第六節|静脈の向こうにあるもの
その日は朝から、無音だった。
家の中に音はあるのに、すべてが「意味」を持たない。
蛇口をひねる音も、スリッパの擦れる音も、新聞をめくる音も、
なぜか、耳をすり抜けていく。
健康診断の予約は午前10時。
駅までの道を歩きながら、夫はふと、
「健康」とはもう“持っているか否か”の問題ではなく、
“どのくらい保てるか”の話に変わっていたことを思い出した。
病院の待合室は白すぎた。
まるで、何もないことを肯定してくるような色。
隣には、妻が座っていた。
数年前までは来なかった。だが今は、同行が“前提”になっている。
「何分くらいで終わるかしらね」
「……たぶん、一時間もかからないだろ」
「前立腺の数値……」
「……うん」
妻の声がやや沈んだのは、
それが“ありふれていない話題”だからではない。
あまりにも現実的すぎて、逆に口にするのが怖いからだった。
採血のとき、看護師が言った。
「少し血管、細いですね」
それは、ただの医学的観察だ。
だが本人には、「老い」が身体に刻まれているという、宣告のように響いた。
若いころは、採血で困ったことなどなかった。
何度でも献血に行き、どこでも働けた。
今は、注射針一本が“通らない”。
沈黙のまま、採血のトレーに置かれた試験管の赤い色が、
妙に鮮やかだった。
昼すぎ、診察室。
医師は淡々と話した。画面の数値を指さしながら。
「血糖値とコレステロール値、やや高めですね。あと前立腺の数値が……」
言葉は中性的だが、伝える内容は、はっきりと重い。
「要経過観察」「すぐどうこうではない」
──その“安心”の語尾に、未来の不確定が混じっていた。
「働いてらっしゃいますか?」
医師の問いに、夫は、ほんの一瞬、何と答えるかを迷った。
「……いえ。退職して……いまは、家に」
「そうですか。では、無理はなさらずに。ただ……運動は、軽くでもいいので」
医師がモニターを閉じた。
会話は、それで終わった。
帰り道、夫婦は言葉を交わさなかった。
音のない夏の空が、頭上に広がっていた。
「働ける身体かどうか」を測るための診断だったはずが、
帰り道に残ったのは、「無理をすれば壊れる」という証明だった。
家に帰ると、息子がまだ寝ていた。
アルバイトは昨日で終わったらしい。次は未定だと聞いている。
妻は黙って、網戸を閉めた。
風が、もう夏の匂いを運ばなくなっていた。