第八節|分断される家計
――もう、「財布」はひとつではなかった。
「通帳、今月はどうする?」
朝の食卓。パンの袋を閉じながら、男が尋ねた。
「……今月は、下ろさなくていいわ。こっちで何とかするから」
妻は、味噌汁の鍋を火にかけたまま、そう言った。
「こっち」とは、パート代のことだ。
先月から始めた、週三の清掃の仕事。
家計に入れるかどうか、きちんと話し合っていない。
男は、口には出さなかったが、内心、妙なひっかかりを覚えた。
一緒に暮らしているのに、「そっち」「こっち」といった境界が生まれている。
共通の財布、という意識が、どこかで薄れている。
午後、男は家計簿アプリに、医療費の見積を入力していた。
血圧、眼圧、歯の治療――老化という不可逆の連鎖に備えるために、
予測支出と貯蓄の減り具合をシミュレーションしていた。
だが、隣の部屋で妻は、まったく別の計算をしていた。
「翔太、靴も服も買い換えてないね。面接、あるのに」
「冷蔵庫、そろそろ音がしてるよ。15年ものよ」
「この炊飯器、タイマーがずれてる……」
妻の支出は、**「今、目に見える生活」に向いていた。
夫の支出は、「まだ起きていない未来」**に向いていた。
そして、ふたりとも、自分が“家族のため”に動いていると思っていた。
「……ねえ、電気代の支払い、今月、減ったね」
夕食後、妻がふと口にした。
夫は一瞬だけ嬉しくなった。
自分がエアコンを我慢して、扇風機にしていたことが報われた気がした。
「そうかもしれない。扇風機で何とか――」
「でも、翔太の部屋、暑いままで可哀想だったよ」
その言葉で、会話が止まった。
「ねえ」
「なんだ」
「あなたの“我慢”って……誰のためにしてるの?」
「……家のためだよ。……翔太のためでもある」
「翔太の“今”を見てる? それとも、“いつかの未来”を守ってるだけ?」
男は、答えられなかった。
通帳は、リビングの引き出しに置かれていた。
だが、その通帳に記された数字は、
もはやふたりの“共有の計画”を示してはいなかった。
それぞれが、それぞれの不安に、個別の財布で向き合いはじめている。