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第一章 序まり

つれづれなるままに、心にうつりゆくよしなしごとを書いた処女作。

読んでくださった方の娯楽になれれば、幸いです。

 都の夜は静かだ。どこまでも深く、吸い込まれてしまいそうな漆黒の闇に包まれている。空には、細く尖った月。そのわずかな光では、この闇を晴らすことができない。

 その中を、駆け抜ける影がひとつ。それを追って、数人の足音が続いた。


「まずったな」


 追ってくる気配を気にしながら、柚月(ゆづき)はつぶやいた。足音は、じわじわと距離を詰めてくる。


「いたぞ! こっちだ」


 柚月からも、男たちの姿が見えた。思わず舌打ちが出る。一層速度を速めようとした瞬間、脇から何かが飛び出してきて、ぶつかった。


「きゃっ!」


 当たった衝撃とともに聞こえた、微かな声。


 ――女⁉


 柚月は、ぶつかった衝撃で跳ね飛ばされ、転びそうになっている女を咄嗟に抱き留め、そのままゆっくり座らせる。


「大丈夫か?」


 応えようと顔を上げた女の目が、大きく見開かれた。柚月に対して、ではない。その後ろ。息を切らせた男が、柚月の背中を睨んでいる。


 追い付かれた。


 ――逃げ切るのは無理か。


 だが、柚月は女が気になる。柚月の前でへたり込み、目を見開いたまま、動けなくなってしまっている。だが、男の方は、柚月しか目に入っていない。躊躇(ためら)いもなく抜刀した。


「やっと、捉えたぞ!」


 男が刀を振り上げ、刃が、わずかな月明かりに一閃、白く光った。女は反射的に身を縮め、帯に差した扇子をぎゅっとにぎりしめる。


 ――この女を巻き込む気か。無関係な市民を。


 柚月は一瞬、カッと怒りが湧いた。だが、頭は冷静だ。

 女を背中にかばうように男に向き直ると、鯉口を切った。


「お前が、ひと…!」


 何事かを叫ぼうとした男を黙らせるように、抜刀と同時に男の腕を切りつける。男がうめき声をあげ、手から刀がはじけ飛んだ時には、返して、胴を入れていた。そのまま、崩れる男の肩を踏み台に、ターンと跳ね上がると、すぐ後ろにいた男を右袈裟に切り落とし、もたもた刀を抜こうとしていたもう一人を、右薙ぎに払った。


 その姿。青年。確かに青年だ。少年ではない。決して短身ではないが、夜の闇の中、女と見間違うほどに華奢な体。それが躍動し、ザンバラ髪のような無造作な短髪が、身のこなしの速さに従って明王の髪ように逆立ち、踊っている。


 目にも留まらぬ速さ、とは、こういうことを言うのだろう。突然の、しかも、あっという間の出来事に、女は座り込んだまま目を見張った。


 切られた男たちは、うめきながらわずかに動いているが、立ち上がりそうにない。

 残りは二人。構えてはいるが、腰が引け、じりじりと後ずさりをしている。

 柚月は踵を返して、女の元に戻った。


「立てる?」

 聞くだけ聞いたが、答えを待たずに腕を掴んで女を引き起こすと、そのまま手を引いて駆け出した。


 どこをどう走ったか。気づけば、武家屋敷に囲まれていた。ずいぶん北に戻ったらしい。追っ手の気配はもうない。

 柚月は女の手を放した。


「ケガしてない?」


 柚月の問いに、女はコクコクと頷いた。

 息が上がって、声が出ないらしい。


「こんな夜更けに、何してんの?危ないよ?」


 自分が言えた口ではないが。自身でそう思いながら、柚月は女を安心させるように笑顔を見せてやった。だが、女はまだ息が上がっていて、なかなか声が出せない。しばらく肩で息をした後、胸に手を当てながら、「ふー」と大きく一息吐いた。


「お使いで外に出たのですが、遅くなってしまって。でもまさか、あんな」

 言いかけて言葉を詰まらせる。先ほどの光景がよみがえったらしい。

「助けていただいて、ありがとうございました」

 深々と頭を下げると、女はそのままいそいそと去ろうとする。


「あ、送るよ」

 柚月が女の背中に声をかけると、女は振り向き、微笑んだ。

「いえ。すぐそこですので」


 そう言って軽く会釈すると、そのまま夜の闇に消えていった。




 この国は今、再び動乱の時代を迎えている。


 大陸とは到底いえないこの小さな島国にも、かつて、無数の小国に別れて領地争いを繰り返した戦国の時代があった。

 武力では勝てないと悟った帝は、最も国力を有した武将に将軍の称号を与え、ほかの小国たちを治めさせることで、この乱世を終わらせた。以来、政の中心は、帝から武士たちの手に移り、国主たちは、自身の国を独自に治めながらも、将軍を頂点とする中央政府に従っている。


 敵を持たねば気が済まないのは、一種、人間の性質だろうか。外に敵がなくなれば、自ら内に作り出す。

 平和な世を生きる武士たちは、今度は城内という狭い世界で、権力抗争に力を入れ始める。

 中央政府が、海外との交流を原則禁止する政策、「封国」を始めたことで、武士たちは海からの敵も失い、その意識は、さらに内へ内へと向かっていった。


 そんな世が二百年を越え、中央の政は、すっかり武士たちの出世と保身のために動かされるようになってしまっている。

 ここでは、下剋上のような、大きな変化を望む者はいない。大事なのは、能力ではない。家柄なのだ。

 生まれた家で、地位が決まり、生涯変わることはない。そしてそれは、地方にも感染し、国主たちは中央政府に対し、ある者は顔色を窺うことに懸命になり、ある者は不満を抱きながらも、自身の地位が脅かされることを恐れ、それを口にすることさえできないでいる。家臣たちも、同様だ。


 上を目指す努力を忘れた人間は、自分より弱い者に優越を覚えることで、自身の誇りを実感する。この国では、中央地方を問わず、そんな人間が権力を有している。


 その結果、権力を持たない弱い者たちは、中身のない権力者たちの犠牲となった。


 地位が低く能力が高い者は忌み嫌われ、貧困にあえぐ者は見捨てられる。

 その不満は怒りへ、そして、憎しみへと変わり、この国に、歪みを生じさせる。そしてこの歪みは、時間をかけ、身分、階級を越えて、じわりじわりと、国中に根を張った。


 その歪みが明らかな形を持ったのが、先の将軍の急逝だ。

 慣習に倣い、その跡を長男、冨康(とみやす)が継いだ。が、その直後、この冨康が、父である先代に毒を盛ったのだ、という噂が流れ、事態が一変する。


 冨康には年の近い弟、剛夕(ごうゆう)がいる。

 この弟は文武両道に秀で、人柄もよく、家臣たちにも慕われていた。さらに、側室の子の冨康に対して、剛夕は正室の子ということも重なり、次の将軍は剛夕こそふさわしいと密かに噂され、幼少の頃より、冨康を見る家臣たちの目は冷たかった。


 冨康もまた、この国に蔓延(はびこ)る悪しき思想の犠牲者なのだ。


 将軍の座を焦ったのではと、冨康には、皆が容易に想像できる将軍殺害の動機があった。

 慣習を取るべきか、疑惑を取るべきか。

 城内が揺れる中、剛夕が、外交に力を入れ、国力を高めようと唱え始めたことが、さらに事態を悪化させる。「封国」は、もはやこの国の、いや、武士社会の安定の象徴なのだ。それを脅かす剛夕の思想は、危険だった。

 城内は、冨康を推す保守派と、剛夕を推す革新派に二分され、明確な対立が生まれた。


 この混乱を見逃さない者が、西の国「萩」にいた。

 楠木良淳(くすのきりょうじゅん)

 下級役人のこの男が、自身が開いていた私塾、「明倫館(めいりんかん)」の塾生を中心に「開世隊(かいせいたい)」を結成し、兵を挙げたのだ。


 彼らは軍のように組織立っておらず、国の後ろ盾もない。「この国を変える」という志を共にする集団に過ぎない。

 だが、それだけに身軽だった。


 中央政府がその実態を把握するより早く、するりと都に入り込むと、剛夕と接触し、あっという間に同盟を結んだ。


 こうして剛夕は、軍事力でも、冨康に対抗しうるだけの力を得た。以来、双方にらみ合い、膠着状態が続いている。


 城内の不安は都中に広まり、治安は悪化、さらにここ三年、政府の要人が暗殺されるという事案が続き、人々の不安を一層あおっている。




「また暗殺だよ」

 夜が明けると、街では人々が口々に言いあっていた。


「今度は誰だ?」

「大蔵卿、高良康景(こうらやすかげ)様だそうだ。梅小路でのことらしい」

「政府のお金を握っておられるお方じゃないか」

「やはり、開世隊の仕業かの」

「栗原様が失脚されてから、ろくなことがない。」

「まったくだ。恐ろしい恐ろしい。戦なら、よそでやってもらいものだよ」

 通りは、曇天のような表情が行きかう。


「よう、柚月」


 陽気な声の主は、柚月が振り向くより早く、勢いよく肩を組んできた。笑顔で柚月の顔を覗き込む。

瀬尾義孝(せおよしかた)。柚月は、この軽いノリの親友に、しかめ面を返した。

 いつものことだが、肩を組んでくる勢いがよすぎて、首が痛い。そして、これもいつものことだが、義孝の方は、柚月の眉間の皺など気にしていない。

 柚月と同じく、ザンバラ髪のような無造作な短髪の頭を、柚月にぴったりくっつける。


 同じ無造作な短髪でも、義孝の方がやや整っているのは、意識の違いだろう。だが、二人とも古びた着物に袴をつけ、使い古した刀を一本だけ差している。

 下級武士であることは、一目瞭然だ。



「人斬りの話題で、街は持ち切りだな」


 義孝は、噂しあう人たち見ながらそう言うと、一変して、声を落とす。


「昨日は、大変だったな」


 柚月は空に向かって一息つくと、義孝の腕から逃れ、そばにあった団子屋の長椅子に腰かけた。義孝は団子屋の娘に向かって、

「お姉さん、団子とお茶、二つ」

と注文し、娘が「はーい」と愛想の良い返事をして店に入っていくのを見届けると、柚月の隣に腰を下ろした。


雪原麟太郎(ゆきはらりんたろう)が、陸軍総裁になったらしい」

 低い声で言う。


「雪原、麟太郎?」

 突然出てきた聞きなれない名に、柚月はピンとこない。


「まあ、知らねえよな。俺もそうだった。雪原家の五男坊らしい。代々政府の中枢を担うあの雪原家も、五男坊ともなれば影が薄い。外務職だったらしいからな。横浦で、外交官をしていたらしい」

「外交官から、陸軍総裁に?」


 柚月は驚いた。封国をしているこの国も、政府が認めた数か所の港で、わずかに貿易をしている。横浦はその一つ、都の東隣り、都から一番近い港だ。だが、政府が外交に本腰を入れていないこともあり、貿易含め、外交にあたる外務職は、政府内でも地位が低い。左遷された者が配属されることも、あるくらいだ。一方陸軍は、この国の軍事力そのもの。もちろん、海軍も存在するが、海外と戦などしないこの国にとって、その役目は薄い。軍と言えば陸軍なのだ。その長たる総裁など、従軍している者でも、そうそうなれるものではない。まして、一外交官が任命されるなど、異例すぎる出世だ。


「つまり、政府が、海外の力を借りることにしたってことだろ。覚えてるか? 舶来の銃の性能の高さ。この国の銃なんて、おもちゃみたいなもんだ。違いすぎる」


 海外とのつながりが強い者を軍の中枢に置き、その力を借りて、軍事力を一気に強化する。その目的は、つまり。

 柚月は嫌な予感がした。


「本格的に、開世隊を武力で制圧する気だ」


 義孝が柚月の心を代弁し、柚月の顔が、苦々しくゆがむ。


「だとすると、戦になる」

「それしかないだろう。それが一番手っ取り早い」

 義孝の目が、ギラリと鋭く光った。


「お待ちどうさま」

 柚月は何事か言おうとしたが、団子屋の娘の愛想のいい声に遮られ、張り詰めた空気が一瞬で緩んだ。


「ありがとう。そのかんざし、初めて見るな。似合ってるよ」


 義孝が調子のいいことを言う。娘は「お上手ですね」などと照れてはいるが、嬉しそうだ。

 義孝は、そういう細かいところに、本当によく気づく。柚月は感心した。あきれた、という方が正しいかもしれない。盛り上がる二人の横で、黙って茶に口をつけた。


「義孝さんと柚月さんって、仲いいですよね。いつも一緒で」

「ガキの頃からの、大親友だから!」

 そう言って、義孝は勢いよく柚月の肩に手をまわす。その拍子に茶がこぼれそうになり、

「おい!」

 と、柚月は思わず声を上げた。しかめ面でグイッと義孝を押しのける。が、義孝の方は楽しそうに笑い、「まあまあ、怒んなよ」などと、柚月にじゃれつく。


 やはり、仲がいい。娘は笑った。


「ごゆっくり」


 そう言って、店に戻る娘の横を、一人の女が通りかかった。柚月が思わず「あ。」と声をあげると、女の方も気づき、丁寧に頭を下げた。


「昨日は、本当にありがとうございました」

「え、何、知り合い?」


 義孝は驚いた様子で、柚月と女を交互に見た。無理もない。女は、年のころは十六・七。身なりからして中級の武家の娘、といったところ。本来なら、自分たちとは接点がない人間だ。しかもなにより、器量がよい。透き通るような白い肌。結い上げられた髪は、絹糸の様で、やや明るく茶色がかっているのも目を引く。よく見ると、目の色も珍しく、緑が混ざっている。


 昨夜逃げている時に会った、とも言えず、なんと説明したらいいものか、柚月が言葉に困っていると、女の後ろから男が顔を出した。


 三十代半ばから後半といったところのその男は、身なりがよく、帯刀しているところを見ると、中級か、いやそれ以上。それなりの家柄の武士だ。


「どうかしましたか? 椿」


 穏やかな声だった。女は、椿という名らしい。


「この方が、昨日、邸の近くまで送ってくださったのです」


 椿がそう言うと、男は、柚月に鋭い目を向けた。柚月はビクリとしたが、それはほんの一瞬だった。男の目から、すっと鋭さが消え、柚月の身分でも確かめようとしたのか、その視線は柚月の刀に移り、少し驚いたように目を見開いた。だが、それもほんの一瞬。男は穏やかに微笑むと、丁寧に頭を下げた。


「ご親切に、ありがとうございました。帰りが遅いので心配していたのです。最近、市中も物騒ですので」

「あ、いえ」


 柚月は慌てて立ち上がり、頭を下げた。

 むしろ、巻き込んでしまって申し訳ない。とは、言えない。


「では」


 男は義孝の方にも会釈をすると、その場を後にした。椿も男に倣い、その後ろについて行く。二人は街の雑踏に混ざって、見えなくなった。


「お前、どこであんなかわいい子と知り合ったんだよ?」


 義孝が茶化してきたが、柚月には義孝の声が遠くに聞こえる。


「椿」


 そうつぶやくと、柚月は、二人が消えた雑踏をずっと見つめていた。胸に、不思議な引っかかりを覚えながら。




「もうやるしかない」

「武力行使!それしかあるまい。」


 ろうそくに照らされた部屋の中で、男たちがいきり立っている。


「一気に城に攻めあがれば、政府軍の腰抜けどもなど、あっという間に逃げ出すわ」


 杉の声に、賛同する声が湧いた。


 旅館「松屋」の二階は、開世隊の隠れ場所であり、集会所でもある。

 夜な夜な繰り返される集会では、日毎過激派の論調が強くなっていて、その中心にいるのが、この杉である。

 開世隊の幹部の一人であるこの男は、頭は切れるが、激情家で熱くなりやすく、喧嘩っ早い。そういうところに惹かれるのだろう。隊員には、この男を慕う者が多くいる。それがこの男を、首領である楠木に次ぐ立場に押し上げた、一つの要因と言える。


「な? それしかないんだよ」


 義孝は猪口の酒を飲みながら、柚月を肘でつついた。

 男たちの議論は白熱していく。


「よ! そうだそうだ」


 義孝は、猪口を持った手を上げてはやし立てる。柚月は無言のまま、その場から消えるように、廊下に出た。


 障子戸を閉じると、男たちの声は、幾分小さくなった。暗い廊下に、窓から月明かりが差し込んでいる。柚月は、救いを求めるように窓辺に行くと、思わずため息が出た。

 胸に立ち込める黒い(もや)が、何か、大事なことを隠してしまっている。

 これは迷いか、いや、と、問答が起こり、心が晴れない。


「どうした、柚月」


 振り返ると、暗闇の中に、手燭に照らされた男が一人、立っていた。その顔に、柚月は笑みが漏れる。


「楠木さん」


「議論に混ざらないのか?」

「ああ、いや」

 柚月は苦笑いになった。

「お前には、ああいう熱いのは合わんか」

「そういうわけでは、ないんですけど」

「まあ、皆も、お前みたいに若いやつの意見も聞きたいだろう。たまには参加してくれ」

 楠木は柚月の肩をぽんぽんとたたくと、横を通りぬける。その背中を、柚月は呼び止めた。


「楠木さん」

 柚月は、まっすぐ楠木に向いている。


「俺ら、どこに向かってるんですかね?」


 隠そうとしてはいるが、柚月の目には、不安と懐疑が混ざっている。

 楠木は、真直ぐに柚月を見つめ返した。


「いい国を作る。弱い者が、安心して暮らせる国を。それだけだ」


 楠木の答えは明瞭だ。柚月の顔がゆっくり笑みに変わり、


「そうですよね」


 と一礼すると、去っていった。その背中が廊下の闇に吸い込まれていくのを、楠木はずっと見送った。




 外は夜風が気持ちよかった。満月が近いらしく、提灯が無くても歩けるほどだ。


 柚月が楠木と出逢ったのも、こんな夜だった。


『お前、名前は?』


 遠い記憶の、楠木の声がよみがえる。

 十歳の時だ。柚月には何もなかった。帰る家も、家族も、行く当ても。残ったのは、腰に下げた父の形見の刀、一振りだけ。


 とぼとぼと歩いているうちに、いつの間にか山道に入り、そこで、野盗に襲われた。


 奴らは刀を狙って追ってきた。


 必死で逃げた。だが、逃げ切れるわけもない。躓いて転んだところに、野盗の一人が、大きな太刀を振りかぶってきた。

 月あかりに、その太刀が一閃、白く、ギラリと光った。


 もう、いいか。


 そう思った。その瞬間、父の顔が浮かんだ。温かい女の声が聞こえた。きっと、母の。


一華(いちげ)。」


 そう、呼ばれた気がした。


 次の瞬間、柚月は刀を抜いていた。どう振るったか、よく覚えていない。ただ、無我夢中だった。

 そして気がつけば、目の前には野盗たちの死体が転がっていた。


 頭の中は真っ白だった。だが次第に、どうしようもない罪悪感が湧き上がってきて、手が震え、握った刀が、カタカタと鳴った。何も、見えない。何もかもが、血でぐっしょり汚れている。


 そこに通りかかったのが、楠木だ。


 空には、丸い月が浮かんでいた。初めて、人を斬った夜だった。


 以来、楠木の元で育てられたといっていい。

 楠木が開く塾、「明倫館」に入り、そこが学びの場であると同時に、柚月にとっては「家」だった。

 柚月にとって、楠木はただの恩人ではない。その考えに賛同し、師と仰ぎ、父と慕っている。だから、楠木が開世隊として兵を挙げた時も、迷わずついてきた。


 この国をいい国にする。弱い者が、安心して暮らせる国に。


 楠木の考えは、あの頃と変わっていない。そう信じている。なのに、なぜ。心が晴れない。

 また、ため息が出そうになって、飲み込んだ。


 突然、柚月は反射的に身構えた。人の気配。

 一瞬にして空気が張り詰め、耳を澄ます。

 遠くはない。一人・・・いや、二人か?警備隊にしては少ない。


「こんなところにいらっしゃいましたか。雪原様」


 微かに声が聞こえた。男の声。慌てている様子だ。

 「雪原」の名が、引っかかる。


 家の陰に潜みながら、声がした方に近づいて行くと、すぐに少し開けた場所に出た。大通りから横道に入ってすぐのあたりだ。

 男が二人立っている。

 身なりからして、上級の武士と、その家臣といったところか。家臣らしき男は、なにやら困っている様子だ。


「一人で出歩かれては困りますよ。陸軍総裁ともあろうお方が」


 陸軍総裁。雪原麟太郎か!


 柚月の緊張が一気に高まった。雪原は柚月に対して背を向けて立っていて、顔は見えない。だが、凛とした立ち姿が、いかにも上級武士らしい。


「籠を呼んでまいりますので」

 家臣らしき男は、そう言って一礼すると、大通りの方に駆けて行った。


 雪原が一人、残された。


 こんな好機はあるだろうか。柚月の緊張が、さらに高まる。息を殺し、静かに鯉口を切った。だが、迷った。  


 雪原麟太郎は、開世隊の強敵になることは間違いない。だが、斬るよう指示が出ているわけでもない。

 独断で動いていいものか。


 柚月が葛藤しながら、じっと雪原の背中を睨んでいると、ふいに雪原が口を開いた。


「私を斬りに来たのですか?」


 穏やかな声だった。背を向けたままだったが、明らかにその言葉は柚月に向けられている。

 気づかれた、と思うと同時に、柚月が刀を抜こうとした瞬間、また雪原が口を開いた。


「私を斬っても、この国は何も変わりませんよ」


 何かに射抜かれたような衝撃だった。柚月はピタリと止まり、刀を握る手に、力が入らない。

 大通りの方から人が来る気配がして我に返ると、一歩、二歩、後退り、家の陰を伝って、その場を去った。


 懸命に走った。とにかく、距離を取らなくては。走りながら、柚月は胸の内をかきむしられるようだった。


 人を斬っても、この国は変わらない。何も、変わらない。


 どこかで分かっていながら、柚月が、最も認められないことだった。だから、自ら胸に靄を張り、隠してきた。目を背けてきた。

 その弱さまで、見事に見抜かれたようだった。




 長屋が立ち並ぶあたりまで来て、柚月は足を止めた。

 随分息が上がっている。

 前かがみになり、膝に手を当てて、支えた。

 

 足から影が伸びている。切り離せない、暗い闇が。


 自分にいったい、どうすることができるだろう。どうすることもできない。この流れを変える力など、自分にはない。そう思いながらも、このまま松屋に戻る気にもなれなかった。


 空を見上げる。濃紺の空に明るい月が浮かび、その光の陰に、無数の星がちりばめられている。

 柚月は目を閉じ、大きく息を吸った。ゆっくりと吐く。肩でしていた呼吸がおさまり、少し、心も落ち着いた。

 勢いよくガシガシ頭を掻くと、また大きく一つ、息を吐く。

 ここに立ち止まっているわけにもいかない。そう思いなおせた。


 歩き出すと、物陰から静かに黒猫が現れ、足音もなく、まっすぐ柚月の足元にすり寄ってきた。

 このあたりの人に、餌でももらっているのか、随分人に慣れている。柚月がかがみこんで撫でようとすると、猫はするっとその手をすり抜けていく。

 つれないやつだな、と少し笑えた。


 去っていく猫を目で追っていると、その行く先に、下駄を履いた女の足が現れ、柚月はぎょっとして、反射的に立ち上がった。


 椿だった。


「どう、したの?」


 柚月は間の抜けた声を出した。椿も驚いた顔で、帯に差した扇子をぎゅっと握りしめている。


「道に、迷ってしまって」

 椿もやや間の抜けた声だった。ちょうどその時、刀を納めるようなパチンという微かな音がした。が、椿の声にかき消され、柚月の耳には届かなかった。

 椿は緊張が緩んだのか、扇子から手を放した。


「帰るの? 邸とは、全然方向違うけど」

 柚月の顔にはまだ半分驚きが残っていたが、椿が「え!」と驚き、口元に手を当てて、絵に描いたようにうろたえ出したので、その姿に、少し、気が緩んだ。


「送るよ」


 微笑むと、先に立って歩き出す。


 このままここに放置すれば、朝まで町をさまよいそうだ。それも、運が良ければの話。今の都は、夜、女が一人で出歩けるほど、治安はよくない。


 椿は少し戸惑った様子を見せたが、先に行く柚月の背中を、くっと鋭い目で捉えると、ついて行った。


 大通りは避けて、川沿いの小道を行く。蛙の鳴き声聞こえるくらいで、町はひっそりと静まり返っている。柚月の草履の音が、大きく聞こえるほどだ。


「あのあたりにお住いなんですか?」


 椿が口を開いた。


「そう、あそこの長屋」


 柚月はケロリと言ったが、もちろん嘘だ。


「それは、お手数をおかけしてしまって、すみません」

 椿の邸まで、少し距離がある。


「それはいいけど、あんた、一人で出歩かない方がいいんじゃない?」

 柚月は笑った。椿は苦笑する。

「最近越してきたばかりで、まだ、道がよくわからなくて」

 恥ずかしそうな顔が、月明かりに照らされている。やはり、器量がよい。


「道が分からなくなったら、とりあえず、大通りに出たらいいよ。横道に入るとややこしいから。大通りに出て、北を目指せば、武家屋敷が並ぶ方に出るから。あ、北って、お城がある方ね」


 都の北を覆う天明山と東の七輪山が繋がる場所から、都に向かって、日之出峰というさほど高くない山が張り出している。

 城は、この日之出峰と天明山が作る湾のような場所にあり、これは、都の中央を南北に貫く大通りの北の端、より、やや東にあたる。北は城がある方だという柚月の説明は、正確ではない。が、道に疎い者には充分である。


「どこから越してきたの?」


「越してきた」という表現に、柚月はわずかに興味をそそられた。

 椿の邸の正確な場所は分からないが、別れた場所の、「すぐ近く」と言っていた。

 都の北側、武家屋敷が立ち並ぶ場所だった。その辺りに邸を構えている武士は、中級から上級の者で、そのほとんどが国元にも家があり、いわば出張してきている。定期的に都と国元を行き来することはあるが、その際、「越す」とは言わない。それ故に、あの界隈に住んでいる様子の椿が、「越してきた」ということが、柚月には珍しく感じられた。


「横洲の方から」

「横洲?」

 椿の答えに、柚月はますます珍しく感じた。

 横洲は横浦のすぐ隣の地域で、横浦に来る外国人相手の商売人が多く住んでいる場所だ。武家の人間はほぼいない。


「横洲なんかで、何して…」

 そう聞きかけて、止めた。横洲には、外国人相手の遊女が多くいる。そう誰かが言っていたのを、思い出したのだ。

 邪推だが、深入りしない方がいい。


 途中で言葉を止められ、椿は問うように柚月をうかがい見た。

 そうまっすぐ見つめられると、恥ずかしい。

「いや、なんでもない」

 柚月が耐えかねて顔をそむけると、椿の視線はゆっくりと、柚月の腰の刀に移った。


「てっきり、開世隊の方かと思っていました」


 柚月は笑った。

「それって、俺が貧乏くさいからでしょ」

「え、いえ、そういうわけでは」

 椿は慌てた。その様子もかわいらしい。


 事実、開世隊は、もとは明倫館の塾生たちを中心に立ち上げられたもので、そのほとんどが、下級武士や町人、百姓出といった、貧しい者だ。都に入ってから、他から参加する者も増えたが、いずれも同じである。

 帯刀が許されているのは、本来、武士階級の者だけだ。もちろん都にも、長屋に住んでいるような下級の武士はいるが、数は少ない。ほとんどは、上級から中級武士と、その家臣たちで、それなりの家柄の者だ。ぼろぼろの服を着て帯刀していれば、開世隊と思われても仕方ない。

 そして、それはたいてい間違ってもいない。


「すみません」

 椿が認め、少し決まり悪そうにしているのがおかしくなり、柚月は笑ってしまった。

 それが恥ずかしかったのか、椿はうつむいた。その髪に、見たこともない物がつけられている。


「変わった物つけてるね。髪飾り?」


 金属製の物で、非常に細かい細工がされている。椿は「これですか?」と、柚月に見せるように、少し頭を傾けた。


「舶来の髪飾りで、バレッタというそうです」


 そう言って、外して見せた。飾りの裏には細長い弓なりの蝶番のような金属がついていて、それを飾りの裏に押し当てると、小さな突起に挟まって、パチンと小さな音をたてて止まり、その突起をつまむと、止まっていた金属が、勢いよく跳ね上がった。


「すごいな!」


 柚月は子供のような声を上げた。感動で目がキラキラしている。


「やっぱ、舶来品はすごいよなあ」

 そう言いながら、柚月は、かつて見た、舶来の拳銃のことを思い出していた。宝石で装飾を施され、まるで芸術品のようだった。

 驚いたのは、見た目だけではない。その性能の高さ。片手に収まるような小ささからは、想像もできない威力。義孝が言うように、この国の銃がおもちゃのように思えた。


「そうですね。特に、重火器は優れていると聞きます」


 まるで心を読んだかのような椿の言葉に、柚月は驚き、

「見たことあるの?」

 思わず聞いた。


「いえ、聞いたことがあるくらいで。」

 椿は微笑む。柚月は納得した。武家の人間なら、十分あり得る話だ。


「ご覧になったこと、あります?」

 逆に聞かれ、柚月はわずかにドキリとした。が、顔には出さない。


「うん。先生について、横浦に行ったことがあって。ちらっとね。」

 冷静に答える。


 「先生」とは、楠木のことだ。

 本人をそう呼んだことはないが、楠木の名を出せば、一発で開世隊員であることがばれる。それを避けたい。

 それに、この話ももちろん嘘だ。が、本当に隠したいことを話す時は、後でボロが出るのを防ぐ為、事実を混ぜるのが癖になっている。

 横浦には一度だけ行ったことがあるが、義孝に連れられ、物見遊山にいっただけだ。

 本当は萩にいた頃、楠木の屋敷で見た。なぜあんなものがあったのか。詳しいことは聞かされなかったが、他言してはならない、ということは柚月にも分かった。

 どこからやってくるのか、楠木の家には、そういう物がたくさんあった。


「先生?」

 椿の眉が、訝しそうにわずかに動いた。


「ああ、俺を育ててくれた人。俺、ガキの頃に親が死んじゃって。親戚とかもいなくてさ。残ったの、これだけ」

 柚月は腰の刀を見せた。


「これ持って、行く当ても無くて。うろうろしてたところを、先生に拾ってもらったの」

 柚月は明るい調子で話していたが、椿の顔は、申し訳ないことを聞いてしまった、と言っている。柚月は慌てて手を振った。


「そんな、悲観するようなことじゃないから。俺は運がよかったと思う」

と、一瞬真剣な目をしたかと思うと、パッと両手を広げて見せた。

「こうやって生きてるし」


 柚月のやや華奢な体に、着物の薄汚れた感じも相まって、案山子のようだ。椿は思わず笑ってしまった。

 鈴を転がしたような声だ。


 その様子に、柚月は安堵した。いや、張り詰めていたものが、少し緩んだのかもしれない。

 ぱっと、よく晴れた夏空のような笑顔になった。


「この国を、いい国にしたいな」


 ポロリ、心の内が漏れた。


「いい国、ですか」

 まだ笑みの中にいる椿が、相槌のように言う。


「うん。弱い人が、安心して暮らせる国」


「弱い人が?」


 椿は、微かに目を見開き、まるで初めて聞いた言葉のように、繰り返した。

 柚月の心の内を見るように、その横顔をじっと見つめる。

 まっすぐに前を見据えた柚月の横顔は、月明かりに明るく照らしだされ、その目には、強い意志が宿っている。


「やっぱり、開世隊の方みたい」


 つぶやくように言う。


「どうかな」


 しばらく黙った後、柚月はぼそりとそう言った。

 武家屋敷が立ち並ぶあたりに入り、見覚えのある景色になってきた。この辻だ。


「では、ここで」

 椿は柚月の方に向いた。初めて会った日も、ここで別れた。


「ああ、うん」

 応えながら、柚月は、胸に妙な寂しさが湧いてくる。


 椿は送ってもらった礼を言うと、小走りで駆け出した。下駄のせいもあるが、なんだかぴょんぴょん弾んで、かわいらしい。

 柚月がその後姿を見送っていると、ふいに椿が振り向き、小さく手を振った。柚月も、応えるように手を振る。

 自然と口元が笑んだ。恥ずかしいような、うれしいような、妙な気持ちだ。

 椿の方も、少し照れたような笑顔を見せ、また、小走りで駆け出す。

 その顔から、すっと笑みが消えた。


 遠ざかっていく椿を見送りながら、柚月の胸にはやはり、何か、正体の知れないものが引っかかっていた。


 この日の出会いが、柚月の運命を大きく左右することになる。




 突然の招集がかかったのは、それから二日後のことだ。


「こんな所に呼び出されるなんて、何なんだろうな」


 義孝はだんだん苛立ちを隠せなくなっている。

 指定された場所に向かうべく、柚月を連れ、都のはずれの山道に入った。が、とんでもない悪路だ。かろうじて道らしいものはあるが、普段あまり人が立ち入らない場所らしい。自由に木が生い茂り、暗い。この様子では、昼間でも薄暗いだろう。

 今は日も暮れ、視界は一層悪い。

 満月でこれなのだから、そうでなければ、闇の中を歩くことになったに違いない。

 そのくせ、この道らしきものから一歩外れれば、奈落の底まで滑落しそうなほどの急斜面ときている。


 確かに、何事だろう。人を阻むこの道が、事の重さを想起させる。よほど外に漏れてはいけない話なのか。

 柚月は胸騒ぎがしてならない。


「そういえば、江崎さんが斬られたらしい」


 目の前に現れた小枝を払いながら、義孝が言った。


「江崎さんが⁉」


 柚月は驚いた。江崎は開世隊の中でも一・二を争う剣の手練れだ。


「やっぱり知らなかったか。お前、もうちょっと松屋によりつけよ。皆知ってるぞ」


 柚月はもともと松屋に入り浸ることはなかったが、特にここ二日は、集会に顔を出す気にもなれず、もう一つの宿、「旭屋」に籠っていた。


「いつ。どこで」

 柚月は、義孝の言葉などお構いなしに食いつく。

「昨日だよ。おそらく雪原麟太郎の手の者だ」


 柚月は雪原の名に、ピクリと反応した。


「なんで、そう言える?」

 恐る恐る聞く。義孝はあきれた目で柚月をちらりと見ると、ため息のような息を吐いた。


「昨日、江崎さんと太田さんが飲んだ帰りに、町で雪原を見かけたらしい。そんな好機、めったにないからな。二人で後をつけて、斬ろうとしたんだと」

「二人で?向こうはそうとう護衛がついてたんじゃないのか?」

 闇討ちとはいえ、無謀だ。


「いや、一人だったらしい」

「一人?」


 柚月は黙り込んだ。雪原は一昨日、柚月と出くわしたばかり。再び一人で出歩くなど、無防備すぎる。引っかかる。と同時に、疑問がわいた。


「なんで、雪原だって分かったんだ? 一人だったんだろ?」


 雪原麟太郎は、あまり世間に知られた人物ではない。義孝も柚月も、名前さえ知らなかった。まして、その顔を知る者など、どれほどいるだろう。


「江崎さんが知ってたらしい。ほら、江崎さん、しばらく横浦にいただろ?市場かどっかで、見かけたことがあったんだと。まあ、その時は、雪原も一外交官だったろうし、まさか陸軍総裁になるなんて、思ってもみなかっただろうけどな。よく忘れずに覚えてたもんだよ」


 その記憶が、災いした。


「ただ、()ったのは雪原じゃない。雪原に切りかかった瞬間、斬られたそうだ。陰で相手の姿は見えなかったらしいが、雪原は抜刀すらしていなかったって話だ」

 

 太田はいざとなって怖気づいて出遅れ、そのおかげで一部始終を見ていたのだという。

 義孝は、悪路に苛立ちを募らせながら続ける。


「今朝、野次馬に交じって遺体を確認してきたやつが言うには、首を一太刀、見事に()(さば)かれてたって話だ」


 いくら好機に気が逸っていたとはいえ、江崎が傍に潜んでいる気配に気づかないなど、柚月には納得できない。まるで、影に斬られた、と言われているようだ。


「なんにしても、向こうも相当な手練れがいるってことだ。横浦での闇討ちも、もしかしたら、雪原の仕業だったのかもな」


 二年ほど前から、開世隊員が横浦で暗殺されるということが何度かあった。

 開世隊員が横浦にいることは分かる。海路で都に入るのに、横浦の港を使うからだ。だが、なぜ都ではなく、横浦で襲われるのか、柚月は引っかかっていた。

 横浦には、警備隊はいない。警備隊はあくまで、都の治安維持を目的とした組織だ。横浦まで出向くことはない。軍が配備されたとも聞かない。下手人が定かではなかった。それが、ここ一月ほどの間、ぱったり止んでいる。

 雪原が陸軍総裁となり、都に入った時期と一致する。


「あれだ、あれだ」

 木の隙間に小さな明かりが見え、義孝は嬉しそうに声を上げた。その明かりを目指し、険しい道をさらに進む。

 やっと、指定された小屋にたどり着いた。


 やや息を切らせながら義孝が戸を開けると、ろうそくの灯りだけの薄暗い中、すでに、十人以上の男たちが詰めていた。

 皆、見覚えのある顔ばかり。

 開世隊の中でも、楠木に近い、いわば幹部級の者ばかりだ。


「なんだ? 物々しいな」


 義孝が漏らす。柚月も同感だ。

 戸の近くに二人並んで腰を下ろすと、柚月は、小屋の中を見渡した。


 上座には、杉。ともう一人、見たことのない男が座っている。この薄暗い中でも分かる。あれは、かなり上級の人間だ。帯刀しているところを見ると武士なのだろうが、あの身なりの良さ。なにより、ただ座っているだけだというのに、開世隊の者たちとは明らかに違う、品格がある。


 だが、本来いるべき人物が見当たらない。


「楠木さんはいないのか?」

 

 柚月は不審に感じた。

 もう一度小屋の中を見渡す。

 が、やはり、いない。


「え?」

 義孝が聞き返した時、杉が口を開き、会話は打ち切られた。


「揃ったな、諸君。こんな所にまで呼び出してすまない」


「いや、まったくだぜ」

 義孝が小声でぼやく。よほど山道が辛かったらしい。

 いつもなら柚月が膝を小突いて注意するところだが、流した。

 小屋の中は、妙な緊張感が漂っている。


「皆知っているとは思うが、昨夜、江崎君が斬られた」

 男たちの顔が、悲しみにゆがむ。皆、旧知の仲だ。


「だが、悲しんでばかりもいられない。いや、だからこそ、前に進まなければならない。我々には、果たすべき目的がある」


 杉は演説のように、声を張り上げる。


「随分待たせてしまったが、ようやく準備が整った。今、萩から我らの同志達が、大量の武器を持って、都に向かっている」

 そこまで言うと、杉はいったん言葉を止め、

「海外から買い集めた武器だ!」

と、強調した。


「明日にも、羅山に到着するだろう。」


 男たちが高揚し、小屋の中が沸き立つ。


 羅山とは、都の三方を囲む山の内、西にある山だ。

 西側からの都の入り口である。

 萩から陸路で都に入るには、必ず通る場所。

 

 そんなところに、萩から同志達が来ているとは、どういうことなのか。海外から武器を買い集めたとはいったい。柚月には、話の筋が見えない。だがなぜか、鼓動が早まる。

 嫌な鼓動だ。


「速やかに軍をすすめられたのは、ほかでもない、ここにいらっしゃる剛夕様のお力添えあってのことだ。」


 小屋中の視線が、上座の男に一斉に注がれる。

 柚月は、あの方が、という驚きとともに、得体のしれない不安に襲われた。

 何か、自分の知らないうちに、知らないところで、何か、大きなものが動いている。何か。


 杉が勢いよく立ち上がり、鼓舞するように声を張り上げた。


「三日後、都に総攻撃を仕掛ける!」


 小屋中の男たちが一斉に立ち上がり、拳を突き上げる。雄叫びのような賛同の声が上がり、小屋は、異様な空気に包まれた。


 柚月は青ざめ、急いで外に出た。来た道を戻る。足が、どんどん速くなる。


「おい」


 義孝の声が追ってきた。

「おい、柚月。待てって。おい」

 近づいてくる。そして、柚月の腕を掴んだ。


「どこ行くんだよ」

「楠木さんのところだ。このことを知らせる」

「知らせるって。そんなことして、どうするんだ。」

「杉さんは暴走している。止めないと」

「止めるったって…」

 義孝は困ったような顔をしながらも、柚月の腕を放さない。


「俺たちがいない間に、萩では海外の武器を集めてたなんて」

「それは、しょうがないだろ。武器は必要じゃん」

「このままだと、戦になる。楠木さんは、話し合いで解決するって。そのために、政府の力を弱める必要があるって。だから、俺は――。」


 出かかった言葉が、のどで止まった。

 言ってはならない。

 それ以上に、柚月自身、言いたくない。


「これなら、俺は何のために」


 柚月が義孝の手を振りほどこうとすると、義孝はその腕を強く引き寄せ、肩を組んできた。 


「何のために、暗殺やってたかって?」


 義孝が耳元で囁く。その言葉が、柚月の心の深いところに、グサリ、と刺さった。

 頬が凍り付き、毒におかされたように動けない。


「悪りぃけど、杉さんだけじゃねえんだよ」


 義孝がそう言うと同時に、柚月は一瞬、殺気を感じた。

 反射的に身をひねったが、左の脇腹に冷たいものが走り、義孝を押しのける。

 手を当てると、温かいもので手が濡れた。


 なんだ。柚月は、頭の中が整理できない。なにが起こったというのか。


 ゆっくり、義孝を見る。義孝も柚月を見ている。長い付き合いの中、今まで一度も見たことがない、冷たい目で。

 そして、その手には、短刀が握られている。


「お前を逃がせるわけねえよ」

「義孝…」


 柚月の言葉を遮るように、草をかき分ける音がして、数人の男が現れた。さっき小屋にいた者たちだ。

 一歩遅れて、もう一人。木の葉の隙間から漏れた月光で、はっきりと見える。その姿に、柚月は目を見開き、息をのんだ。


「楠木さん?」


 目が合った。が、柚月が何を問うよりも先に、楠木が静かに口を開いた。


「殺せ」


 冷酷な音。

 それを合図に、男たちが一斉に抜刀する。

 反射的に柚月も刀を握った。が、ためらって抜けない。


 右側から一人が振りかぶってきて、柚月は咄嗟に抜刀し、それを受けた。押し合いながら、楠木を目で追う。


「楠木さん!」


 必死に呼んだ。


 押し払い、左袈裟に切り払うと、続けてもう一人が切りかかってきた。かわして、腕を斬りつける。

 肉を斬る感触。

 今、自分は仲間を切っている。なぜ、そんなことをしているのか。柚月は心が迷い、その迷いが太刀に表れ、自然、加減が入る。


 また別の男が襲い掛かってきて、それを切り払いながら、柚月は何度も楠木を呼んだ。

 切られた男が、うめき声をあげる。柚月は、罪悪感で胸が痛んだ。

 なんでこんなことに。自分は、今、何をしている。もう、止めたい。皆を止めてほしい。


「楠木さん!」


 楠木は黙ってただ見ていたが、やがて、何も言わずに、小屋に向かって歩き出した。その先に、呆然と立ち尽くしている人影が見える。

 あれは、剛夕だ。


「楠木さん!楠木さん!」


 柚月の声が、虚しく響く。


「いいのか?」


 剛夕は、いたたまれなかった。楠木は剛夕の視界を遮るように立つと、その背中に手をまわし、小屋の方に向けた。


「構いません。ただの、捨て駒ですよ」


 柚月は、体の中が一瞬にして凍り付いたようだった。


 捨て駒…。


 楠木の背中が、遠ざかっていく。

 師であり、父である人の背中が。

 ただの一度も、振り返ることなく、闇に消えていく。


 柚月の顔は青ざめ、体からは力が抜けていた。落ちた肩が、呼吸のたびに大きく上下している。

 義孝の目が、一瞬、悲しく沈んだ。そして、何かをかき消すように刀を強く握ると、抜いた。


 その姿が目の端に映り、柚月は刀を握る手に、精いっぱい力を込めた。そこへ、別の男が一人、切りかかってきた。

 柚月が受けようと力んだ、その瞬間、脇腹の傷がうずき、足が滑った。

 しまった!体勢を整えようとしたが、間に合わない。


 かすかに、風を切る音が鳴った。


 目の前の男が「ぎゃっ!」と声を上げたかと思うと、血しぶきが舞う。

 男は無抵抗に倒れ、首から血を吹き出しながら、絶命している。と同時に、男が持っていた刀が消えた。

 続いて、闇の中で、短い悲鳴のような声が続き、死体がごろごろと転がった。

 見事に斬られている。


 何が起こっているのか分からない。皆、うろたえ、脅え、やみくもに闇に刀を向けている。


 柚月と義孝は動揺しながらも、目を凝らして気配をうかがう。

 何かいる。だが、何がいる。


 闇を睨む二人の前に、刀が一振り放られた。

 刀が地面に当たる音。瞬間、二人ははじかれたように、その音の方を見た。


 誰もいない。


 が、柚月の元に、ふわりと温かな風が吹き、腕を掴まれた。懐に誰かが入り込み、掴まれた腕が、その人物の肩にかけられる。

 知っている顔。だが、にわかには信じられない。


 椿だ。


 柚月は驚きで大きく目を見開き、声も出ない。椿は柚月を抱え起こすと、そのまま走り出した。


「お、追え!」


 事態に気づいた義孝が声を上げと、ほかの者たちが、慌てて二人を追い始めた。


 足場の悪い険しい道を、手負いの柚月を抱えながら、椿は器用に走り抜ける。

 速い。

 ケガをしているとはいえ、柚月はついていくのがやっとだ。

 とはいえ、肩を組んだ状態では、そう速くは走れない。追っ手がすぐそこまで迫ってきている。姿が見えた。追い付かれる。

 

 応戦しようと、柚月が椿から離れようとした瞬間、逆に椿が柚月を抱き寄せ、そのまま、道から外れて、急勾配の斜面に突っ込んだ。


 低木の枝か、草か。なにか分からないものが、次々にぶつかってくる。

 少しでも体勢を崩せば、転がり落ちる。そうなれば、ただでは済まない。柚月は必死で全神経をとがらせた。一方椿は、柚月を支えながら、器用に木を避け、時に、斜めに伸びている木の根元を踏みつけて方向転換をし、どんどん下っていく。こんな急斜面なのに、滑っているのではない。走っている。


 男たちは、二人が飛び込んだ先を見下ろした。落ちていくような音は聞こえてくるが、それもどんどん小さくなっていく。

 姿は闇に消え、何も見えない。


「死んだな」

 一人が言う。

「いや、死体を確認するまで安心するな」

「行くぞ」

 男たちは再び、険しい道を駆け出した。


 急斜面は、永遠に続くのではないかと思うほど、長かった。


 死ぬかと思った。やっと平らな地面にたどり着き、柚月はへたり込んだ。椿は柚月を残し、近くの塀の陰から、あたりの様子をうかがっている。

 どうやら、都の端、町人たちの住居が立ち並ぶあたりらしい。


 幸い、まだ追っ手の気配はない。椿は素早く柚月の元に戻ってくると、座り込んでいる柚月を抱え起こし、歩き出した。柚月は、義孝に刺された傷のせいで、左足にうまく力が入らない。ほとんど引きずるような状態だ。   

 目がかすみはじめ、だんだん意識もぼやけてきた。出血がひどい。徐々に重くなっていく柚月を、椿は必死で支えた。進む速度も、だんだん落ちていく。


 大通りの近くまで来た時、人の気配に気づき、二人は家の陰に隠れた。数人。わずかに声も聞こえる。明らかに何かを探している。奴らだ。


 椿はあたりを警戒しながら、家の陰を選んで進んだ。歩を速める。だが、何かに躓き、柚月が倒れこんだ。息が荒い。柚月はなんとか上体を起こすと、そのまま壁にもたれかかった。


 屋根の端に、月が見えた。きれいな満月だ。


『殺せ』


 楠木の冷たい目が、脳裏によみがえる。捨てられた、という絶望。だが。頭のどこかで、いつかこうなるのではないかとも思っていた。「柚月」となった、あの夜から。


 もう、太陽を見ることはないかもな。かすんでいく意識の中で、柚月はそう思った。


 たどってきた道には、まるで道標のように血の跡が続いている。体は思うように動かない。追っ手の気配は近づいてきている。見つかるのも、時間の問題か。

 柚月は椿の肩を押した。


「行きな。あんた一人なら、逃げ切れるよ」

 そう言って、優しく微笑む。

「どこでもいい、武家屋敷に駆け込め。そこまで奴らは追ってこないから」

 微笑みも、肩を押す手も、力がない。

 椿は柚月の腕をぐっと掴むと、抱え起こす。


「もうすぐです」


 力強くそう言うと、柚月を抱えて再び歩き出した。


 武家屋敷が立ち並ぶあたりに来た頃には、柚月はほとんど、椿に引きずられるように歩いていた。追ってくる気配はもうない。


 椿は邸の裏木戸の前に立ち止まると、周囲に人気が無いことを確認し、木戸を開けた。

 中に入ると、柚月は椿の肩から滑り落ち、そのまま地面に倒れた。目の前に、敷き詰められた玉石が広がり、わずかに、湿った土の匂いがする。


「遅かったですね。心配しましたよ」


 男の声が降ってきた。穏やかな声だ。柚月はなんとか顔を上げ、声の方を見た。すぐそばに離れのような建物があり、男が一人、廊下に立っている。

 身なりのいい。見覚えがある。団子屋で椿と一緒にいたあの男だ。


「お通ししなさい」


 男は椿にそう言うと去っていき、椿はその後姿にかしこまって一礼した。




 大事な客でも来る予定だったのか、部屋には、一人分の座布団が用意されていた。

 椿は柚月をそこに座らせると、「ここでお待ちください」と言いおき、部屋を出て行く。障子戸に映った椿の影が、スーッと遠ざかり、消えた。それを見届けると、柚月は畳に手をついた。ただ座っているだけでも辛い。だが、ここはいったいどこなのか。


 二間続きの質素な部屋で、部屋を分ける襖は開け放たれ、奥の部屋に行燈が一つ灯されている。それ以外に灯りはない。床の間にかかっている掛け軸は、水墨画だろうか。上座には座布団と肘置きが一人分用意されている。


 しばらくすると、障子戸に影が映り、スーッと廊下を回ってくると、柚月の背後の障子戸が開いた。椿が木箱を持って入ってきて、

「傷を見せてください」

 柚月を半ば強引に諸肌脱ぎにさせると、ろうそくに火をつけ、脇腹の傷口を照らす。続いて、持ってきた木箱を開くと、箱からは、消毒液の匂いがした。


 椿は、手慣れた様子で処置をしていく。その様子を見ながら、柚月はやはり、何かが引っかかった。ずっと引っかかっている。何か分からないが、椿といると、何かが胸に引っかかる。その正体が分からず、もどかしい。


 包帯を巻き終えると、椿は柚月が着物を着るのを助けた。

「ありがとう」

 柚月の礼に、椿は目をそらし、「いえ」と応えた。


 よく見ると、椿も頬や手に、小さな傷がいくつもあり、着物もそうだが、首から顔にかけて、血が飛び散って汚れている。その量は、椿の傷には不釣り合いだ。頬や手の傷は山の斜面を駆け下りた時のものだろう。

 だが、血の汚れの方は。


 いつも帯に差している扇子が、やや飛び出していて、それにも血が飛んでいる。よく見ると、扇子の骨には、本来あるはずのない真一文字の線が入っていて、その線を境に、血の飛び散り方が違う。

 これまで帯に隠れていて気付かなかったが、普通の物よりやや大きい。しかも、鉄扇のようだ。いや。と柚月は思った。記憶の端に、これと同じようなものがある。

 これは、仕込み刀だ。


 柚月は、聞きたいことも聞かなければいかないこともあったが、頭がうまく回らない。出血のせいもあるが、なにより、もうこれ以上何かを知るのが怖い。

 代わりに、

「ケガ、大丈夫?」

 と聞いた。「え?」と聞き返す椿に、柚月は視線で教える。

 手の甲に、小さな傷がいくつかある。

 

 椿は初めて自身の傷に気が付き、

「ええ、大したことありません」

と、袖に引っ込めて隠した。


 柚月は、「そっか。」と漏らすと、少し間を置き、

「ありがとう」

 ともう一度言った。今度は、助けてもらった礼だ。だが、やはり、それ以上言葉が続かない。

 

 椿は、手当てに使った物を片付けていたが、その手を一瞬止めただけで、今度は答えなかった。淡々と片付け終えると、木箱を脇に置く。


 静かな間となった。


 ふいに、廊下を歩いてくる音が聞こえ、椿はさっと部屋の隅に控えた。奥の間の障子戸が開き、さっきの男が入ってきた。そして、肘置きが据えられた座に腰を下ろすと、柚月に向いた。


「こうして、きちんととお目にかかるのは初めてですね。柚月一華(ゆづきいちげ)さん」


 柚月は驚いた。名乗った覚えはない。


「いえ、開世隊お抱えの暗殺者、人斬り柚月さん」


 雷に打たれたような衝撃が走り、柚月は反射的に跳ね上がって構えた。

 

 どこで知った。どこまで知ってる。それは、開世隊の中でも、楠木に近い、ほんの一部の人間しか知らないことだ。


 思うように体が動かず、膝をついたままになったが、射抜くような鋭い目で男を捉えている。


 さっきまでとはまるで別人。

 その目は、人斬りの目だ。


 が、男は動じる様子もない。それどころか、


「いやあ、苦労しましたよ、あなたを見つけるの」

 と、苦笑した。


 柚月の方も動じない。構えの姿勢を崩さず、真直ぐに男を睨みつけている。その冷静さが、この青年が経験してきた修羅場の数を思わせる。

 さすが、人斬り、ということか、と男は密かに感心した。

 すっと真顔になる。


「ここ三年、随分政府の人間を斬ってくれましたね」


 男の声に、先ほどのような明るさはない。が、憎しみや怒りも感じない。ただただ冷静な声だ。


「犯行が始まった時期から、開世隊による暗殺だということは、すぐにわかりました。そしてその手口から、下手人は一人だということも。ですが、それ以上は、なかなか情報が無くてね。なんせ、あなたはいつも鮮やかすぎる。犯行に共通するのは二点。目的の人間しか殺さないということ、そして、その場に居合わせた者に、姿を見られないということ。多くの御仁が暗殺を恐れ、護衛をつけていた。にもかかわらず、見事に斬られ、護衛たちは怪我をしたのみで生きていました。ですが、下手人の姿をはっきり見た者は、ほとんどいない。突風が吹いただの、影が襲ってきただの、中には、女か少年だったと言う者もいて、かえってこちらも混乱しましてね。何より、姿を見られずに、特定の人間だけを斬る。そんなこと、人のなせる業なのかと、にわかには信じがたかったですよ」


 男の目に、鋭さが増した。本題に入る。


「半月ほど前です。あれは、本当に偶然でした。先に城を出られた大蔵卿、高良康景様を追っていた時のことです。梅小路あたりで追いつけると思っていたら、その手前で、何かを追う警備隊を見かけましてね。これはもしやと思い、私は護衛の者に追わせました。もし、彼らが追っている者が、捜している人斬りだったら、その場で斬らせるつもりで」


 柚月は、はっと気づいた。記憶が巻き戻され、半月ほど前の夜の出来事がよみがえる。

 命が下り、梅小路で大蔵卿、高良康景を斬った。が、その日は運が悪く、警邏(けいら)していた警備隊に遭遇し、追われることになった。

 そして、逃げるうちに出会ったのは――。


「椿は、私の護衛であり、その子もまた、人斬りなのです」


 男の言葉に、それまでずっと男を睨みつけていた柚月の目が、初めて動揺し、大きく見開かれた。


「付け加えておきますと、横浦での開世隊狩りも、昨日の、江崎、と言いましたか。開世隊の。あの男を斬ったのも、その子ですよ」


 柚月は男を警戒しながらも、ゆっくりと椿に視線を向けた。口の中が乾き、手は震えている。椿は部屋の隅に控えていて、柚月に一瞥もくれず、微動だにしない。


 そうか。と、柚月は合点がいった。椿といると感じる、胸の引っかかり。正体の知れない何か。それは、違和感。気配だ。椿にはいつも、気配がない。


 江崎が気づかなかったのも納得できる。柚月自身もそうだ。初めて会った時、追われていたとはいえ、ぶつかるまで椿に気づかなかった。町中で雪原に会った夜も同じだ。もしあの時、猫が現れなかったら。あの猫が、手をすり抜けなかったら。柚月は、椿に気づくことはなかった。あの時、椿は、柚月のすぐ後ろに立っていた。


 柚月を殺そうと。


 そうとも知らず、わざわざ邸近くまで送ったのか。柚月は自嘲し、視線が床に落ちた。

 川沿いを歩いたあの時間、柚月はいつの間にか、椿との会話に夢中になり、思わず心の内まで話した。この国を、いい国にしたい、弱い人が安心して暮らせる国にしたいと。

 楽しかったのだ。

 だが。そう思っていたのは、自分だけか。これまでの楽しかった思い出は、すべて、(まやかし)だったのか。開世隊の皆との思い出も、椿と歩いた、ほんのひと時さえも。自分だけが、何も知らず、気づきもせず。のんきなものだ。

 柚月は自身にあきれ、何もかもが嫌になりそうだった。体からは力が抜け落ち、かろうじて柄に手をかけているが、何をする気力もない。呼吸のたび、肩だけが動いている。


 まるで、荒波にもまれる木の葉のようだ。男は思った。まだ、二十歳にも届かないであろう若者が、なすすべもなく流され、のまれている。そしてそれは、時代の波が確かにそこにある、ということを、嫌がおうにも突き付けてくる。


 柚月がここで自暴自棄にならずに踏みとどまったのは、この青年が元来持つ性質の為だろう。それどころか、いや待て、と、まだわずかに思考が動いた。

 江崎は確か、雪原を追っていて斬られたはず。その下手人が椿と言うことは、この男は。


 柚月はゆっくりと顔を上げ、男を見た。


 男は居住まいを正す。


「申し遅れました。私は、陸軍総裁、雪原麟太郎と申します」


 丁寧に一礼した。


「あなたを脅すつもりはない。もちろん、殺すつもりもありません。ただ、椿もなかなかの腕ですから、その怪我です、ここで刀を抜かれることは、お勧めしません。」


 柚月が刀を抜けば、必然的に椿が応戦する。今の柚月では、椿に敵わないだろう、と雪原は思っている。

 何より、そんなことを望んではいない。


「あなたとは、一度ちゃんと話をしてみたいと思いましてね。今日、椿を迎えに行かせたのです」

「話・・・?」


 柚月には、雪原が何を言っているのか、よくわからない。自分なんかと、何を話そうというのか。色々な事が起こりすぎている。頭も、体も、心も、もう限界だ。何がなんだか、よく分からない。何が正解で、何が間違っているか。


 だが、その混乱の中でも、確かなものが、一つだけある。


「詳しい話はまた後日にしましょう。今日はゆっくり…」

 雪原も、客人が怪我を負ってくるとまで想像していなかった。柚月を気遣い、席を立とうとすると、柚月がそれを遮った。


「三日後、開世隊が総攻撃を仕掛けてきます」

 真直ぐに雪原を捉え、必死に声を振り絞る。

「羅山に援軍が。明日には到着します」


 これは裏切りだ。自身が裏切られたことも忘れ、柚月はそう思った。

 だが、それに勝る思いがある。

 柚月の思考は、もう、うまく機能していない。敵も味方も、善も悪もない。ただ、あるのは、


「都の人が、巻き込まれる」


 人々の姿が浮かんでいる。団子屋の娘。松屋や旭屋の人たち。露店の店主に物売り、通りには多くの人が行きかい、子供たちが走り回っている。

 皆、笑っている。


 あの人たちを、助けてほしい。


 今、柚月にとって、その思いだけが確かだった。


 雪原はゆっくり歩み寄ると、そっと柚月の肩に手を置いた。

「椿から聞いています。大丈夫。もう、手は打ってありますよ」

 柚月ははじかれたように顔を上げた。目の前に、雪原の優しい微笑みがあった。


「明日にも、剛夕様と話してみましょう。あの方と和解できれば、開世隊も武力行使する大義名分を失います。三日後の総攻撃とやらは、避けられるでしょう」

 柚月は安堵したように頷くと、雪原にもたれかかるように倒れこんでしまった。


「おやおや」

 雪原は抱きとめてやった。近くで見ると、なるほど、青年というよりは、まだ少年のようだ。

 素早く椿が近づいてきて、柚月を預かった。


「『都の人が』…か」

 雪原は、椿の腕の中でぐったりしている柚月を見ながら、ぼそりとつぶやいた。


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