第二章 目覚め
それから五日間、柚月は高熱にうなされた。うなされながら、夢を見た。あれは、三年前。都に来た日、日が落ちてからのことだ。呼ばれて部屋に行くと、楠木が窓辺に立っていて、月が明るく、後光のようだった。
「政府と対話の場を持ちたい。」
柚月が座ると、楠木は徐に話し出した。
「だが、今のままでは無理だ。我々は志はあっても、国の後ろ盾もない。立場が弱すぎる。これでは、政府の者と同じ席につくことさえできない。例えそれがかなったとしても、対等に話し合うことなど到底できない。」
楠木は、核心を突くような口調に変わる。
「政府の力を、弱める必要がある。」
柚月は、楠木のまなざしを、恐ろしく感じた。
「一華。」
「はい。」
緊張が走る。いつもの楠木と違う。それが、柄も知れず恐い。
「お前に、参与、居戸寄親を暗殺してもらいたい。」
柚月は、一瞬耳を疑った。そして次第に、その言葉の重みに手が震えた。冷たい汗が、首筋を伝う。
「我々の内で、お前が一番腕が立つ。ほかの者がやれば、そばにいる家臣や護衛も斬らざるを得なくなる。だが、お前なら、ほかの者を殺さずに、居戸だけを殺れるだろう。余計な殺しをしなくて済む。」
柚月は硬直し、楠木から目を逸らすことができない。固く結んだ唇が震えている。
「お前がやらなければ、ほかの者がすることになる。」
柚月は、ぎゅっと拳を握りしめた。その様子を見て、楠木の口角がわずかに上がった。柚月に背を向け、空を見上げる。
「きれいな月だな。」
背を向けているが、楠木は柚月に語り掛けている。
「柚子みたいに真ん丸だ。」
楠木の背中越しに、きれいな満月が浮かんでいるのが、柚月にも見えた。
「夜の闇を、明るく照らしてくれる。お前も、あの月と同じだ。」
楠木が、ゆっくりと振り向く。真直ぐに楠木を見つめる柚月の顔は、不安や恐怖に耐え、重圧に押しつぶされそうになるのを、必死に堪えている。が、その目には、純粋な光が宿っていた。
「これからお前は、柚月一華だ。」
それは、人斬りの名。その名で、人斬りとして生きろと言う宣告。柚月は、ぐっと拳を握りしめた。
「はい。」
迷いがなかったわけではない。だが、ほかに道もなかった。
案内役の真島と松屋を出た。義孝もついて来た。顔に緊張を張り付けて。
見知らぬ都の道は、永遠のように長く感じられた。できれば、永遠に続いてほしかった。
だが、残酷な現実がやってくる。
人の気配がし、立ち止まった。塀の陰から様子をうかがうと、四~五人の集団が見える。
真島が顎で指し、義孝は、震えながら親友の背中を見守った。
柚月は高まる鼓動を抑え、呼吸を整える。
行くしか、無いんだ・・・!
ぐっと唇をかみしめると、一人、飛び出した。
「居戸寄親殿とお見受けいたす!」
中央にいた男が振り向いた。同時に、ほかの男たちがその男をかばうように囲い、構える。
「何者だ!」
一人がそう言うと、柚月はその声の主を抜刀と同時に切り払い、続けざまにほかの男たちも切った。
あっという間の出来事に居戸は腰を抜かし、逃げようとするが、体が動かない。
「助け・・助けて・・・くれ・・。」
居戸の脅え切った目が、柚月の目とあった。鬼のような、冷たい目。情を宿さない、人斬りの目。
「新しい、国のために。」
己に言い聞かせるようにそう言うと、柚月は居戸の心臓を貫いた。
わずかなうめき声を残し、居戸の躯が地面に横たわる。
刀を抜くと、夥しい量の血が吹き上がり、雨のように降り注いだ。それに打たれながら、柚月は、じっと地面を見たまま立ち尽す。肩が、大きく上下している。
妙に静かだった。自分を濡らす生暖かい血の雨も、あたりに立ち込める、鼻がイカレそうになるほどの血の匂いも、何もかもが、遠くに感じた。ただ、肉を刺し骨を砕いた感触が、一人の人間の命を奪ったという重圧が、生々しく手にこびりついている。
倒れていた男がわずかに動き、地面に落ちた刀を握った。その気配に、柚月は我に返った。ほかの男たちも、うめきながら、わずかに動いている。
柚月は男たちをそのままに、素早く真島たちの元に戻った。
「よくやった。」
そう言って柚月の肩をたたいた真島は、驚きと脅えが混ざった複雑な顔をしていた。
駆け出した真島に続こうとすると、柚月はぐっと腕を強くつかまれた。振り向くと、義孝の顔があった。心配そうな、だが、励ますような顔だ。それを見て、柚月の目から鬼が消えた。緊張の糸が解け、微笑む。義孝もニッと笑った。二人は一緒に、都の闇を走り出した。
目が覚めると、見知らぬ天井があった。柚月はのそりと起き上がり、障子戸を開けて、廊下に出た。世界が真っ白に見えるほど眩しい。
光に慣れると、目の前は庭だった。広くはないが、よく手入れされている。その上で、空は青く、晴れ渡っている。
柚月は腰を下ろした。柔らかな風が吹き、遠くの方から、お祭りのような音がわずかに聞こえてくる。
嫌なくらい穏やかに晴れ渡った空だ。その中に、黒い点が一点舞っている。鳶か。それにしては大きいようにも思う。高いところで、大きな円を描いている。
頭の中の霧が徐々に晴れていく。刀を抜き、取り囲んできた仲間。暗く険しい山道。ふいに脇腹が痛んで、手を当てた。義孝の顔が浮かんだ。そして、楠木の、残酷な声も。
もう、帰る場所はないんだな。ぼんやりとそう思った。頭をガシガシと掻く。思いのほか、手に力が入らない。
「もう、起きて大丈夫なのですか?」
椿だった。やはり、気配がない。椿は、柚月の隣に座ると、手に持っていた薬箱と、それに乗せていた湯を張った盥を置いた。
「包帯、替えさせて下さい。」
そう言って、やはり半ば強引に柚月をもろ肌脱ぎにさせると、手早く包帯を解き、傷の消毒をして、新しい包帯を巻きなおす。続けて、湯で手ぬぐいを濡らし、柚月の体を拭こうとすので、柚月は慌てた。
「自分でするよ。」
と、手ぬぐいを受け取ったが、うまく握れず、ぼとりと落とした。その様がなんだが滑稽だった。椿はくすくす笑いながら手ぬぐいを拾い、濡らしなおすと、柚月の腕を拭き始める。情けないやら、恥ずかしいやら。柚月はおとなしく従うよりほかない。
椿の手や顔には、やはり小さな傷がある。夢じゃないんだな。柚月は、改めてそう感じざるを得ない。ふいに
椿が顔を上げ、目が合った。
「ありがとう。いろいろ。」
柚月は気まずさをごまかそうと慌てた。椿はそれを気にするふうもなく、「いえ。」と微笑むと、手ぬぐいを濡らしなおし、続けて背中を拭き始める。じっと、恥ずかしさに耐えていると、ふと視線を感じ、柚月は思わず声を上げた。椿も柚月の声に驚き、振り返った。廊下の角から、雪原が顔だけをひょっこりのぞかせている。
「あ、気にしないでください。」
雪原はひらひらと手を振る。心なしか、にやにやしている。どうして気にしないでいられよう。柚月は、なんだか変な焦りが湧き出てきて、する必要もないのに言い訳しを口走りそうになった。椿は冷静に雪原が来た理由を察している。手早く柚月の体を拭き終えると、柚月と雪原、それぞれに一礼して下がっていった。
「すみませんね。お邪魔してしまって。」
雪原は柚月の隣に腰を下ろした。
「いえ。むしろお邪魔してるのは、こっちです。すみません。長居してしまって。」
そういう意味ではない。雪原は思わず笑ってしまった。やはり、少年だなと思う。
「いえいえ。ここは別宅ですから。うちの者しか出入りもしませんし、遠慮する必要はありませんよ。」
「別宅?」
「ええ。愛人を囲っているもので。」
「え?」
柚月は変な声が出た。「愛人」なんて言葉が出てくるなんて、思ってもみなかった。それも、挨拶みたいにさらりと。やはり住む世界が違う人なのだと思うと同時に、確かに、夢うつつ、椿以外にも世話をしてくれる人がいたことと思い出し始めた。一人は医者だったように思う。白い服の男だった。それともう一人。椿より年長の、大人の女といった感じの人だった。じわじわと、その顔が思い出される。そして、雪原は面食いだな、と思った。
「今、面食いだなって思いました?」
雪原が柚月の顔を覗き込む。
「え!?いえ。」
素っ頓狂な声が出た。本当にぞっとする。雪原には、腹の内をすべて読まれるようだ。
「本宅には、妻も息子もいるので、ちょっとね。」
雪原は顎を撫でながら、苦笑いする。
「そう・・なんですね。」
何と応えればいいのか分からない。柚月は中途半端な愛想笑いを浮かべながら、うつむいた。
雪原はそれを気にせず、一変、顎から手を放して、すっと真剣な顔になった。頭の中は、本題に移っている。
「剛夕様と、対談の場を持つことができましたよ。」
柚月ははじかれたように雪原を見た。
「和解を取り付けることができました。とりあえず、総攻撃とやらは、防ぐことができましたよ。」
「そう、ですか。」
柚月は安堵し、胸が軽くなった。
「これからですよ。」
雪原は、険しい顔で続ける。
「対談の場に、開世隊の幹部たちも同席していたのですが、率いてきたのは、杉でした。」
「え?」
「さらに、萩の国主、松平実盛様が、今回の騒動のお詫びに、登城されることになりました。」
「松平様が?」
柚月は、息をのんだ。実盛は、開世隊の存在を黙認していた。楠木は萩では国の役人ではあったが、下級役人だった。そのため、実盛としては、都合が悪くなれば楠木ごと切り捨てるつもりだったのだろう。だが、実盛が詫びに来るということは、萩が開世隊を認めたことになる。開世隊は、萩の後ろ盾を得たのだ。
「楠木はどこにもいないようです。都中を捜させましたのですがね。もう、都にはいないのかもしれません。」
国元に帰ったということか。だとすると、それは撤退ではない。おそらく、国を挙げて戦う準備の為だ、と柚月は直感した。
「剛夕様は城には戻られましたが、城の中も、二分されたままです。私の邪推ですが、冨康様が先の将軍に毒をもったという話、あれはおそらく事実でしょう。」
そんなことが、あり得るのだろうか。柚月はにわかには信じられない。時の将軍を、いや、それ以前に、自身の父を、自ら手にかけるなど。
雪原の目は、どこか、遠い何かを見ている。
「虐げられた人間の憎しみは、深いですからね。」
つぶやくように言う。だが、その声には重みがあった。雪原自身、そのことをよく知っているかのようだ。
「柚月。」
雪原が振り向くと、柚月も雪原に向き、目が合った。
「志は、まだありますか?」
雪原の目は、真直ぐに柚月を捉えている。
志、と言われて、柚月は戸惑った。そんな立派なもの、自分にあっただろうか。分からない。よく分からないまま、ただ、楠木についてきただけな気がする。
「この国をいい国にする。弱い人が、安心して暮らせる国に。あなたはそう言ったそうですね。」
そう問われて、柚月の目に、にわかに強い光が戻った。
「いい国になったらいいなではなく。いい国にする、と。」
雪原は確認するように重ねる。
なったらいい?柚月は思った。そんなことは考えてもいなかった。いや、諦めている。いったい、誰が変えてくれるのか、この国を。誰も変えてくれなかった。だから、こんな状態なのだ。
「願っているだけでは、何も変わりません。自分が動かなければ、世界は、変わらない。」
柚月の答えは明瞭だった。雪原は柚月の瞳の奥をじっと見つめ、うなずいた。
「十日もすれば、動けますね?」
「え?あ、はい。」
「お礼をしてもらいたいのですが。」
雪原はにやりとした。
「ああ、そうですよね。」
と言ったが、金は持っていない。
「あ、お金はいいのです。体で払ってもらいますから。」
そう言うと、雪原は穏やかな微笑みを残して、去っていった。渡り廊下の先に、女が一人、雪原を待っているのが見えた。雪原が、愛人といっていた女だ。どうやら、食事の用意ができたらしい。
十日ほど経った朝、雪原の愛人、鏡子が柚月の元に袴着を持ってきた。それを着るよう、雪原から言づけられたという。言われるままに着ると、華奢な柚月には少々大きかったが、それでも、中級の武士には見える出立となった。雪原が若い頃に着ていた物らしい。雪原も、「少し、大きかったですかね。」と笑ったが、「まあ、十分でしょう。」と頷いた。そして、「ちょっと、護衛をお願いします。」と柚月を連れ、自身の護衛隊とともに、横浦に向かった。
雪原の傍に仕える者は、末端の護衛であってもその身元は明らかだ。特に、この護衛隊は、雪原自身が陸軍総裁に任命された際、自身でその隊員を選定した。階級に関係なく、その能力を見込んだ精鋭部隊だ。
供の者は、見知らぬ柚月を怪しがったが、身なりからして、それなりの家の者なのだろうと納得した。なにより、雪原が直々につれて来た者だ。雪原はもとより、政府の配属とは関係なく、どこの誰とも知れない者を、傍に置く性質があった。ちょうど椿がそうである。ただ一人、護衛頭の藤堂だけは、いつまでも警戒を解かなかった。雪原が、自身が乗る籠の横に柚月をつけたのも、面白くない。だが、「ただの小姓ですよ。椿の代わりです。」と紹介されては、おおっぴらに拒むわけにもいかず、柚月は、道中ずっと、後ろから藤堂の厳しい視線を受けることになった。
横浦に着くと、雪原はごくわずかな供を連れて、大きな西洋館の中に入っていった。その時も、雪原が柚月をわざわざ呼んで同行させたので、ますます柚月に箔が付いた。
中は、柚月からしてみれば、見たこともない、きらびやかな世界だった。隅々まで細かい装飾が施され、天井はどこまでも高く、壁には多くの異国の絵画が飾られ、豪華なシャンデリアが吊り下げられている。物珍しそうにきょろきょろする柚月を、雪原の側近、清名がたしなめた。雪原が両手を広げて出迎えた異国の男と抱き合った時も、ぎょっとする柚月に、「あれは挨拶だ」と耳打ちして教えた。
雪原はその異国の男と、訳の分からない言葉で話し合い、時々笑いあった。柚月には二人の会話は全く分からないが、二人は通じ合っている。それに素直に感動した。
世界は広く、自分が知らないことが、まだまだたくさんある。その実感と、沸き起こる好奇心から、柚月の中にわずかに光が差した。
しばらくの歓談の後、雪原は供の者を客間に残し、清名と柚月だけを連れて、男について部屋を出た。前を行く雪原と男は、相変わらず楽しそうに話しているが、清名の顔が、緊張に染まっている。柚月も、はしゃぐ気持ちが収まった。進むほどに、窓が少なくなっていく。薄暗い廊下の突き当りで、止まった。扉に取り付けられた大きな南京錠を、男が開ける。開いた扉から、埃っぽい空気が漏れてきた。
部屋には窓が無く、扉を閉めると、男がランタンに灯をともした。ぱっと部屋が明るくなり、多くの荷物が照らし出された。どれも隠すように布がかぶせられて、その下に何があるのか分からない。
男が、テーブルの上に被せてある布を剥がすと、隠されていた物が現れ、柚月は目を見開いた。
大小さまざまな銃。続いて、男が別の布を剥がすと、その下からは、小型の大砲のような物が現れた。どうやって使うのかは分からない。だが、放たれる威圧感。計り知れない破壊力を持っている。そのことだけが、柚月の脳に、直接、強い衝撃となって伝わってきた。
もしも異国と戦争になることがあれば、この国は確実に負ける。冷たい汗が、柚月の首筋を伝った。やはり、このままではだめだ。この国は、変わらなければ。柚月は強い思いが湧き、硬く拳を握りしめた。
雪原と男は、テーブルの銃を手に取りながら、真剣な面持ちで話し込んでいる。
「ここで見たことは、他言無用だ。」
清名が耳打ちしたが、柚月は言われるまでもなく、口にする気になどなれなかった。銃を見た瞬間に直感した。雪原は、なぜ、自分をここにつれて来たのかと、疑問でならない。これは、政府の機密事項だ。
宿では、柚月は清名と同室で、雪原の部屋の続きの間に部屋をあてがわれていた。清名が部屋に戻ると、柚月は行燈も灯さず、窓から差し込む月明かりだけが頼りの薄暗い部屋で、用意された布団に横にもならずに、刀を抱え、窓際の壁に背を預けていた。空でも見上げていたのか、清名が戸を開けると、ぱっと振り向いた。
「眠れないのか。」
清名の声に、表情はない。
「あ、いや。」
柚月があいまいな返事をするうちに、清名が行燈に灯をともし、部屋は柔らかい灯りに包まれた。
「傷が痛むのか。」
柚月ははじかれたように清名を見た。清名は行燈を覗き込み、火を気にしている。
「脇腹をかばっているように見えたが、違ったか。」
その通りだ。癒えきらない傷が、時々傷んだ。だが、周囲に気づかれないようにふるまったつもりだ。柚月はまた、「あ、いや。」とあいまいになる。
「喧嘩でもしたか。」
公に許されることではないが、武士同士、特に下級の武士などは、喧嘩が過ぎて刀を抜くことがある。だが、これは違う。
柚月は答えられない。あいまいな返事も出なかった。様子の変化に気づいた清名が、ちらりと見ると、柚月は叱られている子供のように、じっと畳を見つめ、押し黙っている。なるほど、と、清名はくみ取った。話せない傷か。
「雪原様のお傍にいる内は、ほどほどにしろ。」
そう言って、清名は薄葉紙の包みを差し出した。目で問う柚月に、「痛み止めだ。」と答え、ずいと渡してくる。柚月は押されて受け取った。
「藤堂のことは気にするな。少しのことにも警戒を怠らない男だ。だからこそ、護衛頭を任せられる。」
そう言うと、行燈の傍に戻り、何やら書簡を広げだした。
柚月は、張り詰めていたものが少し緩み、
「清名さんは、俺のこと、気にならないんですか?」
と、ぼそりと聞いた。清名は書簡から目を離さない。
「柚月一華というのだろう。」
「はい。」
「雪原様から聞いている。」
続きを待ったが、清名はそれ以上何も言わず、ただただ書簡に目を走らせている。思わず柚月の方から聞いた。
「それだけ、ですか?」
清名はやっと顔を上げ、ゆっくり柚月に向いた。
宿に着いてすぐ、雪原は清名一人を角の小部屋に呼び、人払いをした。そして柚月について、名と、もう一つ、帰るところのない子だ、とだけ伝えた。清名が「承知いたしました。」とだけ答えると、雪原はいつもの穏やかな微笑みを浮かべ、「それだけか?」と聞いた。清名は真直ぐな目で雪原を見つめ、「はい。」と答える。この目を裏切る度胸はない、雪原はいつもそう思う。何も問わず、不満も言わず、雪原の言葉を受け入れる。それは、清名の雪原への信頼の表れだ。この男の場合、忠誠と言う方が正しいだろう。だからこそ雪原は、自身が陸軍総裁に任命される際、外交官の時から腹心の部下であったこの男を連れてきた。雪原も清名を信頼し、頼りにもしている。だが、この目を見るたび、雪原は、恐ろしくさえ感じる。自分は、それほどの価値がある人間だろうかと。
「雪原様がお連れになった。それがすべてだ。」
柚月に向けた清名の目は、一点の曇りも迷いもない。
「すごい、信じているんですね、雪原さんのこと。」
「私だけではない。雪原様にお仕えする者は皆、身命を賭してお仕えする覚悟だ。」
当然のようにそう言うと、清名は再び書簡に目を戻した。
この心酔ぶり。柚月は、正直驚いた。この男は、いや、清名の言葉を信じるなら、雪原の家臣たちは皆、雪原に命をささげている。それも、雪原家でも、陸軍総裁でもなく、雪原麟太郎という男に。柚月自身、雪原をどこか侮っていた。陰の薄い五男坊にすぎないと。だが、そうではない。これほどまでに、家臣に信頼されるのは、肩書だけの人物ではないということだ。言葉で表現されるよりも強く、柚月は、雪原麟太郎という男の偉大さを、思い知らされたようだった。
「さっさと寝ろ。明日も朝が早い。」
柚月は「はい!」とはじかれたように返事をすると、ごそごそと布団に入り、あっさり眠りについた。
翌日も朝から西洋館を訪れた。前日とは別の館で、今度はその館の主が、夫婦で雪原を迎えた。雪原は相変わらず流ちょうな外国語で話し、楽しそうに笑いあい、主たちと昼食を共にして、館を後にした。
市場の近くまでくると、雪原は「ちょっと散歩して帰ります。」と言って籠を降り、清名と柚月だけを供にして、あとの者は宿に帰した。藤堂は「危険です。」と食い下がったが、清名に制されて、しぶしぶ宿に帰っていった。
横浦の市場は異国情緒あふれ、柚月には別世界だった。異国情緒あふれている。通りには、見慣れない異国の出立の外国人たちが行きかい、時折立派な馬車まで通り、聞きなれない言葉が飛び交っている。都とはまた違った活気がある。
「やはり、横浦はいいですね。」
雪原は大きく伸びをした。文字通り、羽を伸ばしている。裏腹に、清名は緊張の面持ちだ。警備が手薄なうえに、人が多い。柚月も周りを警戒した。護衛として連れられている以上、その責務は果たさなければと思っている。
通りの両側には、隙間なく露店が並び、舶来品らしい物が並んでいる。雪原が、女物の小物が並べてある店の前で足を止めると、愛想の良い店主が顔を出し、商品の説明を始めた。とにかく、舶来の珍しい物ばかりらしい。
「おや、栗原様。」
男の声に、柚月は反射的に振り向いた。隣の露店の店主が、通りかかった男に声をかけている。よく来る客のようで、男は店主と二三言葉を交わすと、去っていった。それを確かめると、柚月は再び雪原に注意を戻し、変わりがないことを確認した。
雪原はその様子を横目で見ていたが、それを柚月に気取られないよう、柚月の意識が雪原に戻るより先に、また店主と話し始めたので、柚月が雪原の視線に気づくことはなかった。
店主は嬉しそうに、雪原にあれこれ商品を紹介している。柚月はふと、かんざしが目に入り、手に取った。かんざしの形はしているが、異国風の飾りがついている。
『これ、土産にどうかな。』
義孝のうれしそうな声がよみがえった。
以前、横浦に来た時のことだ。義孝は露店で珍しい髪飾りを手に取り柚月に見せた。
また、女か。柚月はあきれながら、「いいんじゃないか。」と、適当に答えた。
三年ほど前になる。都に来て、一月を過ぎた頃だった。
都に来てから五日と開けず、暗殺の命が下った。柚月は何人も何人も斬った。「新しい国のために。」そう自分に言い聞かせながら。だが、何かが変わっているようにも思えなかった。ただ、染みついた血の匂いが、濃くなっていくばかり。柚月の目から光が薄れ、日に日に澱んでいった。友としてだけでなく、見分役として現場にも同行していた義孝には、それがよくわかった。変わっていく柚月が、辛かった。横浦に行こうと言い出したのは、義孝だった。
柚月は脇腹に手を当てた。包帯の感触の下に、傷の痛みがある。この痛みが、現実を突き付けてくる。
柚月がかんざしを戻そうとすると、雪原がのぞき込んできた。
「かわいいですね。椿に似合いそうです。」
驚く柚月の横で、雪原は店頭の手鏡と髪飾りを一つずつ指さし、「あと、これも。」と言って、柚月が手にしているかんざしも併せて買い求めた。
「妻と鏡子にお土産です。」
と、にこりとする。商品を受け取りながら、「男はマメじゃないと。」と付け足すので、柚月は、なんだか分からないが、さすがだなと、苦笑した。
「それ、椿に渡しておいてくださいね。どこかで、かんざしを失くしたようなのですよ。」
そう言われて、柚月は、あの山で落としたのではないかと思ったが、口にはしなかった。
「横浦には来たことがあるそうですね。」
また歩きだした雪原が、露店の商品を楽しそうに見ながら、世間話のように切り出した。
「『先生』というのは、楠木のことですか?」
柚月は一瞬驚いたが、椿に聞いたのだなと、納得した。雪原には、嘘が通じる気がしない。
「はい。でも、先生と来たというのは、嘘です。本当は、」
そこまで言って、柚月は言葉に詰まった。なんと言っていいのか迷った。だが、それ以外の言葉が見つからず、
「・・・友人と。」
と、頼りなげに言った。
「瀬尾義孝ですか。」
ずばり言われ、柚月は目を見開いた。が、すぐに、やはりすべてお見通しなのだなと、腹をくくった。雪原は相変わらず、露店の方を見ている。
「はい。」
柚月が認めると、雪原は「そうですか」と言って背を伸ばし、
「少し、休みましょうか。」
と言い出した。雪原の視線の先に、茶屋がある。
雪原が店先の長椅子に腰かけると、清名が茶を注文した。雪原の隣には、もう一人座れる隙間があったが、清名が立っているので、柚月もそれに倣うと、清名に座るよう促された。この男なりの気づかいだ。
「瀬尾とは、親しかったのですか?」
雪原の問いに、柚月は胸が痛んだ。
「・・・親友・・でした。」
「そうですか。」
「俺は十歳の時に親父が死んで、それから明倫館で育ちました。義孝もその頃に。あいつは、家出してきてて。あいつ、百姓出なんです。萩の農村は貧しくて。嫌になったみたいで。自分も武士になるとか言って。年も近かったし。周りは大人ばっかりで。いつも一緒にいました。」
柚月の口元には笑みが漏れ、やや多弁にもなっている。おそらく無意識だろう。その様子から、二人の
関係が分かる。本当に、親友だったのだ。
「兄弟のように育たれたのですね。」
「まあ。そうですね。そうかもしれません。明倫館の皆は、俺にとっては、家族でした。」
でした、か。雪原は、柚月が過去形を使ったことに胸が痛み、湯呑をゆっくりゆすりながら、中で揺れる茶をじっと見た。
目の前の通りに、赤子を負ぶった女の子が立っていて、ほかの子供が楽しそうに駆け回っているのに、その子は一人、赤子をあやしている。その赤子の手から、風車がぽとりと落ちた。
柚月は立ち上がると、女の子の方に歩き出した。やはり傷が痛むのか、わずかではあるが、ぎこちない歩き方をしている。清名はその背中を見守りながら、
「あの傷は、その親友にやられたのでしょうか。」
と雪原に問うた。頭の回転の速い男だ。今の話で、大体の事情を察した。柚月の身分を公にしない理由も、「帰るところがない」理由も。襲ってきた仲間の元には、帰れまい。
柚月は、風車を拾って赤子に渡してやると、礼を言う女の子の頭をなでてやった。女の子に笑いかける柚月は、優しい顔をしている。
「椿の報告では、そういうことのようです。」
雪原はぐいと茶を飲みほした。
「嫌な時代ですね。」
そう言いながら雪原の顔がゆがんだのは、茶の渋さのせいではない。
三日の滞在の後、一行は帰路についた。来た道とは違い、やや北寄りに進む。このあたりの地理に疎い柚月も、妙だなと感じた。このままでは横洲に入る。横洲は都と横浦の間に位置するが、横洲と都は、七輪山に阻まれ、行き来することはできない。都に戻るには、横浦から海沿いを進むしかないのだ。
一行はやはり横洲に入り、街の大通りを行く。警備の緊張がぐっと高まった。まるで、すぐそばに敵が潜んでいるかのようだ。
大通りと言っても、横浦のそれとは比べ物にならないさびれたもので、あばら家も目立つ。行きかう人々も、妬みの交じったような警戒の目を一行に向けてくる。
柚月は萩の農村のことを思い出した。何年も不作が続き、食うに困った人々は、優しさも思いやりも、すっかり失くしていた。国も救済の手を打たない。人々は、持てる者を羨み、妬み、やがて憎んでいった。
横洲の人々の目は、あの農村の人々のものと同じだ。ここもまた、国から見捨てられている。柚月は憤りを感じた。
一行は、長い石段の前で止まった。どうやら、神社のようだ。
籠から降りた雪原は、柚月に、
「ちょっと寄り道です。」
と言い、わずかな供を連れて石段を上った。その供も石段で待たせ、境内には清名と柚月だけを連れた。
石段の上は、神秘的な空気に包まれていた。境内を包み込むように木々が生い茂り、正面奥に、小さな社殿が見える。その社殿は、まるで太古の昔からあるような佇まいで、裏にそびえる七輪山を背負っている。境内には湿気を帯びた独特な匂いが漂っていて、いるだけで、心を洗われるような、不思議な感覚になる。
境内は意外に広く、社殿に着くと、石段から随分距離があった。
雪原の柏手の音で、柚月ははっと我に返り、雪原に倣った。
「以前、ここで襲われたのですよ。」
目を開いた雪原は、手を合わせたまま小さな声で言った。なるほど。と、柚月は納得した。警備のあの緊張は、そのためだ。
「三年近く前ですかね。ここに参るのは、我が家の慣例なのですよ。その日も、近くに来たから寄っただけだったのですが、珍しく、ほかに参拝者がいましてね。」
雪原は境内を引き返し始めた。
「男が三人。社殿には目もくれず、境内の隅をうろうろしていましてね。珍しがって見ていると、いきなり切りかかってきたのです。その頃は私もただの外交官でしたから、こんな大そうな護衛もいなくて。一瞬焦りましたよ。」
雪原は思い出して笑った。
「そばにいた者が切り倒してくれたので、事なきを得たのですけど。ただ、なんだか嫌な予感がしましてね。調べさせたのですよ。それで、横浦から入った開世隊が、このあたりで不穏な動きをしていることが分かりました。詳細は分かりませんでしたが、悪しき種は、早く摘むに越したことはありません。」
そう言うと立ち止まり、大きく深呼吸した。
「それで。椿に、斬らせました。」
ざっと風が吹き、木々が鳴った。
「あの子は、ただの、世話係だったのですよ。」
雪原は悲哀の目で、空を仰いでいる。
「本当に、ただの。」
そう、言い訳のように繰り返した。
ここで男たちを斬ったのも、椿だったのだな、と柚月は直感した。だが、実感がわかない。自分を殺そうとしていたのだと聞いても、返り血を浴びた姿を見ても、人斬りだと聞いても。ただ者ではないとは分かる。だが、椿が人を斬るのだということは、なぜかどうしても心が受け入れなかった。
都に着くと、柚月は別宅で待つよう言われ、一人向かった。すでに日が傾いていた。鏡子が玄関で出迎え、当然のように、
「おかえりなさい。」
と言うので、柚月は戸惑った。無言で一礼すると、離れの部屋に行き、そのまま布団も敷かず、畳の上で眠ってしまっていた。
目が覚めた時には、すでに日が高く昇っていた。寝過ごした!咄嗟にそう思って飛び起きると、体に布団が掛けられていた。昨夜、様子を見に来た鏡子がかけたものだ。人の温かさが、妙に沁みた。
急いで母屋に行くと、雪原はまだ帰ってきていなかった。鏡子が言うには、しばらくは本宅の方にいるだろうとのことだった。本宅の方が城に近いこともあるが、何より、妻への配慮があるのだという。もともと芸者だという鏡子は、それらしい、凛とした美しさと独特な色気があり、人当たりはいいが、芯の強さを感じる女だ。そんな鏡子が、心なしか寂しそうに見えた。だが、
「愛人は、影の存在ですから。」
と、きっぱりと言い切るあたり、大人の女の粋を感じる。
三日経っても、雪原は来なかった。空は晴れ、母屋からは時折、鏡子が弾く三味線の音が聞こえる。
そんな昼下がり。裏木戸が静かに開いた。気配無く入ってくる者がいる。椿だ。入ってすぐに離れがあり、それを囲うように庭がある。離れの角を曲がったあたりに、椿は人の気配を感じた。この音、おそらく、刀を振っている。行ってみると、案の定、柚月が刀を握っていた。何と戦っているのか、一心に刀を振っている。それが不意に止まった。どこから入って来たのか、柚月のすぐ近くに、茶色い猫が丸まって、柚月の方をじっと見ている。柚月が気づくと、「にゃー」と鳴いた。
「今日は飯ないよ。」
と柚月は猫に話しかける。が、言葉は通じなかったらしい。猫が足元にすり寄ってきたので、柚月はかがんで撫で始めた。猫はごろごろと喉を鳴らし、柚月の手にじゃれついている。が、突然何かに気づき、柚月の横をすり抜けて、軒下に駆け込んでしまった。突然どうしたのだろうと柚月が振り返ると、離れの陰に椿が立っていた。どうやら猫は、椿に驚いたらしい。
「猫に餌、あげてたんですね。」
柚月は、あ、バレた、という顔をして、
「鏡子さんには、黙ってて。」
と、人差し指を口もとに立て、いたずらを隠す子供のような顔をした。食事はいつも鏡子が離れまで運んできてくれる。それを少し残し、庭に来る猫にこっそりやっていたら、すっかり懐かれてしまったのだ。だが、知れると叱られる気がして、隠している。
椿は不思議と、仕方のない人だなという気持ちになり、笑みが漏れた。
「どこかに行ってたの?」
柚月がそう聞くのも自然だ。椿は、いつもの着物姿ではなく、旅装束を着ている。
「ええ、まあ。」
椿は曖昧にしか答えず、代わりに、
「お体、もうよろしいのですか?」
と柚月を気遣った。刀を持つには、まだ早いように思う。
「ああ、うん。じっとしてると、体がなまりそうで。まあ、医者にばれたら怒られそうだけど。」
そう言って、今度はやんちゃな子供のような笑顔を見せた。本当に、仕方のない人だ。椿が苦笑していると、柚月は「ああ、そうだ」と、何事か思い出して部屋に駆けこみ、包みを持って戻ってきた。
「お土産。横浦に行ってて。」
と言って、差し出す。市場で雪原が買ったかんざしだ。
椿の頬が桜色に染まり、満面の笑みに変わる。
「ありがとうございます。」
思いのほか喜ばれたので、柚月は自分が手柄を横取りしたようになってはいけないと、「あ、俺じゃなくて、雪原さんからだけど。」と、慌てて説明した。雪原がこの場にいたら、「言わなくていいですよ。」と言っただろう。椿は、「そうなんですね。」と、熱は少し落ち着いたようだったが、大事そうにかんざしを抱きしめた。その様子がまた、かわいらしい。
日が落ちた頃、にわかに母屋が騒がしくなった。雪原が来たのか。柚月が母屋の方を覗くと、鏡子が急いで向かってくるのが見えた。すぐに雪原の部屋に行くように言う。部屋には、すでに椿もいて、雪原の鋭い表情からも、何か事が起こったのだとすぐに分かった。
「杉が処刑されました。」
雪原は、柚月が座るのも待たずに切り出した。
「え・・。」
柚月は驚きで言葉を失い、大きく目を見開く。
「今回の騒動の咎を背負ったのです。」
「でも、それなら。」
柚月は食いつくように言いかけたが、雪原が後を受けた。
「ええ。本来なら、楠木がその罪を問われるべきところですが。どうやら楠木は、杉を身代わりにしたようです。」
「まさか!」
柚月は思わず大きな声を上げた。
「剛夕様との対談以来、杉は、武力行使から一転して、政府と対話の姿勢をとってきました。楠木からしてみれば、邪魔になったのかもしれません。」
柚月は信じられなかった。楠木と杉は幼馴染みで、ずっと苦楽を共にしてきた仲だ。その姿を、幼い頃からそばで見てきた。杉は誰よりも楠木を信頼していたし、楠木もまた、杉に全幅の信頼を寄せていた。ほかの誰を裏切ることがあろうとも、楠木が杉を裏切ることなど、想像もできない。
「いずれにしても、開世隊の中で、何かが起こっているのは確かなようです。」
だとすると、それは、平和的な方向に向かうものではない。