誘 惑
ショックのあまり、ガクガクと身を震わせている沙羅に向かって、綾香は言う。
「だって今日、奈緒深さんの土地の売買について、一緒に交渉しに行くんでしょ?
奈緒深さんはこの辺の土地勘が無いから、道に迷わないようにわざわざ連れてきたのよ」
「……で、でも、会う約束は10時のはず……」
辛うじてそう返事する沙羅に、奈緒深は申し訳なさそうに答えた。
「あの……お母様が、面白い物が見られるかもしれないから早く行こう……と」
それを聞いた沙羅は、ガバリと跳ね起きて綾香の胸ぐらを掴み、
「あんた、娘の恥を他人に晒して、そんなに面白いのっ!?
それでも母親っ!?」
涙ながらに訴えた。
「見られて恥ずかしいことなら、最初からやらなければいいでしょう?」
「うわ……む、ムカつく……」
綾香の言葉は正論であるだけに、沙羅はそれ以上なにも言えなかった。
勿論納得した訳ではないが、この話題を論議しても、自分の首を絞めるだけのような気がしてならない。
想像してみて欲しい。
親にエロゲーをプレイする自身の正当性を説くという、拷問じみた光景を。
「ともかく、奈緒深さんに危険が無いようにちゃんとやるのよ?
あと、来月の2日は、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの命日だから、ちゃんと墓参りに来るように。
それが言いたくてね」
「……そんなことなら、電話ででもいいじゃない」
そんな娘の言葉に、綾香は悲しそうにうつむいて目に涙を浮かべる。
ちなみに彼女は、女優かというほど嘘泣きが得意だ。
「うう……滅多に会えないから、親子のコミュニケーションを取ろうと思って会いに来たのに」
「こんなコミュニケーションならいらん……!」
沙羅は仏頂面で綾香の胸ぐらから手を離した。
たとえ嘘泣きだと分かっていても、泣いている人間を乱暴に扱うのはやはり気が引ける。
それに今は奈緒深の目もあることだし、家庭内暴力だと勘違いされてはたまったものではない。
「まあ、そう言うことだから、気をつけてね。
じゃあ私は、これから秋田へ出張だから、もう行くわ」
そう言い残し、綾香はそそくさと出ていった。
そして後に残ったのは、沙羅と奈緒深との間に漂う気まずい空気のみ。
つい今し方、とんでもない醜態をさらしてしまった者と、それを垣間見てしまった者の間で、和やかな空気が成立するはずはない。
奈緒深は部屋の入り口で、居心地の悪そうにもぢもぢとしている。
「あ、奈緒深さん。
とりあえず部屋に入って、椅子でも床でもソファーでも、す、好きな所に座ってよ!」
「ハ、ハイ。
おじゃまします」
二人はぎこちない笑顔で、ぎこちない会話を交わした後、どちらとも知れずに視線を逸らせて表情を曇らせた。
(うわ~、どうするの、この空気……)
今日はこれから正午ごろまで、一緒に行動する予定だ。
……この重苦しい雰囲気で。
なんとかして雰囲気を和らげなければ、かなり辛いことになりそうだが、状況を打開できるような良い方法など、すぐに思い浮かぶ訳がない。
さっさと外出してしまえば少しは違うのかもしれないが、交渉相手と会う時間までには、まだかなりの余裕があった。
それまで一体どうやって、時間を潰せば良いというのか。
今の時間帯では、遊べるような場所はかなり限られるし、親しくもない人間と一緒に行っても大した面白いとも思えない。
となると、結局この部屋で時間を潰すのが一番無難なのかもしれない。
幸いここには、ゲームやらDVD・ブルーレイのソフトやらが、沢山ある訳だし。
(ゲーム……!)
と、ここで沙羅は名案を閃いた。
「ね、ね、奈緒深さん」
「ハ、ハイ?」
奈緒深は先ほどまで沈鬱な表情をしていた沙羅が、いきなり明るく話しかけてきたので、警戒感タップリの表情を一瞬浮かべた。
しかし沙羅はそれを気にせず……というか、全てを開き直ってしまったような明るさで、
「……さっきのゲームに興味ない?」
「!」
あたかもファウストを誘惑するメフィスト・フェレスのように、奈緒深の耳元で囁く。
彼女は何も答えず、恥ずかしそうに頬を赤く染めてうつむいた。
(……脈有り!)
沙羅は会心の笑みを浮かべた。
そう、彼女は奈緒深を仲間に引き入れることを、思いついたのである。
自分だけエロゲーをプレイしていたから恥ずかしいのだ。
奈緒深にもプレイさせてしまえば、二人は仲間だ。
同類だ。
同じ穴の狢だ。
一蓮托生だ。
死なば諸共だ。
そうなってしまえば何も恥ずかしいことも、気まずいことも無い。
「興味有るならプレイしてもいいよ」
「えっと……あの……その」
奈緒深は、なかなか首を縦には振らなかったが、横に振ることもなかった。
彼女にとっては──というか、一般人の大半は、エロゲーという物には縁が無いかもしれないが、校則の厳しいお嬢様学校に通っている彼女にとっては、エロゲーに限らず、他の性に関わるものの悉くに縁がなかったのだろう。
だからこそ逆に、その方面への好奇心は人一倍大きいのではないか──と、沙羅は推測した訳だが、どうやら大当たりのようだ。
「別に嫌じゃないっしょ?
嫌じゃないよねぇ?
じゃあプレイしてみなよ。
絶対面白いからさぁ」
と、沙羅はテレビのリモコンを手に取り、画面にそれを向ける。
モニターの電源を落としただけなので、ボタンを押せば先ほどのゲームの続きが画面に映し出されるだろう。
そしてその映し出される映像は、丁度アレの真っ最中のはずだ。
果たしてそれをモロに見た奈緒深の反応は、どのようなものになるのであろうか。
彼女はそれを想像すると、なんだかちょっとゾクゾクとした。
沙羅は聖書にて、イヴもしくはエヴァにリンゴを食べるよう誘惑した蛇の気持ちは、こんな感じだったのだろうか──と、思いつつ、更に調子に乗る。
「じゃあ、いくよ~♪
スイッチ、オ──」
その時、ゴシャという異音。
「痛!?」
沙羅の後頭部を、ここ数日で最大の衝撃が襲った。
その衝撃に抗しきれず、彼女は顔面からテレビのモニターに突っ込む。
「……なに高校生に、18禁を薦めているのよ?」
「す……済みません……母さん」
モニターに顔を貼り付けたまま、沙羅は取りあえず謝った。
さすがにもう3回目なので、何が起こったのか、況は大体状理解できたようだ。
(おそらく未だに後頭部にある感触は、足の裏……)
沙羅の推測通り綾香の前蹴りが、奇麗に沙羅の後頭部に突き刺さっていた。