PRO . 逃亡者
その夜は国中が豪雨に見舞われていた。全ての音を掻き消す程の雨音の中に、鉄の擦れる音と忙しない足音が微かに紛れ込む。月光すら隠してしまうほどの雨雲が空を覆っていた。一つだけ開いた宿屋の窓から漏れ出る光が暗闇の中に際立つ。宿屋の壁に打ち付ける雨の音が、窓の開いた部屋の中に鳴り響いていた。
「ん゛んっー」
女が悶えると色白で長身の男は彼女の手を力強く握り、彼女を鼓舞した。うっ血した手が白くなる。女は息を荒げて最後の力を振り絞った。悲鳴に近い声が部屋中に響き渡る。
生まれたのは元気な赤子だった。その産声は雨の轟音にも負けない。男は赤子を抱き上げて、女の枕元に近づけた。そして言う。
「ローラ、君と私の子だ。なんて美しいのだろう」
今にも溢れ出しそうな涙を堪えて男は微笑んだ。
「元気な赤ちゃん、きっとジルに似たんだわ。目元があなたにそっくりよ」
ローラはそう言うと、今にも崩れてしまいそうなほど儚い赤子の頭を優しく撫でた。その幸せそうなローラの表情を見て、ジルの心は強く締め付けられた。
「ゴホッゴホッ」
白い布団に真っ赤な血が飛び散る。
「ローラ!」
彼女の口元に着いた血を拭いながらジルが言う。
「しっかりするんだローラ、生まれた子には母親が、君が必要なんだっ。それに私にも、」
ローラは震える手でジルの手を握った。
「ごめんなさい、ジル。私はもう、」
「だめだ、三人で一緒に逃げよう。絶対に君を置いては行かない」
ローラの手を握るジルの手はうっ血して白くなっていた。震えるジルの唇。
ローラはゆっくりと首を振り言った。
「こうなることはわかっていたでしょ。あなたが今やるべきことは私を引き留めることじゃない。この子を連れて逃げてちょうだい」
「君と離れたくない。私は君を幸せにすると誓ったんだ」
ジルはベッドの上に崩れ落ちた。
ローラの震える手がジルの頬に触れる。彼の頬に冷感が伝わった。そして彼女が言う。
「私はもう十分幸せよ。病弱でお城から出られず寂しい思いをしていた私に、あなたはずっと寄り添ってくれた。外の世界を教えてくれた。愛し合う事を教えてくれた。子を得る喜びを教えてくれた。あなたは私に沢山の事を教えてくれた。あなたのおかげで、私は幸せ。」
ジルの頬を一粒の涙が伝い、それから彼は押し殺していた感情が決壊したように泣き崩れた。
一階の扉がドンと蹴破られ、客の悲鳴と騒々しい足音が聞こえてきたのはその時だった。
「ジル・ペンドラゴンはいるかぁぁああっー!!」
建物を揺らすような野太い声が宿屋中に響き渡った後、鉄が擦れる音と共に大勢が階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。
「彼らが来たわ、もう行って、ジル」
ローラは血を孕んだ咳をしながら力強くジルに訴えた。歯を食いしばって立ち上がったジルは、ローラを抱擁して言う。
「この子を必ず安全な場所に送り届ける。何も心配はいらないよ。ローラ、君と出会えて本当に良かった。............愛してる」
「私もあなたのことを、心から.....愛しています............」
ローラの腕が彼の背から離れ、彼女の瞳から明かりが消えていった。彼女は愛する人の腕の中で、穏やかな表情をして息を引き取った。
鈍い音と共に部屋の扉が勢いよく開き、中に騎士達が雪崩れ込んでくる。仰々しい甲冑。傷一つ付いていない剣。胸にはゲルダム王家の紋章。
「ようやく見つけたぞ、ジル・ペンドラゴン!!!」
ジルは静かにローラを横にして、そっと彼女の瞼を閉じた。そして、ゆっくりと騎士達の方に目線を向けながら言う。
「愛する妻との別れに、水を差さないで頂きたい」
その抑揚の無い声とは裏腹に、彼の眼光は辺りを鋭く突き刺した。ジルの言葉などお構いなしに三人の騎士が彼に斬りかかる。
次の瞬間、三つの首が宙を飛んだ。ジルの振り切った左手には先程まで握られていなかった剣が握られていた。
血飛沫と共に床に転がる首を見て、どよめきと共に騎士達の足は一歩下がった。端麗な剣身から滴る真っ赤な血。誰もその場を動こうとしない。騎士の長が恐怖を紛らわすかの如く、野太い声で叫ぶ。
「怯むなっ、敵はただ一人。数の力で押しつぶせ!」
その声を皮切りに、生を諦めた様な、己の悲痛な運命を受け入れた様な騎士達が、血眼になってジルに襲い掛かった。ジルは瞬時に辺りを見回して、周りの状況を把握した。
彼の視線が一周して戻って来た時、彼が握っていた剣は姿を消していた。ジルは素早く赤子を抱き上げて、背後の窓から屋根の上に駆け上った。
大嵐が容赦なくジルと赤子を襲う。降りつける雨粒は、まるで小石を投げつけられているかの如くジルの皮膚をつついた。
大雨が屋根を伝い、滝の様に地面に流れる。その流れに沿って下を覗くと、宿屋の外で百人を超すであろう騎士達が犇めき合っていた。
「上だっ、奴は屋根の上へ逃げたぞっぉぉおお」
窓から顔を出した騎士がジル達を指さして叫ぶと、殺気に満ちた沢山の目が一斉にジルを向く。ジルは胸に紐で赤子を縛り付け、屋根伝えに駆け出した。獰猛な野獣のような騎士達がそれを追いかける。
ジルは辺りを見回し、馬を探した。これから長い逃避行になる。足で逃げるには限界があるとジルは感じていた。
「私にも翼があれば」
”ビューーン”目の前に槍が突き刺さる。見ると馬に乗った数名の騎士が投げ槍を構えていた。千載一遇、ジルはどこからともなく剣を出し、先頭の馬に狙いをつけた。”ビューーン”再び飛んで来た槍を今度は剣でギーンと跳ね返す。足を速めて軒先を走り、呼吸を整えた。
次の瞬間、ジルは先頭の騎兵目掛けて屋根から飛び降りて、騎兵の首を叩っ斬った。流れるように馬に跨り、手綱を握り全力で駆け出すジル。
「死ねぇーっ」
鬼の形相をした騎兵が横から斬りかかると、それを剣で巧みにいなし、逆に騎兵の首を斬り飛ばした。村を抜け、森に入る。ジルは尚も馬の足を速め、鬱蒼とした森を駆け抜けた。騎士達も負けじとジルを追いかける。
暗闇の中、幾度も交戦しながらジルはどこまでも走った。やがて夜が明け嵐が去り鳥達の囀りが聴こえてきた頃、ようやく追手はいなくなった。それでもジルは一心不乱に走り続けた。
いったい一晩でいくつの山を越えたのだろう。朝霧の中を走っていると、馴染みのある村が見えてきた。村の一番端、大きな庭のある家には彼の旧友が住んでいた。その家の前で馬を止めるジル。
ジルは馬を降り、赤子を抱いて家の戸を叩いた。少し間を開けてもう一度戸を叩く。今度は口で呼びかけたが返事は無かった。どうやら家の主は出かけているらしい。
ジルは扉の横に座り込み、抱いていた赤子を見つめた。そして言う。
「ああ、私とローラの愛する子よ、君を一人にしてしまうことを許せとは言わない。君は私たちのことを一生恨み続けるのかもしれない。私達のことなど知らないまま、老いていくのかもしれない。だが、私たちは君のことを一生忘れない。一生愛し続ける。今はできないが、将来、困ったことがあった時は、必ず助けに行く。だからどうか、健やかに育ってくれ。心から愛している。こんな親ですまない」
無邪気に笑う赤子。ジルは赤子にとって自分と一緒にいることがどれだけ危険な事か理解していた。だから、信頼できる知人に赤子を預けることにしたのだ。
ジルは最後に赤子の額に口付けをして、扉の横にそっと寝かせた。すぐに追手が来るかもしれない。ジルは早々に馬に乗り、振り返ることなく、また山の奥に向かって走り出した。
山の向こうから朝日が昇る。あたり一面霧だらけ。向こうから年の割にガタイの良い、白髭を生やした大男が鼻歌を歌いながら歩いてくる。
「ヘルマンさまー、おはよー!」
「ヘルマンさん、おはようございます!」
「見回りお疲れさんっ、ヘルマン!」
町ゆく人が彼にあいさつする。彼はガハハハッと豪快に手を振って返す。
男の名は、ヘルマン・リュトヴィッツ。ヘルマンは庭の門をくぐると、家の扉の横に何かが置いてあることに気が付いた。
「なんだぁ、差し入れかぁ」
そう言いながらズカズカと近ずくヘルマン。だが、彼の足は、それを拾おうと下を覗き込んだ瞬間、ぴたりと止まった。(こいつぁ、)それは、差し入れなどではなく、小さな赤子だったのだ。
「おいおい、たまげたなあ、こいつぁは赤ん坊じゃねえか」
湿った布で包まれた赤子をそおっと持ち上げる。
「雨の降る夜に赤ん坊を置いていくなんて、なんてヤローだ」
ヘルマンは泣き出す赤子にたじろぎながらも不器用な手つきで赤子をあやした。
彼の頭に一つの疑問が浮かぶ。
「お前さん、どこから来たんだ」
赤子は無邪気に笑ってヘルマンの髭を引っ張った。ヘルマンはそっと赤子の頭を撫でて言う。
「まあ、答えられる訳ねえよな。何も心配はいらねえぞ、おじさんに任せろ」
ふと下を見ると、先ほどまで赤子が寝かされていた場所に一通の手紙が添えられていた。手紙を手に取り、その内容に目を通した後、ヘルマンは赤子を抱いて家の中へ入っていった。
昨夜の嵐で出来た霧は晴れ、村中が日の光で明るく照らされた頃、ヘルマンは赤子を抱いて家を出た。赤子は所々にシミのある布切れで包まれて、すやすやと眠っていた。彼らの向かう先は村長の家。
この村の村長ウナイは、ヘルマンが人生で最も信頼する男の中の一人だ。いくつかの家を横切り小川を超えた先にある、庭に大きな木の生えた家が村長の家だ。その家の前に着くと、ヘルマンは大きく息を吸い込んだ。
「ウナイィーーーー!」
ヘルマンの百里先まで届きそうな声が村中に響き渡った。
村長の名前が何度もこだまして、ようやくそれが収まった頃、家の扉が静かに開いた。
「朝ぱっらからうるさいわボケぇええええ」
怒号を挙げて出てきた村長は鬼の形相でヘルマンに近寄り言った。
「ヘルマン、お前と言う奴は、朝から大声を出すなっ。お前は昔から加減という物を知らない。この前だってなあ、..........」
「お前はいつも機嫌が悪いな、」遮る様にヘルマンが話し出す。
「コイツを見てくれウナイ。この赤ん坊は今朝、俺の家の扉の前に置き去りにされていたんだ」
「この村の赤子ではないな。ここ最近の不作で隣村の奴が口減らしに捨てて行ったのかもな」
険しい顔をするウナイにヘルマンが問いかける。
「口減らしする赤ん坊をわざわざ隣村に預ける奴がいるか?」
「人の心を持った親のせめてもの償いだろ」
「いいや違う」ヘルマンは首を横にって言った。
「この赤ん坊は口減らしなんかじゃねえ。これを読んでみろ」
ウナイは驚愕した。
「なぜ俺にこれを読ませた」
「ウナイ、お前のことを誰よりも信頼しているからだ。頼む、協力してくれ」
「そんな急な........」
「この赤ん坊は俺が育てる」
「お前は子供を育てたことが無いじゃないか。今だって、赤子を包んでいるその小汚い布切れはなんだ。その程度の気遣いも出来ない奴に子育てなんて無理だ」
ヘルマンはウナイの肩をドンと叩いて言った。
「だからお前に頼みに来たんだ。お前は何人も子供を育ててきただろう。俺の子育てを手助けしてほしいんだ」ヘルマンの瞳はどこまでも真っすぐだった。
縦に小さく首を振るウナイ。
「わかった、手助けをしよう。まさか晩年にこんな大仕事がやって来るとわな。腕が鳴るわ」
「恩に着る」ヘルマンは神妙な面持ちで深々と頭を下げた。
「で、名前はどうするんだ」
「名前?名前かあ」
ヘルマンは少し考えてウナイの目を見つめなおした。
「俺には昔、世話になった人がいてな。その人は、村を飛び出したばかりの何も知らない世間知らずで生意気な俺に、騎士としての道を教えてくれたんだ。彼はある日突然、ろうそくの火が消えるように俺の前から消えちまった。彼にお礼を言うことが出来なっか事を悔いない日は無い。とてもとても立派な人だった。この子には彼と同じ名前を付けようと思う」
「その方の名は何というんだ?」
ヘルマンは優しい目で赤子を見つめながら小さく言った。
「エドワード。この子は今日から、エドワードだ」
大いなる使命を背負い生まれたエドワード。その後の世において、”騎士英雄”として語り継がれる事になる彼の波乱に満ちた人生が、今始まる。
バルデンツ大陸の中央に聳える高峰ハイリヒ火山は、古くは人々の信仰の対象として崇め奉られていた。人々の信仰心が薄れた今日でも、その山の威光は衰えるところを知らない。
今、山の頂上に一人の騎士が立っている。騎士は全身を黒い甲冑で覆い、漆黒のローブが風ではためく。騎士の視線の先、火口の底には雪の様に白い巨狼がいた。重い空気が彼らに伸し掛かるなか、巨狼は口を開いた。
「我が眠りを覚ましたのは貴様か」
その声は大地を震わす程に深い。空気が張り詰める。
「あなたには我が主の駒になっていただきます」
飄々と言う黒騎士に巨狼は牙を剥き出した。
「貴様、ロンバルシアの民ではないな」
「あなたにはもう関係の無い事です、さあ、早くお眠りなさい」
黒騎士は首を傾げ嘲笑うかの様に言うと、腰の剣を抜き巨狼に斬りかかった。
「我を舐めるな、小童ぁあああっ」
巨狼が咆哮を上げ鋭い爪を剥き出しにした。
剣と爪が交差して、金切り音が鳴り響く。次の瞬間、大きな音を立てて鋭い爪が折れ、黒騎士の剣が巨狼を切り伏せた。白い毛皮が赤く染まり、巨狼は沈黙した。剣に着いた血を払い黒騎士は言う。
「我らの時代が始まる」
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