恋の成就
恋に、落ちた。
「これは、僕と君だけの秘密ね」
そう言って、くしゃりと笑った、その時に。
王宮の下働きとしてやってきたのは、15歳の頃だった。
洗濯女として働き始めて一ヶ月がすぎた頃。
その日は忙しく、私は初めて各部屋へ洗濯物を届けるよう言付かった。
確か立太子の式が翌日に控えていて、どこもてんやわんやの忙しさだった。
無事に洗濯物を届けたはいいものの、私は帰り道が分からなくなってしまっていた。
行き方を覚えるのに必死で、帰りのことまでは考えていなかったのだ。
とりあえずこっちだろうと目星をつけた場所は、全然違っていたらしい。
綺麗に整えられた、庭園のようなところにでてしまった。
人に聞こうにも、どこにも人がいない。
早く帰らなければという焦りと、このまま迷子になって誰にも見つけられなかったらどうしようという不安で押しつぶされそうになった時。
「誰かいるの?」
ひどく身なりのいい、綺麗な少年が現れた。
彼の身なりよりも、人がいたという安心感にほっとしたことを覚えている。
「道に、迷ってしまって」
洗濯場に戻りたいのだというと、ああ、あこかと彼は呟き、案内しようと言ってくれた。
こんなに身なりの良い少年に案内させていいものか悩んだが、周りは植物だらけのこの場所から、帰り道を説明されても帰れるか不安だった私は、ありがたくその提案にのることにした。
「こっちだ」
そう言われて手を取られる。
その手の温かさに安心し、ギュッと手を握ってしまった。
身なりのいい少年は、少し笑って、それを許してくれた。
いつから働いているのかなど、ポツポツと私の話をしながら歩いていると、ようやく見知った場所にでた。
無事に辿りつけたことにほっとして、思わず涙が出てしまった。
今考えれば笑い事だが、当時はあまりにも広い王宮で迷子になり、このまま永遠に迷ってしまうのではないかと不安だったのだ。
殿下はもちろんびっくりしてオロオロとしていたが、理由を話すと呆気に取られたあと笑いだした。
私は羞恥とバツの悪さでちょっとむくれてしまった。
そうすると殿下は、ごめんごめんと謝ったあと、
「これは、僕と君だけの秘密ね」
そう言ってくしゃりと笑ったのだ。
その後殿下はこっそりと洗濯場を訪うようになり、毎回他愛の無い話をしては帰って行くようになった。
おそらく息抜きだろう。
身分制度をいまいち理解していない人物が珍しかったに違いない。
その後、彼が皇太子だと知ってギョッとしたのはだいぶたってからのことだった。
てっきり知っていてその態度なのかと思っていたと言われ、倒れそうになってしまったのはまた別の話。
それから10年がたち、彼の縁談の噂もチラホラ聞こえて来るようになった。
私はというと、あの日の恋に囚われたままだ。
下働きから召使い見習い、そして召使いに。
身分的に侍女にはなれないから、あの方のお側に仕えることはできないが、それでも近くにいられるだけで幸せだった。
縁談の噂を聞くたびに心に傷を負いながら。
報われないことなど百も承知だ。
それでも、少しでもあの方のお側にいたかった。
殿下の部屋に替えのシーツを持っていくと、そこには殿下本人がいた。
この時間はいないはずで、その証拠に部屋の前に衛兵はいなかった。
焦る気持ちから、思わず普段の馴れ馴れしい口調で話かけてしまった。
「まぁ、殿下」
どうしたのです、という言葉は言えなかった。
気がつけば、目の前は真っ暗で。
抱きしめられているということに気づくまで時間がかかった。
心が喜びに湧く。
押し返すべきだとは分かっていたが、どうしてもできなかった。
「縁談が決まった」
時間が止まったように感じた。
分かっていた。分かっていたことだ。
「…それは、おめでとう、ございます」
声が震えてしまった。
けれど、泣かなかっただけマシだ。
そう思ったのに。
ポロリと、雫が流れた。
「」
初めて、名前を呼ばれた。
腕が緩んだので、そっと顔をあげる。
ずっと名前を呼ばれたことはなかったのに。
むしろ、名前を知らないと思っていた。
「泣くな。美しくて、どうにかしてしまいそうになる」
熱を孕んだ瞳。
どうして抗えただろう。
毒だと分かっていても、その甘美な誘惑に。
「必ず、側にいられるようにする」
(側にいられなくてもいい)
地獄に落ちても構わない。
どうか、今、この一瞬だけでも。
唇が重なる。
結い上げていた髪が落ちる。
これから先に待っているのが苦しみだけだとしても構わない。
ただ、今だけ。今だけは。
その日、私の恋の恋は成就した。