スマホは皆が持っているⅠ
出来ることなら転生したかった。
はー、と息を吐く。吐き出す息が白い。雲になることは叶わずに飛散していく。朝、うっかり手袋をしてくるのを忘れたので手が悴む。耐らずに手を擦り合わせたり、息を吹きかけたりして僅かながらの暖をとる。付け焼き刃であったらどんなにマシだろうか。何故ならそれは暖かそうだから。
いつ、雪が降り出してもおかしくない冬の夜。電灯の灯りのみの光が息の白さを際立たせる。
深夜バイトのシフトなんて入れるんじゃなかった。給料が良いという欲が眩んだ。お陰様でこんな時間になってしまった。女一人で歩くにはちょっと不安な狭い道路に自分の足音だけが響く。
コンクリートの壁を目にして左に曲がる。いつもの帰路。壁が最短ルートを阻むのだ。わざわざよじ登り、壁の向こうに侵入する筈もない。面倒だが仕方ない。
壁。阻むもの。人には乗り越えることの出来ない障壁がある。単刀直入に、簡明直截に申し上げるとそれは『死』である。迂回すらできない。
人は死ぬ。だからこそ生に価値を見出す。制限時間ギリギリまでを楽しみたいと考える。しかしながら、残念ではあるが、中々に上手くはいかないのである。幸運そうに生きているように見える他者も多くは、そうではないらしい。常に何か問題を抱えながら人は悩み生きている。
ところで、最も不幸なのはどんなことだろうか。それは考えるに、自分の本意でないままに突然、死を遂げることかも知れない。予告なしに終わるのだ。誠に勝手ながらサービスは終了しましたと。
そんな理不尽を私は許せない。
朗報を一つ。中には稀有な例もある。しかし、同時にその後の人生に齎す影響は私の単なる杞憂であって欲しいと願うばかりである。
突拍子もないことを一つ。剣を手にするということ。嬉々として振り翳してみるがいい。現代社会で当てはめれば直ぐに誰かに通報され、警察に捕まるだろう。そりゃそうだ。そんなことは創作物の中でしか許されない。
唐突な問いを一つ。剣は好きか。
ヒントを一つ。あのとき私は確かに死んだ筈だった。
答えを一つ。おっと、その前に。
「またか。またなのか。君は牙が鋭いタイプなんだね。ああ、恐ろしい。」
卒爾ながら斬撃を一つ。また現れた。何度も何度も懲りずにしつこく執拗に現れたそれに辟易としながら、なんとも気怠そうに私は剣で襲いかかる『障壁』を両断した。
斬られたそれは噴水のように血を吹き出したかと思えば、直ぐに消えていった。日常の中に組み込まれた、こんな非日常は私が生きながらえた対価なのだろうか。
まあ、知らんのだけれど、よく分からないのだけれど、とりあえず私は生きている。
「うう。」
ぶるぶると身体が震える。茶色のダッフルコートの袖に無数の小さな結晶が付いている。ちらほら雪が降ってきたみたいだ。最悪だ。私は寒さに耐えきれなくなり、歩くスピードを早めた。
昔は雪が降ろうものなら、雪だるまだ、雪合戦だと、はしゃいで家から外に出ていった。今、微塵もそんな感情はない。一刻も早く帰りたい。
先程の答えだけ置いて行くこととしよう。
答えは嫌い。勇者には剣を抜いて魔王を倒す運命が定められている。私は剣を抜いたつもりはない。運命に握らされたんだ。
私は誰かを庇った。子どもだろうか、動物だろうか。車にでも轢かれそうだったのか、悪者にでも追われていたのだろうか。詳細な記憶はもうない。私が把握しているのは私がその結果、命を落としたということだけだった。
絶命の瞬間、痛みすら感じることが出来なかったのは幸いと言えるだろう。それすらも記憶から消えているのかも知れないが。
霊体という概念や死後の世界について私はそれらの存在を肯定できる確証は持ち合わせていない。けれども、驚くべきことはあった。
あの絶命の瞬間に誰かが私に言ったのだ。
『お前を死に至らしめた障壁を乗り越えてみろ。』
私に返答をする余裕と猶予はなかった。落とした命と引き換えにゆらめく黒いオーラを纏った大剣を私は手にして、それを振り下ろした。