を動かし続けた。




