母の謎
ちょっと前に前回を更新しています。
奈緒深は綾香に蹴りを入れられた沙羅の姿を、呆然と眺めていた。
その顔は完全に、事態についていけていない表情だ。
無理も無い。
前の二回は、綾香が沙羅を叩き倒すところを後ろから見ていたのでそうでもなかったが、今回はまさに唐突に綾香が現れたようにしか見えなかったので、彼女の受けた衝撃はかなり大きかったのだろう。
「奈緒深さん、うちのバカがバカなことを言った時は、無視していいから」
「は、ハヒッ!!」
綾香に何だか迫力のある笑顔で告げられた奈緒深は、恐怖のあまり裏返った声で返事をする。
「沙羅も未成年者を拐かすようなことをしない!
今度やったらただじゃ置かないからね?」
「アイアイ……マム」
その答えを聞いて、綾香はようやく足を降ろす。
そして沙羅はモニターからようやく解放された顔をさすりつつ、
「……で、何しに戻って来た訳?」
振り向きもせずに、背後に訪ねた。
「言い忘れたことがあってね」
「だからそういうことは電話かメールで──」
「今日一日、誓示君のスケジュールを空けて待機させてあるから……。
必要なら呼びなさい」
娘の言葉を遮るように発せられた綾香の言葉を受け、沙羅は軽く目を見開いた。
そして一拍置いてから、微笑を浮かべて振り返る。
「うぃ、サンキュ」
しかし振り返ってみると、綾香はもう背を向けていて、この部屋から出て行くところだった。
「じゃあ、行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
沙羅は手を振って──綾香には見えていないだろうけれど──見送る。
「全く、忙しないんだから……」
「そう……ですね。
あんな突然現れて……驚きました」
沙羅の言葉に、奈緒深が呆気にとられた顔をしながら同意した。
「でしょ?
いつも神出鬼没なんだから。
今度、もう勝手に入れないように、窓とドアの鍵とセキュリティーシステムを総替えしてやる……。
あ、奈緒深さん、この前母さんがあたしの背後を取るところを見ていたよね?
どうやって近づいていた?」
「あの……普通に歩いて……」
「そんなので!?
そんなので私に、気取られずに接近したっていうのっ!?
信じられないっ!!」
「ですよねぇ……。
私も端で見ていて、何で気が付かないんだろうと思っていましたけど、実際にやられてみると気付かないものですねぇ……」
「……あの人、きっと昔に忍者か何かをしてたんだよ」
「そんなまさか」
そう言いつつも、奈緒深は吹き出しそうになって口元を掌で覆った。
大和撫子という言葉がピッタリな風貌の綾香には、忍び装束がかなり似合いそうな気がしたからだ。
それに反して沙羅はあまり笑えなかった。
母なら、江戸時代くらいから生きていて、本当に忍者を生業にしていたとしても、有り得ない話ではないと思えたからだ。
実のところ、沙羅も綾香の正確な年齢を知らない。
少なくとも彼女が物心ついた時には、綾香は現在と全く同じ容姿をしており、それから20年近い歳月が経っても、1歳たりとも年を取った形跡が無い。
しかも第二次世界大戦のような1世紀近く昔のことを、まるで自分の目で見てきたかの如く懐かしそうに語ることさえあった。
気になって沙羅が本人に「何歳なの?」と、直接聞いてみたことはあるが、「女に年を聞くものじゃない」とはぐらされてしまった。
たぶん戸籍とかを見て、綾香の年齢を調べようとしても無駄だろう。
綾香が本当に常識外れの年齢ならば、真実が書いてあるはずがない。
書いてあったら、今頃普通に生活などしていられないだろう。
おそらく行政の関係者に圧力をかけて、書類を偽造するぐらいのことはしている。
それは沙羅にだってやろうと思えばやれるツテがあるのだから、綾香にできないはずがないのだ。
とにかく母が、既に百や二百の齢を重ねていてもおかしくない──と、沙羅は思っている。
常識的には有り得ない話だが、それがあっても不思議ではない血を綾香は──そして沙羅も先祖から受け継いでいた。
別に望んで受け継いだ訳でもないけれど──。
どちらにせよ、今更ながらに母の非常識さを痛感せずにはいられない沙羅であった。
だけど──、
(奈緒深さん……笑ってるな……)
先程までの気まずい雰囲気は、いつの間にか消えていた。
どうやらこの騒ぎのおかげで、奈緒深の緊張は完全に解けてしまったらしい。
それに沙羅も、既に最悪に近い醜態を奈緒深にさらしてしまったので、開き直ってしまいさえすれば、何の気兼ねもなく、自然体の自分で奈緒深に接することができる。
上手くいけば、今後末永く奈緒深とは付き合っていけるようになれるのかもしれない。
沙羅には殆どいない友人として。
なんとなく今日の綾香は、それを狙って行動していたようにも見えた。
(誓示さんのことといい……お節介焼きなんだから……)
なんだかんだ言いつつも、綾香は娘を心配しているのだ。
それが分かるから沙羅も、素直に母の想いに応えようと思う。
取りあえず母が作ってくれたチャンスを、生かそうと考えていた。