第一節「焼け残る匂い
網戸の向こうから吹き込む夜風は、生ぬるく、どこか埃っぽかった。扇風機の風に乗って、蚊取り線香の匂いが寝具に染み込む。もう何度目かわからない夢から目を覚ますと、額に汗が滲んでいる。ベッドサイドの時計は、午前3時17分を示していた。
暗闇の中、妻の寝息は途切れ途切れで、隣の部屋の長男の気配はない。きっとまた、夜更かしをしているのだろう。パソコンの電源を落とす音も、履歴書を書くペンの音も、ここしばらくは一切聞こえない。
定年退職から3年。退職金は、想定より早く目減りし、通帳の残高は手帳に記された支出よりも確実に減っていた。食費、光熱費、固定資産税。どれも削るに削れない。妻は最近、スーパーの特売日に合わせて献立を変えるようになり、夕食の味噌汁は薄くなった。が、それを言うと、彼女は沈黙したまま皿を重ねる。
あの沈黙が怖いのだ。言葉でぶつかってきてくれた方が、まだ良い。
「また……無駄遣いでもしたの?」
そんな台詞ですら、もう二ヶ月は聞いていない。
そして、息子は。大学を卒業したのに、就職口が決まらない。面接は落ち続け、いつしか面接自体を避けるようになった。最初は就職氷河期を理由にしていた。次は企業のミスマッチ。そして今は「ちょっと考えたい」と言うきりで、履歴書も白紙のままだ。
「俺の時代は、働かないという選択肢なんてなかったぞ」
その一言が最後だった。それ以来、会話も減り、家の中に風が通らなくなった。
けれど網戸の外からは、風だけは流れ込んでくる。その風は、蚊を避けながらも、彼の記憶や不安を攪拌して、夜ごと違う形で彼の夢に戻ってくる