鬼
ミシッっと、まるで部屋全体が歪んだかのような音が、奈緒深の耳に聞こえてくる。
その瞬間に、部屋を覆っていた不思議な力の気配が、完全に消えた。
そして──、
「キャアアアーっ!?」
大量の窓硝子の破片をばらまきながら、何かが奈緒深のすぐ側の壁に突き刺さった。
もう少し横にずれていたら、丁度彼女の胸に突き刺さっていたことだろう。
その事実に彼女は戦きながら、怖々と飛んできた物体を見てみると、それは窓枠だった。
アルミサッシでできた頑丈な窓枠が、原形を留めないほど無惨に折り曲げられている。
それがあまりにも常軌を逸した力で壁に叩きつけられて、深々とめりこんでいたのだ。
まるで法定速度を大幅にオーバーした大型トラックに、はねとばされたかのような有様である。
だがそれならば、トラックも室内に飛び込んでくるはずなので、当然それが原因ではない。
しかしそれ以外のどのような原因で、このような事態が発生するのか──奈緒深には想像もできなかった。
だが、状況を鑑みれば、窓の外にいた何者かの仕業としか考えられない。
だけど一体どのような生物ならば、これだけの破壊力を生み出せるのだろうか。
動物の種類にはあまり詳しくない奈緒深ではあるが、それでもこんなことができる生物は、今の地球上には存在しないはずだと断言できる。
いや、巨大な恐竜の生き残りがいれば、あるいは可能であったかもしれないが、サッシごと消滅した窓の向こう側に見えるのは、身長こそ2mを超えてはいるが、明らかに人型の生物だった。
その体躯からは、有り得ない怪力である。
むしろその力のみならず、その存在自体が奈緒深にとっては有り得ない。
「ひ……!」
室内を覗き込むその両眼は、燃えるような赤色に輝いていた。
しかしそれは断じて光の反射で光って見えているのではなく、その両眼自体が赤く光を発しているのだ。
それを見て奈緒深は、目の前にいるのが生物であって生物ではないことを覚る。
蛍のように自ら光を発する生物はいくつか存在するが、だが、赤く光を発する──しかも眼球そのものが光る生物の存在は、彼女の常識の内には存在しなかったからだ。
ただ、生物ではない物の中にならば、該当するかもしれない存在を彼女は知っていた。
「お……鬼!?」
そう、それはまさしく鬼だった。
だがそれは、おとぎ話に出てくるような、何処か愛嬌があり、時には人間に騙されたり退治されたりしてしまうような可愛げのあるものではない。
今、奈緒深の目の前にいるのは、地獄に住まい、亡者へと容赦ない責め苦を与える、恐怖の象徴とも言うべき鬼だった。
両眼の赤い光に照らし出された鬼の顔は、人の物ではない。
狼のように上あごと下あごが突き出た顔の輪郭は、まさに獣のごとし。
その口にもやはり獣のごとき、無数の牙が並んでいた。
しかし、獣にしては頭髪以外の体毛はその身には殆ど見られない。
その上、狼ならば両耳が備わっているであろう箇所に、巨大な角が生えている。
それは牛や鹿等、角を持つ如何なる生物の角ともイメージが合致しなかった。
あえて近い物を挙げるとすれば、それは角ではなく、象の牙が一番近いように思える。
ただし、やや平べったい造りをしていて、必ずしも象の牙に似ているとも言いがたかった。
そんな異常な特徴を兼ね備えた頭部に反して、その身体は人間のそれとは大きく変わらない。
皮膚の色はこげ茶色がかっているし、手足の長さもどことなく人間の物とは違うが、大きく人間の物と違っているようには見えなかったのだ。
だが、それこそが逆に異常であると言えた。
その人間と変わらぬような身体からどのようにすれば、先ほどの窓枠を吹き飛ばした時のような怪力を発揮できるのだろうか。
筋肉の量を見ても、腕等一部の部位が不自然なほどに太くて強靱に見えるが、全体的に見れば細く筋張った体つきをしており、肋骨や骨盤も浮き出て見える。
どちらかといえば貧弱という風にも見ることができるかもしれない。
その体付きであの怪力である。
物理法則を完全に無視しているとしか思えなかった。
いや、事実はまさにそうなのだろう。
それは生物では無い。
妖怪や化け物と呼ばれ、本来はこの世ならざる場所に産まれ生きる存在──鬼なのだ。
この世の常識が通じるはずがない。
しかし、この世以外の常識など知る由もない奈緒深にとって、その鬼の存在は彼女の持つ常識を根底からひっくり返すには十分すぎるほどの衝撃だった。
故に彼女の思考能力は、一時的に完全に消滅する。
そして、彼女が再び思考能力を取り戻した時には既に、鬼は彼女の目の前まで迫っていた。
「あ……ああ……」
迫り来る鬼の姿を前にしても、奈緒深はただ震えることだけしかできなかった。
もう逃げることができるような状況ではない。
いや、たとえもっと早い段階で彼女が逃げ出していたとしても、おそらくは逃げ切ることなどできはしなかったであろう。
人間の脚力は、殆どの生物のそれに劣っている。
ましてや相手は鬼だ。
車より速く走ることさえも軽々とやってのけても、なんら不思議はな無い。
つまりは鬼と遭遇した時点で既に、彼女は脱出不可能な窮地に立たされていると言っても良かった。




