プロローグ~軋む縛め
十数年前に途中まで書いて眠らせていたものを、最近になって書き上げました。毎週土曜日に更新していきたいと思います。
ギチリ……。
その者の身体は、縛めによって、長い年月の間動きを封じられていた。
わずかに身じろぎするだけでもその身体は軋み、不快な音をあげる。
あまりにも長い時間動かなかった──否、動けなかった所為で、その身体は石のように固まっていたのだ。
それほどの長い時を、その者は縛められていた。
しかし「縛め」とは言っても、その者を長年の間、雁字搦めにしていたのは、縄でもなければ鎖でもない。
確かにイメージとしては、縄や鎖という表現が近いのかもしれないが、その縛めには実体が無く、謂わば人の意思──思念のようなものであった。
それはこの世で、最も強固な縛めと呼べる物なのかもしれなかった。
「実体の無い思念の縛めが?」と疑問に思う者も多いかもしれないが、実際のところそれは固く結われた縄や鋼鉄製の鎖よりも強固な物と成り得る。
思念の力は強大だ。
例えば、人がとある物体を持ち上げようとした場合、それはただその物体を手にとりさえすれば、その物体の重量が極端に重くない限りは容易に持ち上げられる。
それは幼児にだって可能な、簡単な作業だと誰もが思うだろう。
しかしそれは、その物体を持ち上げようとする意思の力がそこに介在しなければ、決して不可能なことであった。
まず先に行動しようという意思が無い限り、人の身体は生命活動に必要最低限な機能以外の動作を、勝手にすることはまず無い。
つまるところ、人の活動の全ては意思の力を根源としており、その力によって今現在の人類の繁栄が築き上げられたと言っても過言ではないだろう。
人が思う以上に、意思の力とは強大なのである。
確かにその意思──思念の力そのものが物理的な影響力を有しているとは言いがたいが、現にその思念の縛めによって、その者はこの場に縛り付けられている。
まるで逆らいがたい絶対的な命令であるかのように、何者かの意思がその者の意思を支配してその身動きを封じていたのだ。
ギチリ……。
しかし、いかに強固な縛めであったとしても、その効力は永遠ではない。
それが物質であるのならば、時の経過の中で腐蝕して朽ちていくのと同様に、思念の縛めもまた、時の流れの中でその力を失っていく。
いかにそれが強力な思念であったとしても、 それを生み出した者の寿命は有限であり、その死とともに思念の力の供給は絶たれる。
もっとも、それも新たに受け継いでいく者がいれば、この思念の縛めに力を注ぎ、その繰り返しによってそれは半永久的な物となったのかもしれない。
だが、時の流れに忘却はつきものであった。
長い年月の経過の中で人々は、徐々にこの縛めの意味を失っていく。
何故、この縛めは存在するのか?
この縛めには何が囚われているのか?
その疑問の答えは既に失われて久しい。
いや、そもそも縛めの存在自体も、忘れ去られようとしている。
そして、完全に忘れられた時、この縛めはその意味を無くしてしまう。
何者にもその存在を知られていない物の何処に、存在意義があるのだろうか。
誰にも見られず、誰にも聞かれず、誰にも触れられず、誰にも認められない──それは存在しないも同然だ。
ところが、そこに縛られていた者は違う。
その者もまた、人々はその存在を忘却の彼方に追いやってはいたが、しかしその者の本質は、人々の心の中で潜在的に残っていた。
まるで夜の闇が人々の心に影を落とすように、それは決して人々の心の中から消えることはない。
それは即ち、「恐怖」と呼ばれる物なのだから──。
だからいくらその存在が忘れ去られようとも、その者は決して消えはしない。
人々の心が恐怖を手放さない限り、永久に……。
そもそも、その者自身が意思を持ち、自身の存在を消さないように足掻き続けている。
ギチ、ギチリ。
その者はいつか、縛めを打ち破り──、
そして蘇る。
ギチリ……。
今日中にもう1回更新するかも。