始まってしまった。もう遅い。Ⅰ
昨日のことが頭から離れなかった。
大学の1限が朝起きられずに講義に出席できないのはいつものこととして、2限も開始ギリギリの滑り込みでかなり危なかった。内容も覚えていないし、あれは何の科目だったのだろう。
眠い目を擦りながら何とか4限まで耐えて帰ってきた。取得単位には余裕があるので心配はしていないけれど、これからには若干の不安があった。
不安の原因。それはツバサがやってきたからだ。
『綻び』という化物。私は真正面に受け入れてはいなかった。認識していない振りをしていただけだ。あれがあんなに強くて恐ろしい存在なんだと再認識した。己の弱さを痛感した。
それを教えてくれたのは有り難かったが、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
家のドアの鍵を開けると不安の原因はドタドタと走ってやってきた。狭い部屋だというのに。まるで飼い犬のようだ。
「おかえりなさいっ!って言うんですよね!?そうしたらあなたは!?」
「ただいまというね。」
「おおー。本物だー。」
天使様は異文化に触れて感心しているようだ。一体どこから来たのだろう。ツバサを『天使』そのものだと思っている訳ではない。彼女は自分を『天使に近い存在』と言った。それが何を意味するのか私は知らない。
私はリュックを置くとキッチンで手を洗い、ベッドに倒れ込んだ。
「姫、晩御飯はどうしますか?」
「んー、冷蔵庫にうどんが入ってたような。ツバサはどうする?」
「ああ、あの白いニョロニョロですか。食べてみたいです。」
「じゃあ二人前茹でるか。卵くらいしかないけど。海老の天ぷらとかが乗ってると嬉しいんだけどね。高いんだ。」
このまま寝ようとしていたが、お腹を空かせたツバサのためにベッドから起き上がる。偉い。私もお腹が空いたからだけど。
「あっ。それなら知ってますよ。昼にテレビで見ましたから。エビフライ。」
「うん。それはエビフライだね。ま、似たようなもん。天ぷらという。ちょっと待っとれ。」
厚めに刻んだネギを入れた質素なうどん。ネギを厚めに切るのは具材の役割を担わせるため。ネギをザクザクと乱雑に切り、うどんを茹で、最後に希釈されたつゆをお湯で溶いてかける。時間を要しないから直ぐに二人分が完成した。
こだわりも何もない。そんなものでも、調理の全工程を興味津々にツバサは見ていた。
「いただきます。」
「い、いただきます!」
うどんを啜る。私のうどんはいつもこれだ。最寄りのスーパーで冷凍うどんを大量に購入したから何度でも作れる再現性の高い料理である。簡単に言えば、いつもおんなじ味だ。
・・・美味しい。冬の寒さが味を底上げしてくれている。ツバサにはフォークを渡した。つるつると器用に食べている。
「美味しいですね。このニョロニョロは。スープも飲んだことのない味です。温まります。それに、落ち着く香りがします。」
「そりゃ良かったよ。でも待っていないで食べてれば良かったのに。」
「それは姫も同じです。大学には食堂もあるのでしょう。この国の食べ物は知らないものが多いですが、大学に何があるかくらいは私にでも分かります。」
「そこまで知っているなら。」
「誰かと夕食を囲む。憧れでもありましたから。いつでも好きな料理が工程もなく出てくるのは味気ないものですよ。一人だと尚更に。」
彼女はそう言って、少し悲しそうな顔をした気がした。何か過去にあったのだろうか。
「食べ終わったらでいいんだけど。そろそろ聞きたいな。ツバサが来た理由。」
「それもそうでしたね。あまりにも居心地が良いもので、忘れていました。」
「昨日出会ったばかりなのにね。私も不思議とまるで前から知っているみたいな感じ。」
「・・・適応力が高いですよね。姫は。」
「まあね。ツバサもね。あ、早く食べないとニョロニョロが伸びるよ。」
「む、それは許容できませんね。ちょっと待っててください。ず。」
「ン!ごほっ!げほっ!」
急いでうどんを啜ってツバサが咽せる。
「真似してみたのですが。難しいものですね。よく入りますね。喉に。」
「いや、ちゃんと噛んでるからね。」