出立
夜が明けきる前、庵の外にはすでに人の気配があった。
杖を土に突き立て、その上で静かに立つ老女の影。
目を閉じ、吐く息が長く伸び、静けさが周りを満たしていく。
風が竹を鳴らし、森がわずかにざわめく。
庵の一日は、いつもこの無言の呼吸から始まる。
刹は目を覚ました。
寝返りをうつ梓が、薄掛けの端を握ったまま小さく息をつく。相変わらず寝相が悪いようで、壁際まで転がっている。
まだ夜気が残る薄暗い部屋で、刹は黙って静かに布団をたたみ、衣を整えた。
土間の台所に寄り、湯呑みに塩をひとつまみ入れたものと、竹を割いたもの、灰を持ち出す。
外の井戸で顔を洗うと、冷たい水が肌に刺し、眠気が一気に吹き飛ぶ。
湯呑みに水を入れ塩を溶かし、口を濯いで息を整えた。
竹を割いたものに灰をつけ、歯を磨く。
口をきれいに濯いだ後、空いた湯のみで水を飲んだ。
朝の支度をしていると、庵から玄瑞が出てきた。いつもと服装が違い、荷物も旅に出るようなもので、手には笠、草鞋はしっかりとしたものだった。
「行くのか?」
「ああ」
玄瑞とババは静かに短く交わす。
玄瑞の目がふと井戸端にいる刹に留まり、足取り軽く近寄ってきた。
「刹、早いな」
「玄瑞。また、旅に出るのか?」
玄瑞の言葉に返事をすることも無く、刹が問うと、玄瑞は少し考えるふりをしながら応える。
「ああ。朔も落ち着いたし。そろそろフラッと一人旅がしたくなってな……」
玄瑞が遠くの朝焼けを見ながら、刹に告げると、刹は少し寂しそうに視線を落とした。
「昨日の今日だぞ?朔だってまだ、ちゃんと漁りに出られるかもわからねぇのに」
刹の沈む声が言い終わるか終わらないかのうちに、玄瑞は刹の首に腕を回し、頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「そんな寂しそうな顔すんなって!すぐ帰って来てやるよ!」
いつもの悪ふざけなのに、反応がない。
玄瑞は手を止め、刹を自分の前に立たせると両肩に手をやり、刹の目を見た。
「刹。今、ここではお前が頼りだ。しっかり、下の者の事頼むぞ。お前なら大丈夫だ」
「俺は別にしっかりなんてしてねぇよ。それに次、いつ帰ってくるんだよ。前は1年は帰ってこなかったじゃねぇか!」
刹は視線を逸らし、不貞腐れながら、首にかけた手ぬぐいをぎゅっと握りしめる。
「次は必ず夏までには帰る。だから、それまでしっかり……な?」
「年が明けたばかりなのに、もう夏の話かよ。長ぇよ。朔になんて言えばいいんだ」
刹は、目に薄らと涙を浮かべるが、歯を食いしばり堪えた。
「ちゃんと……生きて帰ってこいよ」
「ああ。約束だ」
玄瑞は刹の肩をぐっと抱きしめ、「頼む」と言うようにポンと軽く叩いた。
山の稜線から朝日が差し込み始める頃、玄瑞は刹に見送られ、庵から旅立って行った。
(普段喧嘩し合っておっても、いざ離れるとなると寂しいものよ。玄瑞、達者でな。無事に帰ってこい)
去りゆく玄瑞の背中が見えなくなるまで、ババも静かに見送った。
玄瑞の静かな旅立ちとは裏腹に、双子の部屋から喚く声が聞こえる。
「まだねむいー!起きたないっ!」
「はよ起きろや!朝の仕事があんで!」
火緒と火弦の声が、庵中に響きわたる。
皆、目覚まし代わりに、嫌でもこの声で起こされてしまう。
毎朝の事ではあるが、先程の静かな別れの余韻を壊され、刹はイライラして怒鳴った。
「お前らーッ!毎朝うるせぇぞっ!」
その声に刹の怒りを察したのか、ピタリと双子の声が止んだ。
梓も双子のやり取りに目を覚まし、寝ぼけ眼を擦りながら井戸に来た。
「……おはよ。刹」
「おはよう。お前、昨日の夜も遅かっただろ?もう少し寝ててもいいんだぞ?」
梓の目の下の黒さが、寝不足を物語る。
「ん……。寝不足は自分のせい……だから……だい……じょ……」
「おっと」
寝ていきそうな梓を、刹が支える。
刹の顔が間近に迫り、目元が少しだけ赤らんでるのがわかった。
「刹、……なんかあった?」
梓は刹の小さな違和感に気付き尋ねるも、火緒と火弦が大声で騒ぎながら井戸端にやって来る声に遮られた。
「梓が許されるんやったら、俺ももうちょっと寝かさしてぇや!ねーむーいーっ!」
刹と梓のやり取りを見た火緒が、癇癪を起しながら井戸に向かって歩いてくる。
その後ろで目をこすりながら、朔がとぼとぼと歩いてきた。
「お前ら。よく毎朝毎朝、同じこと繰り返せるよな。もう少し落ち着いたらどうなんだ?本当に元服したのか?」
刹が火緒と火弦に、朝から説教をし始める。
火緒は大欠伸をしながら、刹の話など耳に入っていない様子だった。
火弦は、「なんで俺まで……うるさいの火緒だけやん」と、巻き添えを食った事にねちこく小声で文句を言っていた。
朔は、辺りをキョロキョロと見回し、誰かを探していた。
「朔、どうした?」
刹がその様子に気づき話しかけると、朔はさっきまでの眠気が消えたかのように、しょんぼりとした表情を浮かべる。
「刹、玄瑞知らない?昨日の夜から、部屋に帰ってこないんだ」
朔のその言葉に、刹は正直に言うか言うまいか迷った。
朔に別れも告げずに旅に出た玄瑞の事を、どう思うだろうか。だが、嘘は付けない。隠したってすぐにばれてしまう。ここは正直に言おうと思った。
「朔。玄瑞は旅に出た。また、いつものやつだ。今回は直ぐに帰ってくると約束した。それまでは、一人部屋だが、辛抱してくれ」
「え……。そうなんだ。なんで何も言わずに出て行ったんだろう。まだ、教わりたいことたくさんあったし、それに……僕、このまま漁りに出てもいいのかな……。それとも、見切りつけられたのかな……」
「そんなことあるわけねぇだろ。玄瑞は、朔を認めたからこそ、安心して出て行ったんだ」
肩を落とす朔に、刹はそれ以上何も言えず、肩に手を添えてやるのが精一杯だった。
朔は仕方なく顔を洗い、とぼとぼと自室へと帰っていった。
「刹、玄瑞また旅に……」
梓も少し寂しそうに刹に尋ねたが、刹は何も答えなかった。
玄瑞はなぜ、同室で一番傍にいた朔に何も告げずに旅に出たのかと、胸の辺りが変にグッと押さえつけられた気分になった。
刹は、何も言わずスタスタと大棟へ帰って言った。
「玄瑞、出ていったんか?」
「いや、ちゃうて。旅に出たんやと。いつもフラッと出ていっては、フラッと帰ってくるあれや」
火緒と火弦がコソコソと話す中、梓は刹の背中をじっと見つめていた。
朝の身支度を終え、一同が大棟に戻ると、囲炉裏の上には湯気が立っていた。
囲炉裏の傍には既にババが座り、白湯を啜っていた。
土間の台所では、刹が朝飯の支度をしている。
「刹ー!腹減った!飯まだぁ?」
「刹が作る朝飯は、格別やからな。朝は刹が作るからええけど、夜はあかんな。特に梓のは……」
火緒と火弦が漬物の小皿を配膳しながら、飯の催促をすると、火弦の言葉に刹を手伝っていた梓が軽く睨みを利かせる。
「僕のは薬膳料理だから、体にはいいんだ」
味噌と炊き米の匂いが混じり合い、腹の虫が騒ぐ。
皆が囲炉裏を囲むように座に着くと、ババが手を合わせた。
「命をいただく前に、我がの命を取り入れる。息を合わせ、祈るのじゃ」
全員が静かに呼吸を整え、手を合わせ声を揃える。
『いただきます!』
皆が一斉に飯にありつく。
火緒と火弦は食事にがっつきながら食べる。
刹と梓はゆっくり丁寧に、ひと口ずつ噛み締めるようにして食す。
朔はやはり元気がなく、静かにゆっくりと飯を口に運んだ。時々ため息を混じらせながらも、少しずつ何とか食す。
「朔、元気を出すのじゃ。ここでやることをやっていれば、すぐに玄瑞も帰ってくる」
「うん」
ババの言葉に、少し安心したのか、残りの飯を一気にかきこんだ。
その様子を見ていた刹は、胸を撫でおろす。
「そうやで?朔。うちの師匠らも、戦に行ったまま、まだ帰ってけぇへんし!」
「俺らの元服見てから出たから……。あれから、ひと月やなぁ。あっという間や。はよ帰ってきて、稽古つけてほしいわ」
火緒と火弦は、口の周りに米粒をつけながら、朔に言う。
刹は双子の騒がしさに「やれやれ」と思いながら、飯を口に運ぶ。
(玄瑞。俺もまだまだ教わりてぇことがたくさんあるんだ。早く、事を済ませ帰ってこい)
刹は、今朝旅立ったばかりの玄瑞に思いを馳せた。




