ひとつになろうよ
雨が降っていた。
湿気を吸ったワイシャツが肌に張り付く。
駅から会社までの、たった十分の道のりが永遠に感じられた。
梅雨時の東京の空は、鉛色にくすんで、俺の冴えない毎日をそのまま映しているようだった。
24歳。世間ではそろそろ若手としてバリバリ働く頃だというのに、俺、佐藤健太は相変わらず会社の隅で息を潜めていた。
目立つのが苦手で、誰かに意見を求められると途端に口ごもる。
学生時代からずっとそうだ。
高校、大学と、ただ時間をやり過ごしてきた結果が、この満員電車に揺られ、定時を待ち侘びるだけの、意味不明な日々だった。
そう、いつも雨の日は憂鬱だった。
あの日のことを思い出すまでは。
中学二年の夏だった。
ザーザーと降る雨音にかき消されそうな声が、耳元で聞こえた。
傘もささずに、俺の隣を歩く彼女――星野美咲は、顔に水滴を浴びながらも、まるで雨粒と戯れるかのように笑っていた。
美咲は、いつもクラスの中心にいるような明るい女の子だった。
生徒会にも所属していて、運動神経も抜群。
男子からの人気も高く、いつも誰かと楽しそうに話している。
そんな彼女が、なぜかよく俺に声をかけてくれた。
目立つ方ではなかった俺にとって、彼女と過ごす時間は、くすんだ毎日に彩りを与えてくれる、特別なものだった。
「健太くん、雨、嫌いなの?」
「うん。なんか、じめじめして気分が上がらない」
「もったいないなー。雨の日って、特別な日なんだよ」
特別な日? 全く意味が分からなかった。
水たまりをわざと跳ねて、スニーカーを泥だらけにしながら、美咲は続けた。
「だって、雨が降ると、みんな一つになれるんだよ」
その言葉に、俺は思わず立ち止まった。
傘の下から、不思議そうに彼女を見つめる。
美咲は、空を見上げ、両手を広げた。
「あのね、雨粒って、空から降ってくる時はバラバラだけど、地面に落ちると一つになるでしょ? 水たまりも、川も、海も、最後は全部繋がって、大きな一つになるんだよ。私たちも、いつかみんな、一つになれたらいいのにね!」
屈託のない笑顔でそう語る美咲は、まるで雨の妖精のようだった。
彼女がそう言うなら、雨も悪くないのかもしれない。
その日以来、雨の日は美咲との秘密の合言葉のような、少しだけ嬉しい日へと変わっていった。
それなのに、なぜ。
なぜ、君は「一つ」になれなかったんだ。
あの日の美咲の笑顔が脳裏をよぎり、俺はギュッと目を閉じた。
傘の雫がアスファルトを叩く音だけが、やけに大きく響いていた。
美咲が死んだことを知ったのは、四年前の成人式の時だ。
俺は誰に会うでもなく、ただ形式的に式典に参加し、同窓会にも行かずに帰ろうとしていた。
その帰り道、中学時代のサッカー部で一緒だった田中と偶然会った。
田中は昔からのお調子者で、俺とは対照的に社交的だった。
「おお、健太じゃん! 久しぶりだな!」
田中は、はしゃいだ様子で俺の肩を叩いた。
とりとめのない会話の中で、ふと美咲の話題になった。
中学時代のグループLINEで、成人式の話になった時に彼女の名前が出なかったのが気になっていたのだ。
「そういえばさ、星野さんって来なかったな。どうしてるんだろ?」
俺の問いに、田中の顔からさっと笑顔が消えた。
その沈黙が、嫌な予感を運んできた。
「……健太、知らなかったのか? 星野、高校の時に……」
田中は言葉を選びながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
美咲が、高校二年のある雨の日に、学校の屋上から飛び降りたという。
事故ではなく、自らの意思で。
頭が真っ白になった。
あの、いつも明るくて、「みんな一つになろう」が口癖だった美咲が?
俺の雨の日の憂鬱を、優しい思い出に変えてくれた美咲が?
「……どうして」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。
田中も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、俯いて、「残念だったな」とだけ呟いた。
「一つにまとまることは、できないではないか」
心の中で、美咲の言葉がこだました。
君は、一つになることを願っていたはずなのに、なぜ、一人で逝ってしまったんだ。
その問いは、答えのないまま、ずっと俺の心に重くのしかかっていた。
そんな鬱屈した日々の中、スマホに通知が届いたのは、数週間前のことだ。
開いてみると、中学時代のクラスのグループLINEだった。
滅多に動かないそのグループで、友人の一人、高橋がメッセージを送っていた。
「みんな、久しぶり! 俺、小さいけどカフェ開いたから、良かったら遊びに来てくれー!」
高橋は中学時代、俺と同じくらい目立たない存在だった。
むしろ、俺より地味だったかもしれない。
そんな奴が、自分の店を持っている。
正直、驚きと同時に、言いようのない複雑な感情が胸の奥で渦巻いた。
(すごいな、高橋。俺なんか、相変わらず会社の歯車なのに……)
祝福の言葉を送る一方で、心のどこかでは、ちくりと針で刺されたような痛みがあった。
行かなくてもいい。
そう思ったけれど、何かに引き寄せられるように、俺は返信していた。
「おめでとう! 近いうちに行くよ」
週末の午後、俺は高橋のカフェを訪れた。
渋谷の喧騒から少し外れた路地裏に、ひっそりと佇む小さな店だった。
真新しい木製の看板には、シンプルな字体で「café Lumière」と書かれている。
中に入ると、心地よいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
店内はこぢんまりとしているが、手作りの温かみが感じられる洒落た空間だ。
窓からは柔らかな日差しが差し込み、観葉植物が生き生きと育っている。
「健太! よく来てくれたな!」
奥から現れた高橋は、少し肉付きが良くなったが、中学の頃と変わらない朴訥とした笑顔を浮かべていた。
白いエプロン姿が妙に板についている。
「高橋、おめでとう。すごいな、自分の店を持つなんて」
素直な賞賛の言葉が出た。
同時に、ここではないどこかへ行きたい、でも何も行動できない自分への嫌悪感が胸に広がる。
高橋は照れくさそうに笑い、カウンター席へと俺を促した。
淹れたてのブレンドコーヒーは、苦味の中にほんのり甘みが広がり、その美味さに驚いた。
会話は弾んだ。中学時代の懐かしい話、最近の仕事のこと。
高橋は、店の準備が大変だったこと、でも夢が叶って嬉しいと、生き生きと語った。
その充実した表情を見ていると、俺の心はますますざわついた。
(俺も、何か……できるのかな)
店を出た後も、その感情は尾を引いた。
祝福すべきことなのに、なぜか胸の奥がチクチク痛む。
俺は何をやっているんだろう。
ふと、雨の日の美咲の笑顔が脳裏をかすめた。
それから数日後。
俺は地元の駅前で、中学時代の友人たちと飲んでいた。
声をかけてくれたのは、クラスの人気者だった野球部のエース、吉田だ。
他に、明るくてムードメーカーだった山本もいた。
久しぶりに会う彼らは、皆それなりに大人になっていたが、話せばすぐに中学の頃のノリに戻った。
ビールを片手に、たわいのない話で盛り上がっていた時、吉田がふと真顔になった。
「そういやさ、最近、ちょっと変なこと起きてる奴、いないか?」
山本がビールジョッキを置いて、身を乗り出す。
「え、お前もかよ! 実は俺もなんだよ。この前、深夜にスマホいじってたら、いきなり画面がフリーズして、ブツブツって、ノイズ混じりで変な声が聞こえてきたんだよな。誰かに呼ばれてるような……」
山本の言葉に、吉田が顔色を変えた。
「マジかよ! 俺も似たようなことあったんだよ。この前、家で一人でいた時、誰もいないはずなのに、玄関のチャイムが何度も鳴ってさ。ドアスコープ覗いても誰もいなくて。んで、気味が悪いからそのままにしてたら、壁の向こうから、たくさんの声が、混じり合うように聞こえてきたんだよ……何か、言ってるのはわかるんだけど、ぜんぜん聞き取れなくて……。でも、なぜか『一緒になろう』って、ずっと言われているような気がして……」
俺は、耳を疑った。
「一緒になろう」
それは、美咲の口癖だった
「みんなひとつになろう」を、
どこか不気味に、形を変えて模しているようだった。
なんで、今、その言葉が……。
グラスを持つ手が、小刻みに震えだした。
二人は俺の様子に気づかず、互いの体験を語り合っていた。
彼らの顔には、明らかに恐怖の色が浮かんでいた。
酒も入っていたせいか、俺はひどく動揺していた。
美咲の死、そして「ひとつになろう」という言葉。
それは、俺の心の奥底に沈んでいた、ずっと見て見ぬふりをしてきた何かを揺り起こすようだった。
終電の時間も過ぎ、店も変えて散々飲んで食った後、「俺、今日は車なんだ」という別の友人、斉藤が「送ってってやるよ」と気前よく言ってくれた。
飲めないくせによく酔っ払いの中にいたものだ。
三人で斉藤の車に乗り込んだ。
夜の幹線道路は、昼間とは違い、不気味なほど静かだった。
車内は、街灯の少ない道を走っているせいか、元々薄暗い。
車内では、先ほどの「変な出来事」の話が蒸し返されていた。
「でもさ、あれって結局、なんだったんだろうな?」
山本が不安そうに呟く。
「まさか、心霊現象とか……?」
吉田が冗談めかして言った、その時だ。
突然、カーラジオから、けたたましいノイズが響き渡った。
闇の中で、斉藤がハンドルを握る手が激しく震えているのが見えた。
「おい、どうしたんだよ、これ!」
山本の悲鳴のような声。
ノイズの合間から、さっき山本が言っていたような、幾重にも重なった、意味不明なざわめきが聞こえ始めた。
それはまるで、たくさんの人間が同時に、それでいて一体となって囁いているような、耳障りな音だった。
「ひ……」
俺の口から、無意識に音が漏れた。
ひどい悪寒が、背筋を駆け上がる。
車は、先ほどから妙に道が暗い場所を選んで進んでいる気がした。
道行く建物や街灯が途切れ、街の灯りさえも遠ざかっていく。
窓の外に広がるのは、見慣れない暗い住宅街。
まるで、どこかから見られているような、じっとりとした視線を感じる。
水たまりに反射する街灯の光が、歪んで、いくつもの目に見えてくる錯覚に陥った。
「っ、て……、な……ろ……」
ノイズの合間から、かろうじて聞き取れた言葉に、心臓が跳ね上がった。
それは、確かに美咲の口癖だった言葉に、酷似していた。
車内が完全な闇に包まれ、何も見えない。
斉藤が急ブレーキを踏み、車は大きく揺れて、ぴたりと止まった。
静寂が降りてくる。
その瞬間、ゴツン、ゴツンと、車体が左右に激しく揺らされた。
まるで、外から内からも何かが、大きな力で車を押しているかのようだ。
「うわあああああ!!」
山本の叫び声が車内に響き渡る。
そして、バン!バン!バン!と、まるで誰かが全力で叩いているかのように、窓ガラスが激しく叩かれる音がした。
恐怖がピークに達し、呼吸がままならない。
闇の中で、何かが、すぐ外にいる。
「おい、健太……お前、何か、後悔してること、ないのか……?」
不意に、吉田の低い声が聞こえた。
その声は、いつもと違い、やけに重く響いた。
後悔?
俺は、心の中で自問自答した。
美咲のことだ。
あの時、もっと何かできたんじゃないか。
もっと、彼女の気持ちに寄り添ってやれたんじゃないか。
彼女が苦しんでいることに、なぜ気づいてやれなかったんだろう。
「美咲……っ! 美咲ィィィイイイッ!!」
込み上げてくる感情に耐えられず、俺は泣きながら叫んだ。
喉が張り裂けそうだった。
その瞬間、車内の明かりがパッと点いた。
ラジオのノイズも消え、静寂が訪れる。
山本と吉田の顔が、ニヤニヤと笑っているのが見えた。
「よっしゃー! 大成功!健太、マジでいいリアクションだったな!」
吉田がガッツポーズをする。
「まじビビりすぎだろ! 大丈夫かよ、健太?」
山本が笑いながら俺の肩を叩く。
ああ、そうか。ドッキリだったのか。
そう理解した途端、全身から力が抜けた。
安堵と同時に、言いようのない空虚感が襲ってきた。
彼らは、俺の顔を見て大笑いしている。
ドッキリは大成功、らしい。
でも、俺の心は全く晴れなかった。
「……あの、ノイズの声……」
震える声で、俺は尋ねた。
「え? ノイズ? ああ、あれはアプリで出しただけだよ。変な声なんか聞こえなかっただろ?」
山本が訝しげに答える。
「そうだよ、健太。怖がりすぎだろ、そんなのなかったって」
吉田も笑いながら言う。
なかった? そんなはずはない。
確かに、俺は聞いた。
あの混じり合う声を。
そして、確かに、
「ひとつ……に……なろう……よ……」
という言葉を。
二人が笑い続ける中、俺は静かに車の窓の外を見た。
夜の闇が広がる向こうから、まるで本当に誰かの視線を感じるような、ぞっとする感覚に囚われていた。
家に着き、斉藤に別れを告げた後も、体の震えは止まらなかった。
酒のせいだ、怖がりすぎただけだ、と自分に言い聞かせても、あの暗闇の中で聞いた「声」が、耳の奥にこびりついて離れない。
シャワーを浴びてベッドに潜り込んでも、眠気は全く訪れなかった。
天井を見つめていると、不意に、部屋の隅から微かなざわめきが聞こえてきた気がした。
それは、複数の声が混じり合っているような、しかし明確な言葉にはならない、奇妙な音だった。
(まさか……気のせいだ)
必死にそう思おうとしたが、ざわめきは徐々に大きくなっていった。
まるで、壁の向こうから、床下から、あるいは天井から、無数の声が這い上がってくるかのようだ。
その声は、耳障りなのに、なぜか甘く、誘うように聞こえた。
そして、そのざわめきの中から、はっきりと、しかし震えるような声が聞こえた。
「ひとり……は、いや……」
その声は、ひどく悲しそうで、そして、まるで美咲の声に、どこか似ているような気がした。
俺は飛び起き、電気をつけた。
部屋に異常はない。
ただ、照明を点けても、ざわめきだけは、ほんのわずかに残っているように感じられた。
俺は毛布を頭まで被り、なんとか眠りにつこうとした。
翌日からの数日間、その「ざわめき」は時折、どこからともなく聞こえてくるようになった。
特に、雨の日になるとそれが顕著で、まるで美咲が俺に語りかけているような錯覚に陥った。
しかし、それは決して心地よいものではなく、聞くたびに胸の奥が締め付けられるような、底知れない不安に襲われた。
携帯に、またもグループLINEの通知が来たのは、それから一週間ほど経った頃だ。
「なぁ、みんな。最近、マジでヤバいことになってる……」
メッセージを送ってきたのは山本だった。
彼の文章は、明らかに動揺しているのがわかるほど乱れていた。
すぐに吉田から返信が来る。
「山本、お前もかよ! 俺もなんだ。あれから毎日、あの声が聞こえてきて……眠れねえし、幻覚まで見えてきた気がする」
「俺も……。なんか、体が、変なんだ……声が、どんどん大きくなって、全身を包み込むみたいなんだ……」
山本の最後のメッセージに、俺は嫌な予感を覚えた。
そのメッセージを最後に、山本の書き込みは途絶えた。
何度電話しても繋がらない。
吉田も、俺からの連絡には返信がなくなっていた。
俺は、いてもたってもいられなくなり、まずは山本のアパートへと向かった。
ドアをノックしても返事はない。
鍵は開いていた。
軋むドアを開けると、部屋の中はひどい静寂に包まれていた。
だが、その静寂は、何かを押し殺しているかのように重苦しい。
山本の姿はどこにもない。
しかし、部屋のどこからか、微かな、幾重ものささやき声が聞こえてくる気がした。
それはまるで、空気そのものが囁いているかのようだ。
耳を澄ますと、その声が、ぼんやりと、しかし確かに、ある言葉を繰り返しているのがわかった。
「ヒトツニ」
ぞっとした。背筋に冷たいものが走る。
あの夜、俺だけが聞いたはずの「声」が、今、この部屋全体から発せられているかのようだった。
俺は次に吉田の家に向かったが、そこも同じだった。
玄関を開けた途端、静寂の中に、あのおびただしいささやき声が満ちているのがわかった。
吉田の姿はなく、家全体が、声に飲み込まれているようだった。
そこでも、声は繰り返されていた。
「ミナ」
理解した。
あの夜の「ざわめき」は、ドッキリなんかじゃなかった。
本当に、何か恐ろしいものが、俺たちのすぐそばにいたのだ。
そして、美咲が口にしていた「ひとつになろう」という言葉が、まるで呪いのように彼らを蝕み、彼らの存在そのものが「声」へと変質してしまったのだと。
その時、携帯が震えた。
画面を見ると、差出人は「星野美咲」と表示されている。
ありえない。
彼女は死んだはずだ。
恐る恐るメッセージを開く。
そこに書かれていたのは、たった一言だった。
さあ、
健太くんの
番だよ。
さあ、
みんなで、
ひとつに
なろう
携帯が熱を持つ。
液晶画面が、ぐにゃりと歪んだ。
そこには、俺の顔が映っていた。
そして、その顔が、まるで水彩絵の具のように溶け出し、ゆっくりと、背景の闇と混じり合っていく。
視界が、ぐにゃぐにゃと歪んでいく。
体の感覚が、まるで粘土のように曖昧になっていく。
五感が、一つの巨大な渦に吸い込まれるように、混じり合っていく。
ああ、美咲。
君は、こんなに寂しかったのか。
一人で逝くのは、こんなにも、怖かったのか。
脳裏に、あの雨の日の美咲の笑顔が浮かんだ。
そして、背後から、すぐ耳元で、
優しく、
しかし、
どこかぞっとするような声が、
ゆっくりと、
囁いた。
「ほら…………
みんな、ひとつに、なれた」
意識は、そこで途絶えた。
そして、外では、静かに雨が降っていた。