第七節|隠された支出
――それは“嘘”ではなく、“配分”だった。
通帳の残高が、思ったよりも減っていた。
退職金をまとめて預けた口座。
毎月、慎重に取り崩しているはずだった。
公共料金の引き落とし、食費、妻との共済、そして息子の保険。
だが、三万円分ほど、記録に覚えのない“引き落とし”がある。
日付を見ると、今月のはじめ。
午前11時12分、ATM。
その時間、自分は病院にいた。
誰かが使った。それが誰かは、考えるまでもなかった。
夜。
台所の明かりだけがついている。
妻は、流しの前でグラスを洗っていた。
まだ何も言っていないのに、妻の背中には、
「分かってる」という空気が、すでに漂っていた。
「三万円……翔太に?」
声は静かだったが、たしかな響きがあった。
妻は、手を止めた。
グラスを布巾で包んだまま、息を飲む。
「……バイト、終わってから、しばらく何も言わなくなってた。
履歴書も出してるって言ってたけど、たぶん、書いてない。
お昼も、食べてないときがあったみたい」
「それで、金を?」
「渡したんじゃないの。貸したの。……っていう形にしてる。
翔太も、“返す”って言ってた」
男は黙った。
グラスが置かれる音。
それが、この会話で唯一“現実”の音だった。
「なんで言わなかった」
「言ったら、あなた、責めるでしょ。あの子をじゃなくて、自分を」
「……」
「“働けなくなった自分のせいだ”って思う。
そうなると、もう何も言えなくなるじゃない。
だから、黙ってた」
それは、「嘘をついた」という告白ではなかった。
「家族という単位で、何を守ったか」という確認だった。
息子はその夜、ずっと自室にこもっていた。
ドアの向こうから、かすかな音楽が漏れていた。
眠れないのは、父親だけではない。
男は、布団の上でしばらく天井を見ていた。
呼吸は浅く、首筋に微かな汗。
老いと不安が混ざった身体には、
もう「何かを決める」という行為すら重かった。
だが、たしかに思った。
――この嘘は、嫌いじゃない。