第三章 事実と変化
その夜、柚月は眠れず、廊下に座って空を見上げた。月は出ていたが雲が多く、雲が月を隠しては暗くなり、雲間から月が覗いては、頼りなげな明かりが届く。
ふいに、楠木と杉の姿が浮んだ。それをかき消すようにガシガシと頭を掻いていると、雪原がやってきて、柚月の隣に黙って座った。
「柚月。」
穏やかな声だ。だが、重い響きがある。
「本当は、栗原一華というのではないですか?」
突然、思いもよらぬところから、腹の中の深いところに手を突っ込まれたような衝撃だった。柚月はわずかに、「え。」と漏らして、目を見開き、雪原を見た。雪原の穏やかなまなざしが、真直ぐに柚月を捉え、「そうなのでしょう?」と、問うている。
雪原が密かに抱いていたこの疑念は、横浦の市場で、柚月が「栗原」の名に振り向いた時、確信に変わった。あれは、呼ばれ慣れた名に、無意識に反応したのだ。だが、柚月は、雪原にその様子を見られていたことに気づいていない。本当に何でも分かるんだなと、恐ろしくも感心した。
「もう、捨てた名前です。」
そう認めて、うつむく。口元はわずかに笑んでいるが、目が悲しい。
「捨てる必要はありませんよ。ただ、隠しておいた方が賢明でしょう。柚月と名乗るように言ったのは、楠木だったのではないですか?」
「そう、ですけど。」
雪原は頷いた。
「栗原権十郎という人を知っていますか?」
柚月は首を振る。
「あなたからすると、おじいさんくらいの年の方ですよ。二代前の将軍の頃から仕えた方で。元は下級武士だったのですが、剣の腕一つで陸軍総裁に上り、将軍のおぼえめでたく、参与に迎えられ、ついには、宰相にまで上り詰めたお方です。」
柚月は驚いた。下級武士が陸軍総裁にまでになっただけでもすごい話なのに、さらに、参与にまで。参与とは、この国の政を行う国政会議に参加できる役人で、実質国を動かしている人間だ。決まった定員はないが、だいたい五~十人程度、基本的に、代々決まった家の出の者で構成される。雪原家もその一つだ。宰相とはさらにその上。将軍の補佐役だ。適任者がいなければ、置かれないことさえある。現に今はいない。
「そんな出世、異例中の異例です。ですが、それに値する人物でした。彼が国政に携わっている間は、本当に良かった。彼は弱い者を助け、国を豊かにしようとしていました。」
その頃を思い出しているのか、雪原の顔は明るい。
「ですが、それだけ当然、嫉妬もあります。参与の一人が辻斬りにあうという事件が起きましてね。ケガをしただけで済んだのですが、その人物が、犯人は栗原権十郎だと言い出したのです。誰も彼に味方しなかった。その騒ぎの責めを受けて、彼は失脚し、妻子を連れて都を離れたのです。」
雪原は苦々しい顔になり、
「私は今でも、あれは濡れ衣だと思っています。」
と、加えた。
「都には、特に市民の中には、今でも栗原権十郎を慕う者が多くいます。都で栗原の名は目立つ。そのことを、楠木は知っていたのでしょう。」
雪原は微笑んだ。
「いい名です。時代が変われば、また名乗ればいい。」
「俺、その栗原さんと、なんも関係ないですよ。」
柚月は笑った。
「下級武士っていうところは一緒ですけど、武士っていうのもおこがましいくらいの貧乏な長屋育ちで。親父は近所の子供に読み書き教えてるだけで、刀を抜いているところなんて見たこともなかったし。正直、この刀も、錆びついて抜けないんじゃないかと思ってたくらいです。」
そう言って脇に置いていた刀を持ち上げた。その刀を、雪原はじっと見つめる。やはり、と思う。
「確か、御父上の形見でしたね。」
「はい。」
「御父上以外、親戚もいない。」
「はい。母親も、俺が小さい頃に死んじゃって、顔も覚えてないくらいで。」
「そうですか。」
雪原は、もう一度、柚月の刀をちらりと見た。古い、無名の刀。だが、雪原は、その刀に確かに見覚えがあった。
それからまたしばらく、雪原は別邸に来なかった。時折、母屋の方から鏡子の三味線の音色が聞こえてくる。静かな日が続いた。
にわかに玄関のあたりが騒がしくなったのは、十日ほど経ってからのことだ。雪原だなと、柚月は察した。何か新しい情報があるのか。気が逸ったが、母屋に繋がる渡り廊下まで来て、足が止まった。母屋から、鏡子の嬉しそうな声が聞こえてきて、そこに雪原と椿の、楽しそうな声も交じった。柚月は離れの部屋に戻り、大の字になった。天井が見える。他人の家だな。柚月は目を閉じた。
そのまま眠ってしまっていたのか、人の足音に飛び起きると、あたりは薄暗くなっていた。
雪原がひょっこりと顔を出し、
「柚月、こちらで一緒に食べませんか。」
と言う。
連れられて行くと、部屋にはすでに鏡子と椿が座っていて、四人分の夕食が準備されていた。
鏡子が茶碗に飯をよそって渡し、柚月は不思議な気持ちで受け取った。
皆で食べる。雪原と鏡子が何でもないようなことで笑いあい、それに椿も交じって笑っている。
懐かしい。柚月は記憶が重なった。萩にいた頃、明倫館では塾生が皆集まって食事した。それぞれに夢や思想を語り合い、くだらない冗談も言いあった。男ばかりでにぎやかだった。楽しかった。
都に来てからも、食事は開世隊の皆とともにとることが多かった。だが、孤独だった。政府の要人の暗殺があるたび、皆喜んでいた。柚月の手とも知らずに。仲間にも言えない秘密を抱え、人を斬っているという自責の念ばかりが募っていく。何を口にしても、味を感じなくなっていた。
「お口にあいませんか?」
鏡子が柚月をのぞき込む。
「ああ、いえ。うまいです。」
「そう、それは良かった。私、旧都の味付けだから、薄すぎるかなって。気になっていたのですよ。」
鏡子がそう言うと、
「鏡子は、旧都の出なのですよ。」
と、雪原が加えた。
柚月は味噌汁を口にした。温かい味が、口いっぱいに広がる。
「うまいです。」
噛みしめるようにそう言った。
その夜、柚月は行燈の灯りを消しても落ち着かず、布団の上にごろりと寝転がった。胸が温かく、満たされた気持ちなのは、腹が満たされているからではない。天井が見える。他人の家だ。だが、安らいでいる自分がいる。他人の家だ。柚月は自分に言い聞かせた。
ふと、障子に人影が映り、柚月は跳ね起きた。廊下を行くものではない。庭だ。柚月は静かに刀を握り、障子戸をわずかに開け、覗き見た。庭を一人、男が歩いていく。いや、この気配のなさ。椿だな。と柚月は気づいた。男装をし、腰には刀を差している。
人を斬りに行く。柚月は直感した。
そっと部屋を出ると、裏木戸から出ていく椿を追った。
夜、椿を追うのは至難の業だ。なんせ気配がない。目だけが頼りだ。しかし、距離を詰めすぎると気づかれる。ギリギリの距離を保ちながら後をつけた。月明かりが弱い。見失いそうだ。柚月はもどかしさを抑えて、懸命に追った。
椿は音もなく、影のように進んでいく。都の東に向かい、寺町に入った。
こんな所に、いったい誰がいるというのか。柚月がそう思い始めた時だった。椿が突然駆け出した。柚月も家の陰から飛び出したが、同時に、足音が聞こえてきて、再び陰に身を潜めた。数人。いや、一人を数人が追っているのか。近い。耳を澄ます。道が入り組んでいるらしく、足音も複雑だ。椿も見失ってしまった。いったん離れよう。そう思って動いた時だった。
「柚月。」
男の声に、柚月は振り向いた。しまったと、咄嗟に構える。暗い。男が月を背にしていることも重なり顔は見えないが、帯刀していることは分かる。柚月はすり足で横にずれながら、目を凝らした。
「生きてたんだな、お前。」
男の声に、感動のような響きが混ざっている。聞き覚えのある声だ。記憶と、おぼろに見える姿が合致した。
「永山さん。」
開世隊の者だ。明倫館から一緒に過ごしてきた。そして、あの日、あの山小屋にいた一人だ。
柚月は鯉口を切った。ためらいが無かったわけではない。
「来るな。」
永山が制するように言う。
「すまなかった。一華。」
そう言うと、永山は家の間の小道をかけて行った。
どういう意味だ。あっけにとられた柚月は、家の陰から永山が去った方を覗き見た。暗くて何も見えない。だが、遠ざかっていく足音が、わずかに聞こえてくる。足音が、一つ、増えた。続いて、争うような音。男の声も混ざっている。だが、すぐに収まった。不気味なほど静かだ。
柚月は椿のことがよぎった。まさか。一つ息を吐くと、静かに音の方に近づいて行った。
目的の場所は、遠くなかった。 隠れる様子もなく、立っている人影が一つ。その足元に、黒い山がある。おそらく人だ。
柚月は壁に背を当て、息をひそめ、にじり寄る。
「誰だ。」
突然影が声を発し、柚月はビクリとして固まった。影が柚月の方へ向いた。男だ。この声。知っている。染みついている。忘れるわけもない。手が震えた。
楠木だ。
近づいてくる。どうする。斬るか。でなければ、斬られる。脅えたように、柚月の刀がカタカタと鳴りだす。
迷っている間に、楠木はすぐそこまで来ている。刀を握り、歩を速めてきた。が、突然振り返り、素早い動きで後ろからの一刀を払った。
後ろから楠木に切りかかった者は体勢を立て直し、すぐに二刀目を繰り出す。刀がかち合う音が響いた。
ほかの足音が近づいてきた。数人いる。楠木は襲い掛かってくる刀を払いのけると、さっと立ち去った。柚月は、追おうとする襲撃者の腕を掴んで止めた。柚月には誰だか分かっている。そして、思った通り、腕を掴まれた椿が振り向いた。
「追うな。」
楠木の剣の腕は一流だ。椿の腕がいかほどであっても、ただでは済まない。椿の腕を掴む柚月の手に、力がこもる。楠木の姿はもう見えない。椿はあきらめざるを得なかった。だが、椿が刀を納めるより先に、数人の男が現れ、どういうわけか、先頭の一人が、問答無用で襲い掛かってきた。
柚月が受けた。刀で押し合う。互いに顔が見えた。
「柚月。」
男が忌々しそうに言う。これも開世隊の者だ。だが、明倫館出ではない。確か、横田とかいったか。都に来てから開世隊に参加した者で、よく松屋に来ていた。
「お前のせいだ。お前さえ。」
横田がはじき、瞬時に柚月が右薙ぎに切って、横田は倒れた。
それを見て、ほかの者は逃げ出した。遠のいていく足音を聞きながら、柚月は刀を納めた。
「帰ろう。」
椿にそう声をかけて歩み出すと、その後ろで、横田がゆらりと起き上がり、執念で柚月に切りかかってきた。柚月が振り向き座様に抜刀しようとした、その瞬間。
椿の刀が、雷のように横田の額を割った。
柚月は目を見開いた。時がゆっくりと流れ出したようだった。横田が額から血を吹き上げながら、背中から崩れていく。どさりと無抵抗に地に落ちると、動かなくなった。絶命している。
ゆっくりと椿の方を見る。呼吸も乱さず、静かに横田を見下ろしている。今目の前で起こったことは幻だったのかと思うほど、平然としている。だが、その手に握られた刀、そこから滴る血が、変えようのない事実を示していた。柚月は目を見開いたまま、言葉が出ない。椿は、刀に付いた血を振り払うと、懐紙でふき取り、納めた。
「帰りましょう。」
茶屋の席を立つような調子で言う。微笑みさえ浮かべて。その頬には、横田の返り血が飛んでいるというのに。
歩み出す椿の手を、柚月が掴んだ。刀を握っていた手。横田を斬った手。柚月は、その手を、両手で包み込むように握った。そして、じっと見つめ、見つめながら、泣いていた。
邸までの道中、柚月は椿の手を放さなかった。互いに一言も発せず、椿は柚月に引かれて帰った。
裏木戸から入ると、柚月はすっと手を放し、肩越しに、
「おやすみ。」
と言うと、部屋に戻っていった。
翌朝、寺町で、横田と永山の死体が見つかった。
柚月は朝食を断った。昼もいらないという。雪原が部屋に覗きに行くと、頭まですっぽり布団をかぶって床に伏していた。
鏡子は心配して、医者を呼んだ方がいいかと言ったが、雪原が止めた。椿から事情を聴いている。しばらくそっとしておくように言うと、城に呼ばれていると言って、出て行った。
昼過ぎ、椿が離れにやって来たが、障子戸に手をかけたまま、動けなかった。怖かった。何が、と問われると、椿自身、答えは分からない。しばらく思案したが、そのまま引き返していった。
椿の影が去っていくのを見て、柚月はのそりと起きあがった。頭をガシガシと掻く。部屋の隅には、鏡子が持ってきた握り飯が置いてあった。
廊下に座り、庭を見ながら、握り飯を一口ほおばる。やはり、うまい。
日が傾きかけた頃、雪原が帰ってきた。離れに行くと、柚月は廊下で胡坐をかき、ぼんやり庭を眺めていた。背中を丸め、元気はなさそうだが、少しは気持ちの整理がついたのか、幾分すっきりした顔をしている。
雪原は隣に座って、同じように庭を眺めた。
「惚れた女が人を殺めるところを見て、傷つきましたか。」
柚月は目だけで雪原をちらりと見ると、また庭に視線を戻した。
「やっぱり、惚れてますかね、俺。」
「そうでしょうね。」
「そうなんですかね。」
「ええ。」
「・・・そっかぁ。」
と漏らす。いつからか分からないが、そういうことらしい。柚月は、指を軽くこすり合わせるように動かし、ぴたりと止めた。
「楠木・・・を、斬らせるつもりだったんですか。」
雪原が答えるのに、やや間があった。
「ええ。」
互いに庭を見つめたままである。
「開世隊は今、分裂しています。おそらく、あなたの一件から小さな亀裂が生じていたのでしょう。そして、楠木が杉を身代わりにしたことで、それがより明確になった。杉についていた者が楠木を襲い、そこから、内部抗争に発展したようです。」
なるほどなと、柚月は思った。
永山は杉を兄のように慕っていた。昨夜の様子。楠木を討とうとして失敗し、逆に追われていた、と考えれば説明がつく。横田の方は、開世隊そのものに憧れを抱いていた。その開世隊が分裂したのは柚月のせいだと思い、恨んでいたのだろう。
「当然、楠木側が優勢です。それどころか、萩の後ろ盾も得て、ますます勢力が増しています。今、楠木は、一番の危険人物です。」
日暮れは速い。太陽が山に向かいだすと、天上から広がってきた黒い幕が、あっという間に、太陽を山に追いやっていく。その光が織りなす、橙から紫、紫から黒へと流れる空の変化の中、漂う雲は、太陽の最後の光に照らされて、懸命に白く輝いている。
柚月の脳裏に、楠木の顔が浮かんだ。笑っている。思い出されるのは、萩にいた頃。何もかもが、楽しかった頃。師であり、父だった。そんな楠木と過ごした日々。
なぜ、そんなことばかり思い出すのか。恨めしく思う。
柚月はぐっと拳を握りしめた。
「楠木は、俺が斬ります。」
柚月の目に、強い光が宿った。
「俺が、斬ります。」
宣言か自身への暗示か。柚月は繰り返した。拳が、強く握られている。
すまない、そう思いながらも、雪原は口にはしなかった。代わりに、
「ご飯にしましょう。」
と、微笑んだ。
雪原とともに柚月が現れ、鏡子が安堵したことは言うまでもない。柚月の茶碗には、いつもより多めに飯が盛られた。雪原が、「多すぎませんか?」と笑い、その様子を微笑みながら見ていた椿は、不安げな目でちらりと柚月を見た。気づいた柚月が、にこりと応えると、椿はぱっとうつむいた。その口元は、安堵したように微笑んでいる。
食事のあと、雪原は柚月と椿を呼び、旧都へ供をするように告げた。