第九章 夜明け前の再会
柚月は大通りから横道に入り、武家屋敷の間を北に急ぐ。日が落ちてきて、空がだんだん黒く染まっていく。城が、日之出峰に隠れた。が、まだ距離がある。もどかしい気持ちで睨む日之出峰の上を、黒い点が越えてきた。どんどん近づいてくる。柚月は馬を止めた。その頭上を、黒い点が通りすぎ、まっすぐ本陣に向かっていく。
椿からの返信だ。柚月はほっとして、笑みが漏れた。椿に知らせが届いたのだ。これで、椿と剛夕が、七輪山に向かうことはない。開世隊と鉢合わせすることはないだろう。
残るは、開世隊、いや、楠木だけだ。
柚月は再び馬を走らせた。
都の北北東の端、田沼邸の奥に隠されて、日之出峰の入り口がある。不思議と厳かな空気が漂っていて、鳥居こそないが、神社の参道のような小道が、山の中に向かって伸びている。神社みたいだな。柚月の感想もそれであった。
馬で登れそうだが、目立ちすぎる。柚月が馬を降りると、ちょうど蹄の音を不審に思った田沼邸の下人が、裏木戸から恐る恐る顔をのぞかせた。下人は柚月の顔を知っていた。
「あなた様は、確か、雪原様の。このようなところに来られるなど、どうなさったのです。」
そう聞きながら、ただ事でないことは察している。柚月が馬を預かってほしいというと、「今から山に入られるのですか?」と止めた。そこに十二番隊が追い付いて、下人は、それ以上止めなかった。袴を着け、ハチマキを巻いた田沼の奥方も現れ、「とにかく上を目指されることです。この山は、頂上までまっすぐ伸びていて、沢もない。途中、下ることはありません。」と助言した。代々この日之出峰への入り口を守ってきた田沼家、その奥方もまた、ことの重大さを察している。
奥方は先頭を行く柚月を見て、あんな若い子が。と、胸を痛め、無事を願って手を合わせて見送った。
山道を駆け上がる柚月は、恐ろしく速かった。日頃訓練している陸軍の人間が、誰一人ついていくことができない。鎧ひとつつけていない装備の軽さのせいもあるだろうが、それだけではない。
「さすが、雪原様のお抱えなだけある。」
ただ者ではないな。息を切らせながら、一人が言った。
柚月はさらに速度を上げ、どんどん小さくなって、見えなくなった。
中腹まで来たところで、柚月は足を止めた。すっかり日は落ちている。あとは闇が濃くなるだけだ。十二番隊は気配すら感じない。山に不慣れな隊は、今夜はひとまず歩を止めたのだろう。
木の間から、都を一望でき、遠く、南西の空が赤く染まっているのが見えた。火の手が上がっている。宿場町の方だ。
朝の砲撃では、被害はなかったはず。とうとう都への侵入を許したか。柚月の顔が、苦々しくゆがむ。
沸き起こった焦りを抑え、柚月は木の幹に背を預けて座った。木の葉の隙間から、満点の星空がのぞいて見える。
『すっげえきれいだなあ。』
ふいに、義孝の声がよみがえった。萩の星空も、きれいだったな。柚月は義孝に話しかけるように、そう思った。懐かしさがこみあげくる。清上がってきた涙をこらえた。
少し冷えてきた。腕をさすりながら、会いたいな。と思う。義孝に会いたい。また、どうでもいいことで笑いあいたい。でも、それと同じくらい。会いたくないとも思う。いや、会うのが怖い。次に会うときは、敵同士なのだ。治ったはずの脇腹が、チクリと痛んだ。
朝の匂いが漂い始めた頃、柚月は日の出が近づいているのを感じて起き上がった。
まだ暗い。が、先を急ぎたい気持ちを抑えきれず、再び登り始めると、少し開けた場所に出た。斜面に対して楕円状に木が生息していない。
と、突然、銃声とともに、柚月の顔前を風が切った。そこに、さらに銃声が響き、柚月は茂みに飛び込んだ。幸い草が生い茂り、身を隠してくれた。葉の隙間から伺い見るが、敵の姿は見えない。暗い。だが、それは相手にとっても同じだ。互いに出られない。
柚月は楕円の広場の淵を沿うように、木の陰を伝いながら、弧を描いて敵に迫る。草の音が、柚月の移動を知らせ、それを狙って銃撃が始まった。連射はされない。不規則な銃声から、二人が別々に撃っていることが分かる。柚月はあっと言う間に距離を詰めた。草の音が近づいてくる、その恐怖が焦りとなり、不注意にも男が一人、銃を向けたまま木の陰から飛び出した。柚月は瞬時に速度を上げると、大きく踏み込んで小手を打ち、男の手から銃が飛ぶと同時に右薙ぎに払った。男は勢いよく倒れた。もう一人の男の悲鳴が聞こえ、逃走の足音が遠のいていく。足元の男は、息はしているようだが、気を失っているらしい。なにか、大きな輪のようなものを背中に括り付けている。触ってみると、輪ではなく、大きな車輪だと分かった。柚月による傷よりも、その車輪の重さに圧死するのではないかと思うほど、重い。
なぜこんな物を背負っているのか。そして、なぜ、日之出峰にいるのか。疑問がわいたが、それよりも。と柚月は思う。
暗くて傷のほどは確かめられないが、斬った感触から、致命傷にはならないだろう。とどめを刺すべきだ。分かってはいるが、迷った。迷った末、男が輪を括り付けている縄を解き、それで男の手を後ろ手に縛った。
「優しすぎるんだよ、お前。」
義孝の声がした。だが、今度は記憶の中ではない。今のは、確かに、耳で聞こえた。
柚月は、ゆっくり振り向いた。
この暗さでもわかる。その姿。義孝だ。
「なんで、ここに・・・。」
柚月の口から漏れ出た問いには答えず、義孝は静かに構えた。柚月も刀に手をかけ、息を整える。額に、嫌な汗が湧いた。義孝は構えながら、すり足で左に回る。互いににらみあいになった。
膠着を破ったのは義孝の方。大きく踏み込み、右袈裟に切り込んできた。柚月はそれを刀で受けてはじき、逆に切り込んだが、それも受けられた。にらみ合った。合わさった刀が、ギリギリ鳴っている。
五分と五分。いや、本来なら、柚月の方が上だ。だが、柚月には迷いがある。それが太刀筋を鈍らせる。
義孝が力で柚月を押しのけて小手をうち、それを柚月がかわして、間合いを取り、またにらみ合いになった。
空の闇に、ゆっくりと、薄く、白い光が混ざっていく。夜明けが近づいている。
左腕を狙った柚月の突きを、義孝が払い、そのはずみで、柚月の手から刀が飛んだ。義孝が勝利を確信し、振りかぶる。その一瞬、柚月が胴を打ち込んだ。鞘だった。だが、効いた。義孝は、仰向けに倒れ、大の字になったまま、動けない。
柚月は刀を拾い上げて義孝に近づくと、振りかぶった。突き刺すように握られた刀が、義孝の心臓を狙っている。
殺られるな。義孝は思った。でも不思議と、本当はずっと、こうなることを望んでいた気がする。目を閉じると、その目に、じわりと涙がにじんだ。
柚月の呼吸が聞こえる。肩でしているのだろう。ずいぶん荒い。それが、意を決したように、一瞬、止まった。
風を切り、刀が突き刺さる音。続いて、静寂の中に、再び柚月の呼吸が響き始めた。
その音が、聞こえている。義孝は、目を開いた。
目の前に、柚月の顔があった。義孝に覆いかぶさるように、突き立てた刀で上体を支えている。その刀は、義孝の顔のすぐ横で、地面に刺さっていた。
柚月は刀から手を放すと、ごろんと大の字になって横たわった。広げた片方の手が、義孝の胸の上に乗っかっている。
懐かしい。すっかり忘れていた。義孝の中に、遠い記憶がよみがえる。子供の頃、よくケンカしては、お互い疲れ果てて、こうして並んで大の字になった。
張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。それと同時に涙が溢れてくる。止められない。義孝は片手の甲で、それを隠した。
「なんで俺、お前を刺しちゃったんだろうなあ。」
後悔しかなかった。あの瞬間から。でも、後悔していないふりをしてきた。そうでなければ、生きていけそうもなかった。楠木は正しいと信じてきた。だから、柚月を裏切り、殺そうとまでした。でも、気持ちは揺らいでばかりだった。本当に正しかったのだろうか。親友を利用し、その命を奪うことの先に、自分が望んだものがあるのだろうか。信じて来たものは、正しかったのか。自分は、いったい、どんな未来を望んでいたのだろう。迷い、揺らぎ、光を失った。暗闇に放り出され、道を見失ってしまった。あの夜からずっと、その暗闇をさまよってきた気がする。
「ごめん。」
義孝は、顔を隠したままそう言った。柚月からは笑みが漏れた。拳で軽く義孝の胸を小突く。小突かれたところを抑えながら、義孝も笑った。
長いケンカが、ようやく終わった。
二人が並んで見上げる先で、空の闇は、淡い紺に変わりつつある。
「お前、随分立派になったよな。」
義孝が空を見上げたまま言う。
「え?」
「いい着物着て、陸軍総裁様のご一行に交じってさ。」
「見てたのかよ。」
柚月は笑った。
「俺はいつも、お前がうらやましかったよ。お前は下級だっていうけど、れっきとした武士だしな。俺はどうあがいたって、百姓出だ。それは変えられない。」
柚月はちらりと義孝を見た。義孝は、遠く、空を見上げている。
「武士になりたかった。変えたかったんだ。自分を。」
義孝は目を閉じ、噛みしめるようにそう言った。言い訳か、謝罪か。
「知ってる。」
柚月は、すべてを受け入れるようにそう言った。
義孝は、誰よりも武士に憧れていた。初めて刀を与えられた時の、あのはじけるような、喜ぶ義孝の顔を、柚月は今も鮮明に覚えている。
「あの頃は、よかったな。」
義孝が懐かしそうに言う。明倫館で過ごした日々。川で魚を取ったり、山で虫取りしたり。年長の者にいたずらして、共に叱られることもしばしばだった。楽しかった。
あの頃、何も持たない自分たちは、希望だけがあった。語り合う未来は、いつも明るかった。その未来を懸命に目指してきた。はずだった。
あの頃に帰りたい。義孝は、どうしようもなくそう思った。
これも、後悔だろうか。
虚しかった。
あの頃思い描いた未来は、どこに行ってしまったのだろう。どこで、見失ってしまったのだろう。
義孝は、大きなため息をついた。
柚月は義孝の気持ちが伝わり、
「でっかいため息だな。」
と、茶化した。慰めだ、ということに、義孝は気づいている。
「うるせえよ。」
義孝は、笑みを漏らした。
「もうすぐ夜明けだ。」
柚月がぽつりと言う。
空が、またわずかに明るくなっている。
「この国も。」
柚月は、ゆっくり上体を起こした。
「義孝。」
義孝が視線だけ向けると、振り向いた柚月と目が合った。
「一緒に生きよう。新しくなる、この国で。」
義孝は目を見開いた。
優しくて、明るくて、それでいて意志の強い目。今、義孝を真直ぐに見つめているのは、昔からよく知っている柚月のそれだ。
こみあげてきたものを、義孝は必死でこらえ、空を見上げた。
「そうだな。お前がそういうなら、そうしてやってもいいよ。」
柚月がまた義孝を小突く。「やめろ」と、じゃれあいながら、義孝は決意した。
もう二度と、こいつを裏切らない。
柚月は、ゆっくり立ち上がると、
「あとでな。」
と、義孝を残し、先を急いだ。義孝は「おう。」と応え、寝転がったまま、遠のいていく柚月の背中を見送った。