6.誰も助けない
嫌な予感が的中した。
車両内の全員が、死んでいた。
女性の方が比較的多いが、男性もちらほら見かける。その誰もが、首を大きく下げて死んでいる。奇妙にのっぺりとした電車は、死体を載せて走っていた。
薄暗い照明のもと、俺は出入り口のドアに背を預けている。正直、少し後悔していた。こんな異様な事態に陥るとは思いもよらなかった。
いったいこれは何だ。
「蛍沢駅」
「うわっ!」
不意に、一番近くにあった死体が俺を見た。
「蛍沢駅で降りろ」
そして、あろうことか喋りかけてきた。
窓の外を流れる街明かりに目を向け、聞こえないふりをした。こめかみを汗が伝う。
「降りろ」「蛍沢駅」「降りろ」「蛍沢駅」
まるで合唱だった。
車両内の死体が、一斉に俺を見る。濁り切った瞳でこちらを見つめ、口々に蛍沢駅で降りろと声を発する。
「くっそ。怖ぇ……。何なんだよ」
言われなくても、もともと降りるつもりだ。小舘さんを助けるために、俺はこの電車に乗ったのだ。
「降りるよ。だから、小舘さんを返せ」
そう言うと、死体たちは再び首を落とし、静かになった。
もう何も言うことはないのかも知れない。
得も言われぬ奇妙な静寂の中、俺はじっと待った。こんなにも人影があるのに、こんなにも人の気配を感じないという体験は初めてだった。気味が悪くて震えが止まらない。
早く蛍沢駅とやらに到着して欲しい。ただそれだけを考え、異様な状況に耐え続けた。
『次は、蛍沢駅。次は、蛍沢駅』
体感で三十分くらいだろうか、ようやく到着した。
窓の外は暗くてよく見えない。小さな駅舎だけが薄明りを灯していた。
電車はゆっくりと速度を落とし、ホームに滑り込んでいく。目を凝らすと、蛍沢駅と書かれた駅名標が見えた。
「小舘さん……」
無事でいてくれ。
その祈りが通じたのか、ホームにぽつんと佇む人影が見えた。小柄なショートカットの女性。
いつも人の様子を怯えるように窺っている。そんな目をした人。マイペースに生きたくて、でもうまくできない。不器用な人。
「小舘さん!」
無事だった。彼女はまだ生きていた。
電車が止まり、ドアが開くと、俺は慌ててホームに飛び降りた。
「浜懸くん……」
少しきつめな目つきも、人を遠ざける一因なのかも知れない。下から睨むように俺を見る小舘さん。たぶん、本人に睨んでいるつもりはないんだろう。
「良かった。無事だったか。さあ、帰ろう」
「うん……」
小舘さんは小さく頷き、電車の入り口に立った。
「小舘さん?」
そのまま、小舘さんは立ち止まった。
俺は片足だけを電車に乗せ、彼女の様子を窺う。
「どうした?」
「浜懸くん」
「なに? 電車、もう出るぞ」
嫌な予感がして、俺は小舘さんを押し込むようにして電車に乗り込んだ。
「ごめんね」
やっぱりな。
俺の体は斜めに傾ぎ、ホームに投げ出された。小舘さんが俺を突き飛ばしたのだ。
「借りは必ず返すから」
「ホントかよ……」
くそ。
俺はどうなってしまうんだ。
「浜懸くんが、まだ生きていたらね」
ドアが閉まる。
「一生の不覚だよ、くそ女」
「じゃあね。わたし、帰ってゲームするんで」
ドア越しに、こもった小舘さんの声が聞こえた。
慌てて手を伸ばしたが、動き出した電車に再び突き飛ばされた。
「痛ぇ……!」
暗いホームに転がり、俺は空を仰いだ。こんなにも暗いのに、星はひとつも見えなかった。
「よ、ようこそ。浜懸くん」
声を掛けられ、俺は跳ね起きる。
「だ、誰だよ!」
「俺は蛍沢。お、俺と一緒にいよう。ずっと、俺と一緒に……」
◆
あれから、浜懸くんは出社していない。
どうやら、わたしはうまく逃げ切れたみたいだった。完全に日常を取り戻した。あの奇妙な駅や電車には、もう遭遇していない。ストーカー男の顔も、もう見ていない。
やっぱりな。
あのとき、そういう顔をしてホームに転がり落ちた浜懸くんの姿が脳裏をよぎる。
本当に申し訳ないと思っている。もし生きて帰ってきたら、借りを返そうとも思っている。胸がズキリと痛んだ。好意に裏切りで返した罪悪感に、帰宅する足が重くなった。
浜懸くんは、あの薄暗い蛍沢駅にいまも捕らわれているんだろうか。それとも、首を思い切り下げて、あの電車に乗っているんだろうか。
そんなことを考えていると、不意に携帯端末が震動した。メッセージの着信を告げている。送信者は文字化けしていて分からなかった。
『蛍沢駅にて君を待つ』
ぞっと身の毛がよだつ。端末を持つ手が震えた。
「浜懸くん……?」
駅に向かう足を止める。あの奇妙に静かな駅を思い出し、わたしは立ちすくむ。
携帯端末の電源を落とし、タクシーを拾った。わたしは助けに行くつもりはない。蛍沢駅にまた行くつもりもない。あんなのは、もうごめんだ。
電源を落としたはずの端末に、ぼんやりと文字が浮かぶ。
『蛍沢駅にて君を待つ』
タクシーの窓を開け、運転手の瞠目をよそに携帯端末を投げ捨てた。
あんな思いをするくらいなら、わたしは独りでいい。誰もわたしを助けてくれないとしても構わない。浜懸くんはわたしを助けに来てくれたけれど、わたしは助けに行かない。ほら、誰かを助けたとしても、それが返ってくるとは限らないじゃないか。わたしみたいなやつが、恩を仇で返すんだ。
雑音と共に、タクシーの無線が喋りだす。
『蛍沢駅にて君を――』
わたしは耳を両手で塞いだ。
聞こえない。見えない。わたしは独りでいい。
わたしは、誰も助けない。