第九節|誰の不安を想定しているのか
――声に出せない想定が、家族を静かに分断していく。
玄関の靴が乱れていた。
翔太の革靴。汚れたままのつま先が、母の買ってきた靴箱からはみ出している。
父はそれを見て、また「何かを言うべきか」を飲み込んだ。
言えば、傷つける。
言わなければ、自分が傷つく。
だが、家族というのは、そういう傷を見なかったふりで保っているものかもしれない。
夜のテーブル。扇風機の風が、食べ残したサラダの葉を揺らしていた。
「なあ……来年、翔太が本格的に就職できなかったら、俺たち、どうする?」
父の声は静かだった。
妻は箸を置いた。
翔太は、そのまま黙って水を飲んでいた。
「老後の預金は、このペースだと3年で尽きる。医療費、保険料、固定資産税……。お前だって知ってるだろ」
「知ってるわ。でも、今を切り詰めて、何が残るの?」
「未来が残るだろ」
「……あなたの“未来”は、いつ?」
沈黙が落ちた。翔太の箸が止まる音すら、部屋に響いた。
その夜、父は書斎に篭り、エクセルの表を眺めていた。
収支のシミュレーション。
医療費のインフレ予測。
年金受給の下方修正。
死亡年齢の統計分布。
彼は、家族の未来を「損益」で想定していた。
一方、妻は台所で翌日の弁当を作っていた。
「肉は半分、卵でかさ増し。ピーマンは冷凍ので……」
彼女は、未来を「食卓の再生」で想定していた。
どちらも、“家族を思って”いた。
けれども、思いの時空間座標が、重なっていなかった。
翔太は、扇風機の風を受けながら、スマホを胸に置いて横になっていた。
「……なにが正しいのか、わからない」
「就職しないとって、わかってる」
「でも、決めるたびに、誰かの希望を裏切る気がして……」
彼の中で、父と母の“想定する未来”が、どちらも正しすぎて、苦しかった。
誰の不安を、想定すればいいのか。
誰の不安から、目を逸らしてはいけないのか。
数日後、妻は勝手口の引き出しに、5千円札を入れた封筒をそっと忍ばせた。
「翔太へ 今週は、アイスでも食べなさい」
父はそれを見ていた。
声をかけようとしたが、言葉が喉で止まった。
もしかしたらそれは、**“家計の裏切り”かもしれない。
けれど、同時に、“未来への最後の贈り物”**にも思えた。